第24話 何もしないのがいい
翌朝、遼が目を覚ましたときには、電話は切れていた。
時刻は六時四十分。
枕元のスマートフォンには、午前五時十二分に通話が終了した記録が残っている。通話時間は六時間を超えていた。
その下には、ひまりからメッセージが届いていた。
『また寝落ちした』
『ごめん笑』
送信時刻は五時十三分。
遼は少し考えてから返信する。
『起きるの早くない?』
数秒で既読が付いた。
『おはよ』
『秋月くんもじゃん』
『学校あるから』
『私もあるよ』
『知ってる』
『今日眠かったら秋月くんのせいね』
『何でだよ』
『電話切らなかったから』
『夏川が切らないでって言ったんだろ』
少し間が空く。
『そうでした』
そのあと、頭を下げているスタンプが送られてきた。
遼は笑ってスマートフォンを置いた。
学校へ着くと、ひまりはもう教室にいた。
「おはよ。」
遼が席へ向かう途中で声を掛ける。
「おはよー。」
いつもの声だった。
ただ、少し眠そうだった。
「眠そう。」
「誰のせい?」
「夏川。」
「秋月くん。」
「夏川。」
「秋月くん。」
「何で俺なんだよ。」
「朝まで電話繋いでた人。」
「切らないでって言った人。」
「そこは優しさで切るところじゃん。」
「じゃあ次から切る。」
「それは嫌。」
「どっちだよ。」
ひまりは笑った。
その声を聞いて、美咲が振り返る。
「何の話?」
「あ。」
ひまりが一瞬だけ止まる。
「何でもない。」
「怪しい。」
「何でもないって。」
美咲が二人を交互に見る。
「朝まで電話?」
遼はひまりを見る。
ひまりも遼を見る。
「……聞こえてた?」
「普通に。」
美咲は呆れたような顔をした。
「何してんの、あんたら。」
「違うの。」
「何が。」
「昨日ちょっと寝られなくて。」
「ああ。」
美咲の表情が変わる。
「昨日の?」
「うん。」
「そっか。」
それだけで納得したらしい。
「で、秋月くんに電話したんだ。」
「うん。」
「朝まで?」
「寝落ちしちゃって。」
「また?」
「またって何。」
「前もしてたじゃん。」
「何で知ってるの?」
「ひまりが言ってた。」
「私か。」
「自分じゃん。」
美咲は笑った。
ひまりも笑う。
けれど、そのあと美咲は少しだけ遼を見た。
「大変だね、秋月くんも。」
「別に。」
「夜中まで付き合わされて。」
「俺も寝てたし。」
「ならいいけど。」
美咲はそう言って自分の席へ戻っていった。
遼は何となく、その背中を見た。
「美咲、何か怒ってた?」
ひまりが小声で聞く。
「そう?」
「ちょっと。」
「気のせいじゃない。」
「かなぁ。」
ひまりは首を傾げ、それからすぐ別の友達に呼ばれて席を離れた。
一時間目が始まる。
遼はノートを取りながら、朝の美咲の言葉を思い返していた。
大変だね。
別に大変ではない。
むしろ。
そこまで考えてやめた。
昼休み。
ひまりは珍しく教室にいなかった。
「夏川さんは?」
榊が弁当を開きながら聞く。
「知らない。」
「知らないのかよ。」
「何で俺が知ってる前提なんだよ。」
「最近セットみたいになってるじゃん。」
「なってないだろ。」
「なってるって。」
榊は笑う。
「朝も何か話してたし。」
「普通に話しただけ。」
「はいはい。」
「何だよ。」
「何でもねえよ。」
榊は卵焼きを口へ放り込んだ。
少しして、教室のドアが開く。
ひまりと神谷だった。
「だから俺が持つって。」
「大丈夫だって。」
「危ねえだろ。」
「紙だよ?」
「量の問題。」
二人とも大量のプリントを抱えている。
「文化祭終わったのにまだ働いてんのか。」
榊が呆れたように言う。
「実行委員のまとめだって。」
神谷が答える。
「先生が急に言うんだよ。」
「お疲れ。」
「ほんとそれ。」
神谷は教卓へプリントを置いた。
ひまりもその横へ自分の分を置く。
「腕疲れたー。」
「だから持つって言っただろ。」
「半分持ってもらったじゃん。」
「最初全部持ってただろ。」
「持てたもん。」
「危なっかしいんだよな、夏川。」
「神谷くんが過保護なんだって。」
二人が笑う。
遼はそれを見ていた。
以前にも何度も見た光景だった。
