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第23話 袖

ひまりの指は、しばらく遼の袖を離さなかった。


「ひまり、聞こえる?」


美咲がもう一度声を掛ける。


返事はない。


ひまりは俯いたまま、浅い呼吸を繰り返している。右手だけが遼の制服を強く掴み、指先が白くなっていた。


「先生呼んでくる?」


近くにいた女子が言う。


「いや、ちょっと待って。」


美咲が答える。


「いつも少ししたら戻るから。」


いつも。


その言葉を聞きながら、遼はひまりの手を見ていた。


自分は何をすればいいのだろう。


背中をさする。声を掛ける。保健室へ連れていく。


今までなら、そう考えていた。


けれど今日は違った。


ひまりが自分を掴んでいる。


それだけで、動かない方がいいような気がした。


「夏川。」


小さく呼ぶ。


ひまりの指が、わずかに動いた。


「ここにいるから。」


それ以上は何も言わなかった。


美咲が遼を見る。


一瞬だけ目が合った。


何か言いたそうだったが、結局何も言わず、ひまりの反対側へしゃがみ込む。


「ゆっくりでいいからね。」


教室の空気はすっかり変わっていた。


さっきまでスマートフォンを取り合っていた女子たちも黙っている。


誰かが窓を開けた。


冷たい風が入ってくる。


数分ほど経った頃だった。


「……ごめん。」


ひまりが小さく呟いた。


「ひまり?」


「大丈夫。」


「ほんと?」


「うん。」


まだ声は弱い。


それでも呼吸は少しずつ落ち着いていた。


美咲が安心したように息を吐く。


「保健室行く?」


「行かなくていい。」


「でも。」


「平気。」


ひまりは顔を上げる。


目元が少し赤かった。


「ほんとに平気だから。」


笑おうとする。


うまく笑えていなかった。


遼はその顔を見ていた。


「夏川。」


「ん?」


「手。」


「え?」


遼が視線を落とす。


ひまりもつられて下を見る。


そこで初めて気付いたらしい。


まだ遼の袖を掴んでいた。


「あっ。」


慌てて手を離す。


「ご、ごめん。」


「別に。」


「伸びた?」


「制服そんな弱くないだろ。」


「ほんと?」


「たぶん。」


「たぶんじゃん。」


ひまりが少し笑った。


いつもの笑い方に近かった。


「……よかった。」


美咲が立ち上がる。


「マジでびっくりした。」


「ごめんね。」


「だから謝んなくていいって。」


そう言いながら、美咲はひまりの頭を軽く叩いた。


「でも今日、一人で帰るの禁止ね。」


「えー。」


「えーじゃない。私と帰る。」


「はい。」


教室の空気も少しずつ戻っていった。


誰かが「水いる?」と聞き、ひまりが「ありがと」と受け取る。


遼も席へ座った。


自分の袖を見る。


皺になっている。


それだけだった。


「秋月。」


榊がいつの間にか横へ来ていた。


「大丈夫だったか?」


「俺?」


「いや、夏川さん。」


「落ち着いたみたい。」


「そっか。」


榊はひまりの方を見る。


「前より軽かったな。」


「そうだな。」


「自分で止められるようになってきたって言ってたし、少しずつ良くなってんのかもな。」


「……うん。」


榊はそれ以上何も言わなかった。


ただ、少ししてから遼の袖へ目を落とした。


「すげえ掴まれてたな。」


「見てた?」


「そりゃ見るだろ。」


「そうか。」


「美咲いたのに、お前だったな。」


遼は榊を見る。


榊は特に意味を込めた様子もなく、机の上に置いていたペンケースを鞄へしまっていた。


「まあ、たまたまだろ。」


「うん。」


「近くにいたしな。」


「そうだな。」


近くにいたから。


それだけ。


遼はそう思った。


放課後、ひまりは美咲と一緒に帰った。


「秋月くん。」


教室を出る直前、ひまりが振り返る。


「今日はありがと。」


「何もしてないけど。」


「いてくれたじゃん。」


「いただけだろ。」


「それでいいの。」


ひまりは笑った。


「じゃあまた明日。」


「また。」


美咲も「じゃーね」と軽く手を振る。


二人が教室を出ていったあと、遼はしばらく席に座っていた。


「帰らねえの?」


榊が鞄を肩へ掛ける。


「帰る。」


「じゃあ行こうぜ。」


二人で校門を出る。


駅へ向かう道には、同じ学校の生徒が何人も歩いていた。


「しかし。」


榊が言う。


「夏川さん、お前には結構頼るよな。」


「そう?」


「そうだろ。前も電話してたんだろ?」


「何で知ってんの。」


「お前が前に言ってたじゃん。」


「ああ。」


「忘れんなよ。」


榊は呆れたように笑った。


「美咲と一番仲いいのかと思ってたけど、そういうときは秋月なんだな。」


「たまたまだろ。」


「またそれかよ。」


「じゃあ何だよ。」


「知らねえよ。」


榊は笑う。


「ただ、結構懐かれてんじゃね? って話。」


「犬じゃないんだから。」


「分かってるって。」


信号が赤になる。


二人で立ち止まる。


「でもさ。」


榊が少しだけ真面目な声になった。


「お前もあんま抱え込むなよ。」


「何を。」


「夏川さんのこと。」


「抱え込んでない。」


「ならいいけど。」


信号が青になる。


榊は歩き出した。


「こういうのって、友達だけでどうにかする話でもないだろ。」


遼は少し遅れて歩き出す。


