第2話 ひまりの異変
翌週になっても、ひまりの勢いは変わらなかった。
朝は教室へ入るなり誰かの席へ向かい、「おはよー!」と大きな声で挨拶をする。休み時間になれば男女問わず誰かと話し、昼休みには机をくっつけて弁当を食べ、放課後には「また明日ね」と笑いながら手を振って帰っていく。その姿はあまりにも自然で、転校生という特別感は、もうほとんど残っていなかった。
だからこそ、遼は少し不思議だった。
自分なら、あんなふうにはできない。
初対面の相手へ臆せず話しかけ、誰とでも同じ距離で接し、教室の空気を自分のものにしてしまう。努力している様子すら見えないのに、それができてしまう人間がいることを、遼は少しだけ羨ましく思った。
「秋月くん」
また声がした。
最近、この呼ばれ方にも慣れてきた。
「今日のお昼、一緒に食べよ」
「俺?」
「うん」
「いつもの友達は?」
そう尋ねると、ひまりは教室の前を指差した。
「ほら」
女子グループの中心で、数人がこちらを見て笑っている。
「たまには男子とも話してきなって追い出された」
「それ、本当?」
「半分本当」
「半分は?」
「私が勝手に来た」
そう言って笑う。
結局、その日の昼休みは榊も交えて三人で弁当を食べることになった。
「秋月、お前いつの間に仲良くなったんだよ」
「いや、別に」
「いやいや、一番話しかけられてるじゃん」
「そう?」
遼には実感がなかった。
ひまりは誰にでも話しかける。
自分だけ特別というわけではない。
そのはずだった。
「秋月くんってさ」
ひまりが箸を止める。
「人の顔見るの好き?」
「急に何」
「なんか、話してる時ずっと見てくるから」
「見てないと思うけど」
「見てる見てる」
遼は少し考えた。
「……話してる相手を見るのって普通じゃない?」
「普通だけど、秋月くんは何か違う」
「違う?」
「観察してる感じ」
その言葉に、遼は少しだけ笑った。
「気のせいだよ」
「そっか」
ひまりも深くは追及しなかった。
けれど、その会話を聞いていた榊だけは、小さく首を傾げていた。
「まあ確かに」
弁当を食べながら呟く。
「秋月って昔からそういうとこあるかもな」
「どういうこと?」
「人のこと、よく見てるじゃん」
「そうか?」
「覚えてない? 一年の時、佐藤が先生に怒られて泣いたやつ」
「ああ」
「俺もう忘れてたのに、お前だけ細かいことまで覚えてたじゃん」
遼は少し考える。
確かに覚えていた。
何で怒られていたのか。
泣きながら何を言っていたのか。
教卓の横で、どんな顔をしていたのか。
不思議なくらい、細かく思い出せた。
「記憶力がいいだけじゃない?」
「そうなのかね」
榊は納得したような、していないような顔で肩をすくめた。
ひまりはその話にあまり興味がなかったのか、「ごちそうさま」と両手を合わせると、空になった弁当箱を鞄へしまいながら立ち上がる。
「じゃ、私ちょっと職員室行ってくる!」
「何しに?」
「プリント出し忘れた!」
そう言い残して教室を飛び出していく。
その背中を見送りながら、榊がぽつりと笑った。
「ほんと元気なやつだな」
「ああ」
遼も頷く。
あんなふうに笑う人を見ていると、こっちまで少しだけ明るい気持ちになる。
五時間目は現代文だった。
教壇に立つ教師の声を聞き流しながら、遼は教科書を開いていた。眠くなるほど退屈な授業だったが、不思議と教室全体は静かだった。夏休み明け最初の授業ということもあって、誰もがまだ学校の空気を思い出している途中なのかもしれない。
ふと前を見る。
ひまりは真面目にノートを取っていた。
転校してきてから二週間。授業中まで騒がしいタイプなのかと思っていたが、意外にも先生の話はきちんと聞くらしい。時折頷きながら板書を書き写す横顔は、昼休みに笑っていた姿とは少し印象が違って見えた。
窓から風が吹く。
前髪が揺れる。
その瞬間、ひまりは消しゴムを落とした。
「あっ」
小さな声を漏らしながら椅子を引く。
転がった消しゴムは机と机の間を抜け、遼の足元までやって来た。
「ごめん」
遼は拾い上げて机の前まで歩き、それを差し出した。
「ありがと」
ひまりは受け取りながら笑う。
「今日二回目」
「そうだっけ」
「昼休みにお箸も拾ってくれた」
「ああ」
「優しいね、秋月くん」
「たまたまだよ」
「そういうことにしとく」
教師が咳払いをする。
二人は慌てて席へ戻った。
授業が終わると、ひまりは廊下へ出るなり女子たちに囲まれ、そのまま笑いながらどこかへ行ってしまった。
「完全に人気者だな」
榊が教室の後ろからその様子を眺めている。
「転校生補正って一週間くらいで切れるもんだと思ってたけど」
「夏川は違うんだろ」
「まあ可愛いしな」
榊は何気なくそう言うと、少し声を潜めた。
「男子の間でも結構話題になってるぞ」
「そうなんだ」
「そうなんだ、じゃないだろ」
榊は笑う。
「秋月はどうなんだよ」
「何が」
「夏川さん」
「どうって?」
「可愛いと思う?」
少しだけ考える。
「……思う」
「即答じゃねえか」
「聞いたのそっちだろ」
「じゃあ脈ありそう?」
「ない」
「何で」
「誰にでもあんな感じだから」
遼がそう言うと、榊は「それもそうか」と笑った。
実際、その通りだった。
