第21話 笑顔が消えかけた、あの一瞬
それから数日間、遼は自分でも妙なくらい、ひまりの様子を気にするようになった。
以前から見ていたと言えば、そうだった。転校してきたばかりの頃からよく目で追っていたし、集合写真の前で動けなくなったあの日からは、笑っている顔とそうでない顔の違いを何となく探すようにもなっていた。ただ、今は少し違う。教師が声を荒らげたとき、廊下で誰かが大きな音を立てたとき、教室のどこかで笑い声が上がったとき、遼の視線は自分で意識するより先にひまりへ向かっていた。
何も起きなければ、すぐに目を逸らす。
それだけだった。
「秋月。」
「何。」
「今、夏川さん見てた?」
昼休み、榊にそう言われて、遼はパンの袋を開けながら顔を上げた。
「見てない。」
「見てた。」
「何で分かるの。」
「俺がお前見てたから。」
「気持ち悪。」
「お前に言われたくない。」
榊は笑いながら紙パックのジュースへストローを刺した。
「最近また増えたよな。」
「何が。」
「夏川さん見る回数。」
「数えてんの?」
「数えてないけど分かる。」
遼は何も答えず、パンを一口食べた。
教室の前方では、ひまりが美咲と話している。何がおかしいのか、二人でスマートフォンを覗き込みながら笑っていた。
「まあ、好きなら好きでいいと思うけど。」
「またそれ。」
「違うの?」
「分かんない。」
「まだ分かんないのかよ。」
「そんな簡単に分かる?」
「普通分かるだろ。」
「じゃあ榊は誰か好きなの。」
「いない。」
「説得力ないじゃん。」
「うるさい。」
二人で笑った。
そのとき、教室の後ろで大きな音がした。
誰かが椅子を倒したらしい。
「うわ、ごめん!」
笑い声が起きる。
遼は反射的にひまりを見た。
ひまりは美咲と話したままだった。
何も起きない。
「……。」
遼はすぐに視線を戻した。
「秋月。」
「何。」
「やっぱ見てんじゃん。」
榊が笑っていた。
「今のは違う。」
「何が違うんだよ。」
「音したから。」
「音したの後ろだぞ。」
「……。」
「夏川さん前。」
「うるさい。」
遼はパンの袋を丸めて榊へ投げた。
「だからゴミ投げんなって。」
その話は、それで終わった。
午後の授業も何もなかった。
放課後になると、ひまりは美咲と一緒に帰っていった。
「じゃあねー。」
教室の出口から手を振る。
「また明日。」
遼も軽く手を上げる。
ひまりは笑って、そのまま廊下へ消えていった。
その夜も、LINEは来なかった。
遼は一度だけスマートフォンを確認し、そのまま机へ置いた。
次の日も何もなかった。
その次の日も。
ひまりは元気だった。
よく笑っていた。
それはいいことだった。
金曜日の六時間目は現代文だった。
教師が教科書を読み上げる声だけが教室に響き、暖房の効き始めた室内には眠気を誘うような空気が漂っていた。遼も何度か欠伸を噛み殺しながら、黒板の文字をノートへ写していた。
「じゃあ、ここ。」
教師が教室を見回す。
「藤沢。」
「はい。」
美咲が立ち上がる。
「次の段落読んで。」
「はい。」
美咲が教科書を読み始める。
ひまりはその斜め前に座っていた。
頬杖をつきながら、教科書を見ている。
普通だった。
やがて美咲が読み終える。
「はい、ありがとう。じゃあ次。」
教師が別の生徒を指す。
授業は淡々と進んだ。
終了まであと十分ほどになった頃、廊下を走る音が聞こえた。
誰かがふざけているらしい。
「待てって!」
「無理無理!」
笑い声。
教師が一瞬だけ眉をひそめた。
「元気だな。」
教室の何人かが笑う。
遼はペンを動かしたまま、前を見る。
ひまり。
普通に教科書を見ている。
何も起きない。
視線を戻そうとした。
その瞬間。
ひまりの指が止まった。
教科書の端を押さえていた人差し指。
ほんの少しだけ。
遼も止まる。
廊下ではまだ声がしている。
「だから待てって!」
笑い声。
ひまりの肩が小さく動いた。
遼は見ていた。
呼吸。
一度。
少し大きく息を吸った。
もう一度。
遼の心臓が、わずかに速くなる。
来る。
そう思った。
そして、その直後だった。
胸の奥が、ほんの少しだけ浮いた。
嬉しい。
その感覚を認識するより早く、ひまりが顔を上げた。
廊下を見る。
目が少しだけ開いている。
遼は椅子から腰を浮かせかけた。
けれど。
「……。」
ひまりは一度目を閉じた。
ゆっくり息を吐く。
もう一度。
それから教科書へ視線を戻した。
ペンを持つ。
ノートを書く。
何も起きなかった。
遼は浮かせかけた腰を、ゆっくり椅子へ戻した。
胸の奥に残ったものだけが、消えなかった。
今。
何だった。
教師の声が聞こえる。
「ここ、重要だから線引いとけよ。」
遼はノートを見る。
自分の手が止まっている。
ひまりはもう普通に授業を受けていた。
よかった。
自分で戻れた。
発作にならなかった。
それなのに。
遼は、ひまりの指が止まった瞬間に、自分が何を思ったのかを思い返した。
来る。
そう思った。
