第3話 ひまりのいない日
六時間目は英語だった。
教室は静かだったが、それは授業へ集中しているからではなく、昼休みに起きた出来事が誰の頭にも残っていたからだろう。教師の説明を聞きながらも、何人かは時折保健室の方へ視線を向け、ひまりの席を気にしていた。
席は空いたままだった。
遼も教科書を開いてはいたが、ほとんど内容は頭へ入ってこない。ふと気が付くと、さっき見た集合写真のことを思い返していた。
あの写真の何がいけなかったのだろう。
何度考えても分からない。
誰か知っている人でも写っていたのか。それとも、写真そのものが苦手だったのか。考えたところで答えは出なかった。
終礼のチャイムが鳴ると、担任は出席簿を閉じながら教室を見回した。
「夏川は今日はそのまま早退するそうだ。体調は落ち着いてきたみたいだから、あまり心配しなくていい」
その一言で教室の空気が少しだけ緩む。
「びっくりしたよな」
「急に動かなくなったもん」
「過呼吸ってああなるんだ」
鞄へ教科書をしまいながら、生徒たちは休み時間の話を始めていた。心配する声もあれば、「疲れてたのかな」と軽く受け止める声もある。どちらにせよ、まだ誰も大事には考えていないようだった。
「帰るか」
榊が立ち上がる。
二人は並んで教室を出た。
昇降口へ向かう廊下には、部活動へ急ぐ生徒たちが行き交っている。窓から差し込む西日が長く廊下を照らし、夏の終わりらしい湿った風がゆっくり吹き抜けていった。
「夏川さん、大丈夫かな」
榊がぽつりと呟く。
「さあ」
「何か持病とかあるのかね」
「知らない」
「まあ、明日来れば分かるか」
遼も頷いた。
その話はそこで終わる。
校門を出ると、榊とは反対方向だった。
「じゃあまた明日」
「また」
榊は手を挙げ、そのまま駅の方へ歩いていく。
遼は住宅街へ続く道を一人で歩き始めた。
夕方になると気温も少し下がり、昼間より歩きやすい。部活帰りの中学生が自転車で追い越していき、犬を散歩させる老人とすれ違う。いつもと変わらない帰り道だった。
それでも、ひまりが写真を見つめていた顔だけは、不思議なくらい頭から離れなかった。
あれは体調を崩した人の顔ではない。
もっと別の何かを見ているような、そんな表情だった。
遼は考えかけて、小さく首を振る。
自分が気にしたところで、どうにもならない。
そう思い直し、家へ向かって歩き続けた。
翌朝、教室へ入ると、ひまりの席は空いていた。
「やっぱ休みか」
榊が鞄を机へ置きながら呟く。
「昨日あれだけ具合悪そうだったしな」
遼は返事をせず、自分の席へ座った。
始業前の教室は昨日と同じように騒がしかったが、その話題の中心だけが少し違っていた。
「夏川さん、大丈夫かな」
「病院行ったのかな」
「インフルじゃないよね?」
「今の時期に?」
そんな会話が聞こえてくる。
誰も深刻そうではない。
昨日は驚いたものの、一晩経てば「体調不良だったらしい」という認識に落ち着き始めていた。
一時間目が始まる直前、担任が教室へ入ってくる。
「夏川は今日も欠席だ。体調は回復しているそうだから、心配しすぎなくていい」
それだけ言うと、何事もなかったように出席を取り始めた。
教室も、それ以上は追及しなかった。
高校生というのは案外あっさりしている。
誰かが休めば最初は心配する。
けれど、その人がいない学校生活にもすぐ慣れてしまう。
昼休みになる頃には、話題は昨日の発作から来月の文化祭へ移っていた。
「クラス展示どうする?」
「お化け屋敷やりたくね?」
「去年やったクラスあるじゃん」
「じゃあ喫茶店?」
あちこちでそんな声が飛び交う。
遼は購買で買ったパンを持って席へ戻ると、窓を開けて外を眺めながら昼食を取り始めた。
「やっぱここにいた」
榊が紙パックのジュースを片手にやって来る。
「一人飯?」
「別に」
