第22話 嬉しい
翌週、ひまりは変わらず元気だった。
現代文の授業で一度だけ危うくなったことも、その後の様子だけを見ていれば大した出来事ではなかったように思える。本人が言っていた通り、自分で戻ることができたのだから、むしろ以前より良くなっていると考えるべきなのかもしれなかった。
実際、ひまりはそのことを少し誇らしく思っているようだった。
「最近ね、分かるんだよ。」
昼休み、美咲と話している声が聞こえた。
「何が?」
「来そうなとき。」
「フラバ?」
「うん。」
美咲は少し嫌そうな顔をする。
「分かるなら保健室行きなよ。」
「でもこの前は自分で止められた。」
「ほんと?」
「ほんと。」
「へえ。」
美咲は感心したようにひまりを見る。
「成長したじゃん、フラバちゃん。」
「その呼び方やめて。」
「治ったらやめる。」
「じゃあもうやめていいよ。」
「治ってないじゃん。」
「ほぼ治った。」
「ほぼって何。」
二人は笑った。
遼は教科書を読みながら、その会話を聞いていた。
フラバちゃん。
最初にその言葉を聞いた頃は、意味すら分からなかった。
今は分かる。
フラッシュバック。
ひまりが突然動かなくなり、呼吸を乱し、ここではないどこかを見始めること。
その状態を、美咲は軽いあだ名にして呼んでいる。
以前なら少し無神経だと思ったかもしれない。
今は、それが二人の距離なのだと思うようになっていた。
「秋月。」
榊が隣から声を掛ける。
「聞いてる?」
「何。」
「聞いてないじゃん。」
「ごめん。」
「今日ゲーセン寄ろうって話。」
「ああ、いいよ。」
「何見てたの。」
「何も。」
榊は遼の視線の先を見る。
ひまり。
「また?」
「違うって。」
「もう否定しなくていいよ。」
「何が。」
「好きなんでしょ。」
「……。」
「そこ黙るようになったじゃん。」
榊が笑う。
以前ならすぐ否定していた気がする。
遼自身、それには気付いていた。
「まあ、好きなんじゃない。」
言ってから、自分でも少し驚いた。
榊も目を丸くする。
「お。」
「何。」
「認めた。」
「たぶん。」
「たぶん付けるなよ。」
「分かんないから。」
「じゃあ告れば。」
「何で。」
「好きなんだから。」
「すぐそこに行くのおかしくない?」
「高校生なんてそんなもんだろ。」
榊は楽しそうだった。
「夏川さんも脈ありそうじゃん。」
「そう?」
「二人で帰る、電話する、飯食う。」
指を折る。
「これで何もなかったら逆に面白い。」
「友達でもするだろ。」
「またそれ。」
遼は笑った。
好き。
言葉にしてしまえば、案外しっくりきた。
ひまりが笑っていれば嬉しい。
話しかけられれば嬉しい。
LINEが来れば嬉しい。
二人で帰るのも楽しい。
他の男子と話していると少し気になる。
それなら、好きなのだろう。
だから、頼られると嬉しい。
それも全部、同じところから来ている。
遼はそう考えた。
それなら説明がつく。
自分は何もおかしくない。
五時間目は化学だった。
教師が実験の説明をしている最中、前方の席で男子がふざけて笑った。
「そこ、聞いてるか?」
「聞いてまーす。」
「じゃあ今俺が何言った。」
「……安全第一?」
教室に笑いが起きる。
「聞いてねえじゃねえか。」
教師も呆れたように笑う。
遼も少し笑った。
そのあと。
ひまりを見る。
何も起きていない。
普通に笑っている。
遼はすぐに黒板へ視線を戻した。
今のは確認しただけ。
もし何かあったら困るから。
それだけ。
放課後、約束通り榊と駅前のゲームセンターへ向かった。
久しぶりに、ひまりのいない放課後だった。
「これやろうぜ。」
榊が音楽ゲームを指す。
「無理。」
「何で。」
「できない。」
「俺もできない。」
「じゃあ何でやるの。」
「面白そうだから。」
二人で適当に遊び、クレーンゲームで千円近く溶かし、結局何も取れなかった。
「最悪。」
「榊がやるって言ったんだろ。」
「取れると思ったんだよ。」
「才能ないな。」
「お前も五百円使っただろ。」
「俺は付き合い。」
「言い訳すんな。」
そのままフードコートへ入り、夕食には少し早い時間にラーメンを食べた。
久しぶりだった。
ひまりが転校してくる前は、榊とこうして寄り道することの方が多かった。
「そういやさ。」
榊がラーメンを食べながら言う。
「夏川さんの前の学校って何か知ってる?」
遼は箸を止めた。
「何で。」
「いや、何となく。」
「知らない。」
「転校理由とか。」
「知らない。」
「聞いてないの?」
「うん。」
「意外。」
「何が。」
「お前あんな気にしてんのに。」
遼は水を飲む。