そして。
嬉しかった。
ほんの一瞬。
間違いなく。
遼はペンを置いた。
何で。
前を見る。
ひまりの後ろ姿。
何も起きなかった。
それを残念に思っている。
そこまで考えて、遼は自分で自分の考えを否定した。
違う。
別に発作を期待していたわけではない。
ひまりが苦しむところを見たいわけでもない。
ただ、もし起きたら。
自分が行かなければと思っただけだ。
前もそうだった。
追いかけた。
電話もした。
頼られた。
だから身体が先に反応しただけだ。
きっと、それだけ。
授業終了のチャイムが鳴った。
教室の空気が一気に緩む。
「終わったー。」
「帰ろ。」
椅子を引く音。
鞄を開ける音。
遼もゆっくり教科書を閉じた。
「秋月くん。」
顔を上げる。
ひまりが立っていた。
「何。」
「今日帰り暇?」
「暇だけど。」
「駅前寄らない?」
「いいよ。」
「やった。」
ひまりは笑う。
「美咲は?」
「今日部活の友達と帰るって。」
「神谷は。」
「だから何で毎回神谷くん聞くの。」
「何となく。」
「秋月くん、神谷くん好きなの?」
「何でそうなる。」
「気にしすぎ。」
ひまりは笑いながら自分の席へ戻った。
遼はその背中を見る。
普通のひまり。
笑っている。
自分から遊びに誘ってくれた。
それだけで十分なはずだった。
二人で駅前まで歩き、以前入ったファストフード店へ寄った。
「またポテト?」
「今日は奢って。」
「嫌。」
「前も言った。」
「前も断った。」
「成長しないね。」
「夏川もな。」
結局、それぞれ自分で買った。
向かい合って座る。
「今日さ。」
ひまりがポテトを一本摘む。
「授業中ちょっと危なかった。」
遼の手が止まった。
「現代文?」
「うん。」
「気付いてた。」
「やっぱり?」
「少し。」
「すご。」
ひまりは笑う。
「美咲も気付いてなかったよ。」
「たまたま見てたから。」
「また見てたんだ。」
「……。」
「榊くんが言ってたよ。」
「何を。」
「秋月、ずっとお前見てるって。」
「あいつ。」
「怖いなぁ。」
「じゃあ見るのやめる。」
「それはそれで嫌。」
ひまりは笑った。
遼も笑う。
「でも。」
ひまりが少しだけ真面目な顔になる。
「今日は自分で戻れた。」
「うん。」
「最近ちょっと分かってきたんだよね。」
「何が。」
「来そうなとき。」
ひまりは自分の胸元へ手を置く。
「最初に息苦しくなって、音が遠くなって、それから昔のことが近くなる感じ。」
「昔のことが近くなる?」
「うん。」
「どんな感じ。」
聞いてから、遼は少し驚いた。
今までなら聞かなかった。
ひまりも一瞬だけ黙った。
「……言葉にするの難しい。」
「そっか。」
「でも今日は、来る前に止められた。」
少し嬉しそうだった。
「すごくない?」
「すごいと思う。」
「でしょ。」
ひまりは笑う。
「このまま自分で何とかできるようになったらいいな。」
「うん。」
「秋月くんにも電話しなくてよくなるかも。」
その言葉に。
遼は、一瞬だけ何も言えなかった。
「……そうだな。」
「寂しい?」
冗談だった。
ひまりは笑っている。
「別に。」
「即答。」
「電話くらい普通にすればいいだろ。」
「そっか。」
ひまりはポテトを食べる。
「じゃあ治っても電話する。」
「治る前提なんだ。」
「治るよ。」
「そっか。」
「うん。」
ひまりは笑った。
遼も笑った。
それでいい。
治ればいい。
フラバなんてなくなればいい。
それでも電話はできる。
二人で帰ることもできる。
今日みたいにポテトを食べることもできる。
何も失わない。
そう思った。
なのに。
帰り道、一人になった遼の頭には、ひまりの言葉が何度も残っていた。
秋月くんにも電話しなくてよくなるかも。
寂しい?
別に。
そう答えた。
本当に?
遼は歩きながらスマートフォンを取り出した。
ひまりとの通話履歴を見る。
何度も並んだ名前。
そのうち何回が、フラバの夜だったのだろう。
数えようとして。
やめた。
気持ち悪い。
自分でそう思った。
スマートフォンをポケットへ戻す。
ただ頼られるのが嬉しいだけだ。
好きな相手に必要とされるのが嬉しい。
そんなのは普通だ。
誰だってそうだ。
別に、ひまりに苦しんでほしいわけではない。
今日だって、自分で戻れたことをよかったと思った。
治ればいいと思っている。
だから。
普通だ。
遼はそう考えた。
その日の夜。
ひまりから一枚の写真が送られてきた。
夕方、二人で食べたポテトの写真だった。
『今日も楽しかった』
遼は少し笑う。
『俺も』
送る。
すぐに既読が付いた。
『また行こ』
『うん』
それだけで会話は終わった。
遼はスマートフォンを置く。
嬉しかった。
今度は何もおかしくない。
普通に嬉しい。
そう思った。
けれど眠る直前、遼の頭に浮かんだのは、ファストフード店で笑っていたひまりではなかった。
現代文の授業中。
指を止めたひまり。
息を吸ったひまり。
笑顔が消えかけた、あの一瞬だった。