「昨日から元気ないな」
「そうか?」
「そうだよ」
榊は前の席へ腰掛けると、ストローをくわえながら遼を見た。
「夏川さんのこと気にしてる?」
「……少し」
「意外だな」
「何が」
「秋月って、あんまり他人に興味ないと思ってた」
その言葉に、遼は少しだけ考えた。
興味。
そう言われると、何が気になっているのか自分でもよく分からない。
心配なのかもしれない。
昨日のあの様子を見れば、普通はそう思う。
でも、それだけではない気もした。
あの瞬間、ひまりは何を見ていたのか。
なぜ集合写真を見ただけで、あんな表情になったのか。
その答えを知りたい。
そんな気持ちが、心配とは別に胸の中へ残っていた。
「……まあ、気になるだろ」
そう答えると、榊は「それもそうか」と頷いた。
ちょうどそのとき、教室の前方で誰かが声を上げた。
「夏川さんから返信きた!」
女子たちが一斉にスマートフォンを覗き込む。
「『心配かけてごめんね! 明日は行けそう!』
「だって」
「よかったー!」
「スタンプ送っとこ」
教室の空気が少しだけ明るくなる。
その輪の外から眺めながら、遼は昨日と変わらない笑顔のスタンプを見つめていた。
画面の中のひまりは、いつものひまりだった。
翌日、ひまりは登校してきた。
朝のホームルームが始まる少し前、教室のドアが開くと、「おはよー!」という聞き慣れた明るい声が響く。その瞬間、「お、来た」「大丈夫だった?」と何人もの声が一斉に飛び、教室は昨日までの空気が嘘だったかのような賑やかさを取り戻した。
「心配かけてごめんね!」
ひまりは申し訳なさそうに笑いながら頭を下げる。
「もう元気だから!」
「ほんとに?」
「ほんとほんと!」
その笑顔は、転校してきた日と何も変わらなかった。
一昨日、保健室へ運ばれていった人物と同じ人間には見えないほどだった。
遼は少し離れた席からその様子を眺めていた。
無理をしているようにも見えない。
顔色も悪くない。
いつものように笑い、いつものように周りを笑わせている。
「秋月くん!」
不意に名前を呼ばれる。
顔を上げると、ひまりがこちらへ歩いてきていた。
「おととい、ごめんね。」
「俺?」
「うん。びっくりしたでしょ?」
「まあ。」
「ほんとごめん。」
そう言って苦笑する。
少しだけ困ったような笑い方だった。
「もう大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。」
ひまりは両手を軽く振ってみせる。
「昔からたまにあるんだよね。」
「病気?」
「んー……病気っていうか。」
そこまで言って、少しだけ言葉を探すように視線を泳がせる。
「なんか、急に昔のこと思い出しちゃう時があって。」
「昔?」
「うん。」
それ以上は話さなかった。
ひまりは「あ、先生来た」と小さく笑うと、そのまま自分の席へ戻っていく。
遼はその背中を見送りながら、昨日より少しだけ答えに近付いた気がした。
昔のこと。
集合写真。
その二つが頭の中で並ぶ。
もちろん、それだけでは何も分からない。
けれど、少なくとも体調不良ではなかったらしい。
始業のチャイムが鳴る。
担任はひまりの顔を見ると、「もう平気なのか」と一言だけ声を掛けた。
「はい! ご心配おかけしました!」
教室の何人かが安心したように息をつく。
そのままホームルームが始まり、昨日の出来事は、少しずつ教室の日常へ溶け込んでいった。
それから数日間、ひまりは何事もなかったかのように学校へ通った。
昼休みには女子たちと弁当を食べ、体育では男子に混ざってバレーをし、放課後には駅前へ寄り道をして帰る。笑顔は相変わらずで、あの日の出来事を自分から話すこともなかった。
教室も同じだった。
誰も蒸し返さない。
「もう大丈夫なんだ」と、自然にそう思い始めていた。