神谷は誰にでも親切だ。
ひまりも誰とでも笑う。
何も特別ではない。
「秋月。」
榊が小さく声を掛ける。
「何。」
「顔。」
「何。」
「いや。」
榊が少し笑う。
「分かりやすくなったなと思って。」
「何が。」
「嫉妬。」
「してない。」
「してんじゃん。」
「してないって。」
「じゃあ何でずっと神谷見てんだよ。」
「見てない。」
「見てるだろ。」
「榊も見てるじゃん。」
「俺はお前見てたんだよ。」
「それは気持ち悪い。」
「前もこの会話したな。」
榊が笑った。
遼も少しだけ笑う。
嫉妬。
それなら、まだ分かる。
自分はひまりが好きなのだ。
神谷と仲良くしているところを見て、少し面白くない。
普通のことだ。
その日の午後、体育の授業があった。
男子は体育館。
女子はグラウンド。
授業が終わり、遼たちが昇降口へ向かっていると、先に授業を終えた女子たちが廊下に集まっていた。
「寒っ。」
「今日やばい。」
「手死んだ。」
そんな声が飛び交っている。
その中に、ひまりもいた。
美咲と話している。
普通だった。
遼は通り過ぎようとした。
「秋月くん。」
ひまりに呼ばれる。
「何。」
「手貸して。」
「何で。」
「いいから。」
差し出す。
ひまりが両手で握った。
「冷たっ!」
遼は思わず手を引く。
「でしょ?」
「何してんの。」
「外めっちゃ寒かった。」
「俺で暖を取るなよ。」
「いいじゃん。」
「カイロ買え。」
「ケチ。」
ひまりは笑う。
その横で美咲がじっと二人を見ていた。
「何。」
ひまりが気付く。
「いや。」
美咲は少し笑う。
「仲良くなったなと思って。」
「そう?」
「うん。」
「秋月くん友達だから。」
「友達ねえ。」
「何その言い方。」
「別に。」
美咲は先に歩き出した。
「早く着替えよ。」
「あ、待って。」
ひまりもそのあとを追う。
遼は自分の手を見る。
まだ少し冷たかった。
「秋月。」
横から榊が言う。
「何。」
「ニヤけんなよ。」
「ニヤけてない。」
「いや、今のはニヤけてた。」
「うるせえ。」
「青春だな。」
「黙れ。」
榊が笑う。
遼も少し笑った。
こういうのなら分かる。
手を握られて嬉しい。
好きな女の子なのだから当然だ。
昨日、袖を掴まれたときと同じ。
同じ。
そう思った。
放課後。
遼が帰り支度をしていると、ひまりがやって来た。
「今日、一緒に帰る?」
「美咲は?」
「先帰った。」
「珍しいな。」
「用事あるって。」
「いいよ。」
「やった。」
二人で校門を出る。
風が冷たかった。
「もう冬じゃん。」
ひまりが手を擦る。
「まだ十一月だろ。」
「十一月は冬。」
「秋じゃない?」
「寒かったら冬なの。」
「雑だな。」
「秋月くんは秋だから秋好きそう。」
「名前で季節決めんなよ。」
「じゃあ夏川だから私夏好き。」
「好きなの?」
「暑いから嫌い。」
「ダメじゃん。」
「秋月くんは?」
「夏は嫌い。」
「ほら。」
「何がほらなんだよ。」
二人で笑う。
駅前まで来たところで、ひまりが少しだけ歩く速度を落とした。
「ねえ。」
「何。」
「昨日のことなんだけど。」
「うん。」
「私さ。」
少し迷う。
「やっぱ秋月くんいると、楽なんだと思う。」
「何が。」
「フラバ。」
遼も足を緩めた。
「今日ずっと考えてた。」
「うん。」
「前は美咲がいると安心してたんだけど。」
「今は違うの。」
「違うっていうか……。」
ひまりは困ったように笑う。
「美咲って、すごい心配するじゃん。」
「そうだな。」
「心配されると、ちゃんとしなきゃって思うの。」
遼は黙って聞く。
「早く戻らなきゃとか、大丈夫って言わなきゃとか。」
「うん。」
「でも秋月くん、何も言わないから。」
「それ褒めてる?」
「褒めてる。」
「ならいいけど。」
「ただいるだけ。」
「それ悪口じゃん。」
「違うって。」
ひまりが笑う。
「何もしないでいてくれるのがいいの。」
その言葉を、遼は黙って聞いた。
「だから昨日も、秋月くん掴んだのかも。」
「そっか。」
「うん。」
少し歩く。
「迷惑?」
「別に。」
「ほんと?」
「迷惑なら電話も出ないだろ。」
「それもそうか。」