ひまりは誰にでも同じように笑う。
誰にでも同じように話しかける。
遼だけが特別ということはない。
だから、勘違いする方がおかしい。
そのとき、教室の後方から声が聞こえた。
「え、アルバムあるの?」
「あるある!」
「見たい!」
女子たちが教室後ろの棚から数冊の卒業アルバムを運んできて、机の上へ広げ始める。
「去年の卒業生?」
「先生若っ」
教室のあちこちで笑い声が上がる。
アルバムは教室のあちこちへ回され、ページをめくるたびに「あ、この人知ってる」「先生若い」「髪あるじゃん」と笑い声が上がっていた。
遼も榊と並んでページを眺めていたが、知っている先輩は思ったより少なかった。部活動で何度か見かけた顔や、文化祭で話した記憶のある名前を見つけるたび、「懐かしいな」と榊が呟く。
「夏川さんも見る?」
誰かがそう言うと、ひまりは「見る見る!」と嬉しそうに輪へ加わった。
初めて見る学校の卒業アルバムが珍しいのだろう。ページをめくるたびに、「この制服かわいい」「文化祭楽しそう」「先生若っ」と声を弾ませている。
「これ体育祭?」
「そうそう」
「え、リレー速そう!」
「いや、この人めっちゃ遅かったよ」
「うそだぁ」
周りが笑う。
ひまりもつられて笑う。
そのまま何ページかめくり、文化祭の写真、修学旅行の写真、生徒会活動の写真を眺めながら、楽しそうに一枚一枚へ目を通していく。
そして、クラス全員が並んだ集合写真のページで、その手が止まった。
「だから失礼だって」
ページをめくろうとしていた右手が、そのまま紙の端へ触れたまま動かない。
最初は、誰も気に留めなかった。
「この先生、今と全然違う」
「若いね」
「まだ髪ある」
別のページを見ている生徒たちは相変わらず笑っている。
ひまりだけが、一枚の写真を見つめたままだった。
遼は何となくその様子が気になった。
笑っていない。
さっきまであれだけ楽しそうにしていたのに、急に表情が消えている。
「夏川?」
近くにいた女子が声を掛ける。
返事はない。
「どうした?」
肩を軽く叩く。
ひまりの身体がわずかに揺れる。
それでも視線は写真から動かなかった。
遼も一歩だけ近付く。
写真には、クラス全員が並んで笑っているだけだった。
何か変わったものが写っているようには見えない。
それでも、ひまりはその一枚から目を離せずにいた。
やがて、小さく息を吸う音が聞こえた。
一度。
また一度。
呼吸が浅い。
胸だけが細かく上下している。
「ひまり?」
今度は少し強めの声だった。
ようやく反応したかと思うと、ひまりの唇がわずかに震えた。
「……ごめ」
それだけだった。
言葉は最後まで続かなかった。
アルバムの上へ、一滴の雫が落ちる。
誰かが「え?」と声を漏らす。
教室の笑い声が、少しずつ止んでいった。
「夏川?」
もう一度、誰かが名前を呼ぶ。
ひまりは返事をしなかった。
焦点の合っていない目が写真へ向けられたまま、小さく肩を震わせている。
周囲もようやく異変に気付き始めた。
「どうしたの?」
「気分悪い?」
女子が二人、ひまりの顔を覗き込む。
ひまりは何かを言おうと口を開くが、言葉にならない。
代わりに浅い呼吸だけが何度も繰り返される。
「ちょっと、水持ってくる!」
誰かが廊下へ飛び出した。
別の女子が背中をさする。
「大丈夫、大丈夫だから」
その言葉にも反応はない。
ひまりの視線は、まだ写真に縫い付けられたままだった。
遼は無意識のうちにアルバムへ目を落とす。
クラス写真。
前列でしゃがむ生徒。
後列で肩を組む男子。
中央には担任らしき教師が立っている。
どこにでもある集合写真だった。
少なくとも、遼にはそう見えた。
「夏川、保健室行こう」
担任が教室へ入ってきた。
騒ぎを聞きつけたのだろう。
ひまりの前へしゃがみ込み、穏やかな声で話しかける。
「立てるか?」
返事はない。
細く息を吸い込む音だけが続く。
担任は一度だけ周囲を見回し、近くにいた女子へ声を掛けた。
「悪いけど、一緒に来てくれるか」
「はい」
二人が両側から腕を支える。
ひまりはゆっくり立ち上がった。
足元がおぼつかない。
歩こうとしても力が入らないのか、小さくよろける。
それでも一歩ずつ廊下へ向かって歩き始めた。
教室には妙な静けさが残った。
さっきまで笑っていた空気が、跡形もなく消えている。
「……何だったんだ?」
誰かが小さく呟く。
「貧血?」
「過呼吸じゃない?」
「え、急に?」
教室のあちこちで小声が交わされる。
そのどれもが、推測だった。
遼も何も分からなかった。
ただ一つだけ気になったことがある。
ひまりは、苦しそうだった。
泣いているわけでもない。
叫んでいるわけでもない。
それなのに、何かとても恐ろしいものを見てしまった人の顔をしていた。
遼はもう一度、机の上へ開かれたままのアルバムを見る。
やはり、どこにでもある集合写真だった。
笑っている生徒たち。
笑っている先生。
ありふれた学校の風景。
それ以上のものは何も写っていない。
「秋月」
榊が横から声を掛ける。
「授業始まるぞ」
「ああ」
返事をしながらも、遼はもう一度だけ廊下へ目を向けた。
保健室の方へ続く廊下には、もう誰の姿も見えなかった。