「先生とか保健室の人とか、そういうのもいるんだし。」


「うん。」


「お前、変なところで真面目だからな。」


「榊に言われたくない。」


「俺は適当だから。」


「知ってる。」


「ひでえ。」


二人で笑った。


榊の言っていることは正しい。


遼もそう思った。


自分が何とかする必要なんてない。


そもそも、できることなどほとんどない。


今日だって、ただそこにいただけだった。


それなのに。


『それでいいの』


ひまりの言葉が残っていた。


夜十一時を少し過ぎた頃。


スマートフォンが震えた。


画面を見る。


ひまり。


『起きてる?』


遼はすぐに返信した。


『起きてる』


『電話していい?』


指が止まる。


また。


その言葉が最初に浮かんだ。


嬉しかった。


『いいよ』


送る。


すぐに着信が来た。


「もしもし。」


『もしもし。』


「眠れない?」


『まだ分かんない。』


「前もそれ言ってた。」


『だってまだ寝てないもん。』


「じゃあ寝ろよ。」


『冷たい。』


「電話してるだろ。」


『確かに。』


ひまりが小さく笑う。


しばらく、何でもない話をした。


今日の授業。


美咲と帰りに寄った店。


明日の体育。


神谷が昼休みにサッカーボールを没収されたこと。


『あれほんと面白かった。』


「何したんだよ。」


『廊下でリフティングしてた。』


「馬鹿じゃん。」


『先生に「お前は小学生か」って言われてた。』


「似合うな。」


『神谷くんに言っとこ。』


「やめろって。」


『秋月くんが馬鹿って言ってたって。』


「言ってねえだろ。」


『今言ったじゃん。』


「馬鹿じゃんとは言った。」


『同じでしょ。』


「違うだろ。」


ひまりが笑う。


遼も笑った。


いつものひまりだった。


昼間のことなど忘れてしまいそうになる。


しばらくして、会話が途切れた。


『ねえ。』


「うん。」


『今日さ。』


「うん。」


『私、秋月くんの服掴んでたよね。』


「掴んでた。」


『恥ずかしい。』


「今更?」


『だって覚えてなかったんだもん。』


「そうなの。」


『途中からは覚えてるけど。』


少し間が空く。


『何で秋月くんだったんだろ。』


遼は何も言わなかった。


『美咲もいたのにね。』


「近かったからじゃない。」


『かなぁ。』


「たぶん。」


『でも。』


「うん。」


『秋月くんの声、聞こえた。』


遼は黙る。


『何言ってたかはあんまり覚えてないけど。』


「ここにいるって。」


『ああ。』


少しだけ笑う。


『それ。』


「うん。」


『あれ聞いたら、ちょっと戻れた。』


遼はベッドの上で天井を見た。


「そっか。」


『うん。』


「ならよかった。」


『何かさ。』


ひまりが小さく息を吐く。


『秋月くんがいると、戻ってこられる気がする。』


胸の奥が熱くなった。


嬉しい。


もう、その感覚を否定することはできなかった。


「気のせいじゃない。」


『何で。』


「この前は自分で戻れたじゃん。」


『でも今日は無理だった。』


「途中まではできてたんじゃない。」


『分かんない。』


「じゃあ次もできるかも。」


『……秋月くんがいなくても?』


遼は少し黙った。


「うん。」


答えた。


正しい答えだと思った。


『そっか。』


「その方がいいだろ。」


『うん。』


ひまりの声が少しだけ小さくなる。


『でも。』


「何。」


『できるようになるまでは、いてくれる?』


遼は目を閉じた。


「いるよ。」


ほとんど考えずに答えていた。


『よかった。』


その一言が、嬉しかった。


ひまりはそのあと、また何でもない話を始めた。


十分。


二十分。


三十分。


少しずつ会話が減っていく。


『秋月くん。』


「何。」


『今日も切らないでいい?』


「いいよ。」


『ありがと。』


布団の擦れる音がする。


『おやすみ。』


「おやすみ。」


やがて、ひまりの声は聞こえなくなった。


小さな寝息だけが、スマートフォン越しに聞こえてくる。


遼は電話を切らなかった。


暗い部屋で、ただその音を聞いていた。


秋月くんがいると、戻ってこられる気がする。


できるようになるまでは、いてくれる?


いるよ。


そのやり取りを何度も思い返す。


ひまりが自分を必要としている。


そう考えると、嬉しかった。


好きな人に頼られるのだから、当然だ。


何もおかしくない。


遼はそう思う。


ただ。


できるようになるまで。


その言葉だけが、少し引っ掛かった。


いつまでだろう。


もし、ひまりが一人で戻れるようになったら。


電話をしなくても眠れるようになったら。


誰かの袖を掴まなくても平気になったら。


そのとき、自分は。


遼は目を開けた。


枕元のスマートフォンを見る。


通話時間は一時間を超えている。


向こうからは、規則正しい寝息が聞こえていた。


この時間がなくなる。


そう考えた瞬間。


嫌だ。


遼はそう思った。


はっきりと。


そして、すぐに目を閉じた。


別に。


電話くらい、治ってからでもできる。


今日だって、ほとんど普通の話しかしていない。


フラバなんて関係ない。


だから大丈夫だ。


何もおかしくない。


そう考えながら、遼は電話を繋いだまま眠った。

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