「本人が話したくなさそうだから。」
「なるほど。」
榊はそれ以上聞かなかった。
少しして、スマートフォンを取り出す。
「夏川さん本人は覚えてんのかな。」
「何を。」
「フラバしてるとき。」
遼は少し考える。
「たぶん。」
「そうなんだ。」
「来そうなの分かるって言ってたし。」
「へえ。」
榊は感心したように頷く。
「お前詳しいな。」
その言葉に、遼は少しだけ嬉しくなった。
すぐに気付く。
「本人が言ってたから。」
「そうなんだ。」
榊は何も気にしていない。
けれど遼の中には、その言葉だけが残った。
詳しい。
確かに、以前よりは知っている。
美咲が知らないことも知っている。
夜に眠れなくなること。
目を閉じるのが怖いこと。
一人になるのが嫌な夜があること。
大丈夫と聞かれるのが苦手なこと。
そして、フラバが来そうなときの感覚。
ひまり本人が教えてくれた。
自分に。
そのことが、やはり嬉しかった。
帰宅したのは八時過ぎだった。
風呂へ入り、宿題をしていると、十時頃にLINEが来た。
『今日榊くんと遊んでた?』
ひまりだった。
『うん』
『見た』
『どこで』
『駅』
『声かければよかったのに』
『邪魔かなって』
『何で』
少し間が空く。
『デートかと思って』
『榊と?』
『うん』
『最悪』
『榊くんかわいそう笑』
遼は少し笑った。
『夏川は何してたの』
『美咲と買い物』
『また?』
『またって何』
『毎週行ってない?』
『女の子なので』
『便利な言葉だな』
『でしょ』
何でもない会話だった。
十分ほど続き、そのまま終わった。
電話はしなかった。
それでも、以前ほど物足りないとは思わなかった。
好きだから連絡が来れば嬉しい。
それだけ。
自分の中で、少し整理できた気がした。
次の日の昼休み。
ひまりが遼の席までやって来た。
「昨日楽しかった?」
「ゲーセン?」
「うん。」
「普通。」
「榊くんと仲いいよね。」
「一年から一緒だし。」
「いいな。」
「美咲いるじゃん。」
「いるけど。」
ひまりは前の席へ座る。
「男友達ってちょっと羨ましい。」
「神谷いるじゃん。」
「また神谷くん。」
「男友達だろ。」
「まあ、そうだけど。」
ひまりは笑った。
「秋月くんも男友達。」
「そうなの。」
「え、違うの?」
「いや。」
「じゃあ何?」
遼は少しだけ考えた。
「何だろ。」
「何それ。」
ひまりが笑う。
遼も笑った。
そのとき、教室の後ろで女子の大きな笑い声が上がった。
「無理、ほんと無理!」
「やめてって!」
誰かのスマートフォンを取り合っているらしい。
一人が逃げる。
もう一人が追いかける。
「返して!」
「やだ!」
笑い声。
遼はひまりを見る。
近い。
目の前にいる。
ひまりは笑っていた。
「元気だね。」
「うん。」
何も起きない。
遼は少し安心した。
ひまりが立ち上がる。
「じゃ、美咲のとこ戻る。」
「うん。」
「またね。」
その瞬間だった。
後ろから声が飛んだ。
「お前マジで死ねって!」
笑いながらの言葉だった。
よくある。
友達同士でふざけて使う程度の言葉。
教室の誰も気にしなかった。
遼も、最初は気にしなかった。
ひまりの足が止まるまでは。
「……。」
笑顔が消えた。
遼はすぐに分かった。
ひまりの右手が、自分の制服の袖を掴んだ。
強く。
「夏川。」
返事がない。
呼吸。
一度。
二度。
浅くなる。
来る。
遼の心臓が跳ねた。
今度は、分かった。
驚いたからではない。
心配したからでもない。
その前に。
嬉しい。
また、その感覚があった。
ほんの一瞬だった。
でも、前よりはっきりしていた。
「夏川。」
遼は立ち上がった。
ひまりがこちらを見る。
焦点が合っていない。
その顔を見た瞬間には、もう心配の方が大きかった。
「座る?」
ひまりは答えない。
遼は椅子を引いた。
「ここ。」
ひまりがゆっくり座る。
周囲も異変に気付き始めた。
「ひまり?」
美咲がこちらへ来る。
「また?」
ひまりの肩へ触れようとする。
その瞬間。
ひまりの手が動いた。
遼の制服の袖を掴んだ。
ぎゅっと。
遼はその手を見る。
美咲も見た。
「……ひまり?」
ひまりは答えなかった。
ただ、遼の袖だけは離さなかった。
「大丈夫?」
美咲が聞く。
返事はない。
「保健室行く?」
それにも答えない。
遼は何も言わなかった。
ひまりの指が、自分の袖を握っている。
その感触だけが妙にはっきり分かった。
周りの声が遠く感じた。
美咲がいる。
他のクラスメイトもいる。
それでも、ひまりが掴んでいるのは自分だった。
そのことを。
嬉しいと思ってしまった。
今度は、一瞬ではなかった。