ひまりは少し嬉しそうに笑った。
その顔を見て、遼も安心した。
頼られている。
自分だから。
美咲ではなく。
そのことを嬉しいと思う。
もう、それを否定する気はなかった。
好きだから。
それで説明できる。
駅が近付く。
ひまりが突然立ち止まった。
「あ。」
「何。」
「こっちから帰らない?」
細い道を指差す。
「そっち?」
「近道。」
「通ったことない。」
「私あるよ。」
「転校生なのに?」
「美咲に教えてもらった。」
「じゃあ行くか。」
二人は大通りから外れた。
住宅街の細い道だった。
車もほとんど通らず、夕方なのに人も少ない。
「ほんとに近いの?」
「たぶん。」
「たぶん?」
「美咲についてっただけだから。」
「迷うやつじゃん。」
「大丈夫大丈夫。」
「信用できねえ。」
「ひど。」
ひまりが笑う。
少し歩いたところで、小さな公園があった。
誰もいない。
ブランコが風でわずかに揺れている。
「ちょっと座ろ。」
「寒いだろ。」
「歩き疲れた。」
「十分くらいしか歩いてないじゃん。」
「疲れたの。」
ひまりはベンチへ座った。
遼も隣へ座る。
「寒っ。」
「だから言っただろ。」
「秋月くん暖かい?」
「知らない。」
ひまりが少しだけ近付く。
肩が触れた。
「暖かい。」
「人をカイロにするなって。」
「便利。」
「金取るぞ。」
「友達価格で。」
「いくら。」
「無料。」
「最悪じゃん。」
二人で笑う。
しばらく、そのまま座っていた。
ひまりは離れなかった。
遼も何も言わなかった。
「秋月くん。」
「何。」
「私さ。」
ひまりが前を見たまま言う。
「最近、フラバ来ても前より怖くないかも。」
遼は横を見る。
「自分で止められるようになったから?」
「それもある。」
「じゃあ何。」
「秋月くんいるから。」
ひまりは笑った。
「学校なら、だいたいいるじゃん。」
「同じクラスだからな。」
「だから。」
肩が触れている。
「来ても、まあ何とかなるかなって。」
嬉しかった。
また。
今度は、かなり強く。
「でも。」
遼は言った。
「俺いないときもあるだろ。」
「そのときは頑張る。」
「頑張るって。」
「だって仕方ないじゃん。」
「美咲もいるし。」
「うん。」
「神谷も。」
「何で神谷くん。」
「友達だろ。」
「秋月くんほんと神谷くん好きだね。」
「違うって。」
ひまりが笑った。
「でも、秋月くんがいい。」
遼は何も言えなかった。
「何、その顔。」
「どんな顔。」
「分かんない。」
「じゃあ言うなよ。」
「嬉しい?」
ひまりがこちらを見る。
「何が。」
「私が秋月くんがいいって言ったの。」
「……まあ。」
「へえ。」
「何だよ。」
「素直じゃん。」
「うるさい。」
ひまりは楽しそうに笑った。
遼も笑う。
しばらくして、二人はまた歩き始めた。
結局、その道は近道ではなかった。
「遠回りじゃん。」
「おかしいな。」
「美咲に騙されたんじゃない?」
「そんなことするかな。」
「するだろ。」
「美咲を何だと思ってるの。」
「知らない。」
駅へ着いた頃には、いつもより十五分近く遅くなっていた。
「じゃあまた明日。」
「うん。」
「今日は電話しないからね。」
「何で宣言するの。」
「一人で寝る練習。」
「そう。」
「頑張る。」
「頑張れ。」
「そこは寂しがってよ。」
「何でだよ。」
「じゃあね。」
ひまりは笑いながら改札へ入っていった。
遼はその姿が見えなくなるまで立っていた。
一人で寝る練習。
いいことだ。
少しずつ一人でできるようになっている。
今日もそう言った。
頑張れ、と。
それなのに帰宅して、十一時を過ぎた頃。
遼は何度もスマートフォンを見ていた。
十一時半。
何も来ない。
十二時。
何も来ない。
ちゃんと眠れたのだろう。
よかった。
そう思う。
十二時十五分。
画面が光った。
『秋月くん』
遼はほとんど反射的にスマートフォンを手に取った。
『起きてる?』
胸の奥が、一気に軽くなる。
遼はすぐに文字を打った。
『起きてる』
送信する。
数秒後。
『やっぱ電話していい?』
遼は画面を見つめた。
そして。
笑った。
今度は、自分が笑ったことにも気付いていた。




