第20話 優越と期待
遼はしばらく返信できなかった。
画面には、ひまりから届いた『電話していい?』という文字が表示されたままになっている。
電話をすること自体は珍しくない。文化祭が終わってから何度もしているし、眠れない夜だけではなく、何でもない日に一時間近く話したこともある。それなのに今夜だけは、いつもと同じように『いいよ』と返すことができなかった。
嬉しい。
さっき確かに、そう思った。
ひまりがまた発作を起こした日の夜に、ひまりから電話を求められたことを。
『秋月くん?』
新しいメッセージが届く。
『寝た?』
遼は我に返り、慌てて文字を打った。
『起きてる』
『電話いいよ』
送信すると、すぐに着信画面へ切り替わった。
名前を見る。
夏川ひまり。
通話ボタンを押す。
「もしもし。」
『もしもし。』
声は思ったより普通だった。
昼間のように震えているわけでもなく、以前のように掠れてもいない。ただ、学校で聞く声より少しだけ小さい。
「今日の、大丈夫?」
言ってから気付く。
「あ。」
電話の向こうで小さく笑う声がした。
『また言った。』
「ごめん。」
『いいよ。』
「今のは?」
『今のはセーフ。』
「基準が分からない。」
『私も分かんない。』
二人とも少し笑った。
それだけで、いつもの電話と変わらないような気がした。
「眠れない?」
『まだ寝てないから分かんない。』
「そっか。」
『でも。』
少し間が空く。
『今日、一人になるの嫌だなって思って。』
遼は何も言わなかった。
『美咲に電話しようかと思ったんだけど。』
「うん。」
『やめた。』
「何で。」
『んー。』
ひまりは少し考えているようだった。
『美咲だと心配するから。』
「俺も心配するけど。」
『秋月くんはちょっと違う。』
「何が。」
『分かんない。』
「またそれ。」
『分かんないものは分かんないの。』
少しだけ明るい声に戻る。
『でも、秋月くんってあんまり聞かないじゃん。』
「何を。」
『何があったの、とか。何思い出したの、とか。』
遼は黙った。
聞きたくないわけではない。
むしろ、知りたい。
ひまりの前の学校で何があったのか。
なぜ集合写真で動けなくなったのか。
なぜ人の笑い声や怒鳴り声に反応するのか。
何を思い出しているのか。
知りたいと思っている。
けれど、本人が話さないものを聞く理由がないと思っていた。
「嫌そうだから。」
『何が?』
「話すの。」
『……うん。』
「だから聞かない。」
『そっか。』
しばらく、ひまりは何も言わなかった。
『やっぱ秋月くん変。』
「何で。」
『普通もっと聞くよ。』
「美咲は?」
『聞く。』
「榊は?」
『榊くんは知らない。』
「神谷は?」
『神谷くんも聞くと思う。』
「じゃあ俺だけ変なの。」
『うん。』
「失礼だな。」
『でも。』
ひまりの声が少しだけ小さくなる。
『だから電話した。』
遼は返事をしなかった。
何と答えればいいのか分からなかった。
嬉しい。
また、そう思った。
今度は理由が分かる。
自分が選ばれたからだ。
美咲ではなく。
神谷でもなく。
榊でもなく。
ひまりが自分を選んだ。
それが嬉しい。
それなら、おかしくない。
好きな女の子に頼られれば、誰だって嬉しいだろう。
たぶん。
「秋月くん?」
「うん。」
『いる?』
「いるよ。」
『よかった。』
ひまりが小さく息を吐く。
それから、何でもない話を始めた。
明日の授業。
最近寒くなったこと。
美咲が新しいマフラーを買ったこと。
文化祭が終わってから神谷が少し暇そうなこと。
途中でひまりが動画を見始め、急に笑い出す。
『見てこれ。』
「何。」
『送った。』
猫がソファから落ちる短い動画だった。
「これこの前も送ってなかった?」
『違う猫。』
「同じだろ。」
『全然違う。』
「猫じゃん。」
『秋月くん、猫に謝って。』
「すみませんでした。」
『よろしい。』
笑う。
遼も笑う。
その声だけ聞いていれば、昼間の出来事などなかったようだった。
十一時半。
十二時。
会話は途切れながらも続いた。
『秋月くん。』
「何。」
『眠い?』
「ちょっと。」
『じゃあ寝る?』
「夏川は。」
『私も眠い。』
「じゃあ寝れば。」
『うん。』
しばらく沈黙する。
電話は切れない。
「切らないの。」
『切ってほしい?』
「どっちでも。」
『じゃあ切らない。』
「はい。」
『また寝落ちするかも。』
「美咲に言うなよ。」
『言わないよ。』
「絶対言う。」
『今度は秘密にする。』
「信用できない。」
『ひど。』
ひまりが笑う。
それから少しずつ声が減っていった。
布団が擦れる音。
時々聞こえる小さな呼吸。
遼もスマートフォンを枕元へ置き、目を閉じた。
『秋月くん。』
「うん。」
『今日さ。』
「うん。」
『追いかけてきてくれたじゃん。』
遼は目を開けた。
「うん。」
『あれ、嬉しかった。』
「そっか。」
『美咲も来たけど。』
「うん。」
『でも秋月くんが最初だった。』
「近かったから。」
『そういうこと言う。』
「ほんとだよ。」
『分かってるけど。』
ひまりは小さく笑う。
『ありがとね。』
「うん。」
『おやすみ。』
「おやすみ。」
それから声は聞こえなくなった。
遼も目を閉じる。
けれど、なかなか眠れなかった。
ひまりの言葉が頭に残っていた。
秋月くんが最初だった。
だから電話した。
嬉しかった。
どれも、嬉しい。
そのこと自体はおかしくない。
むしろ普通だ。
遼はそう思った。
ただ一つだけ、どうしても引っ掛かるものがあった。
もし今日、何も起きなかったら。
ひまりが授業を普通に受けて、普通に美咲と帰って、普通に一人で眠れていたら。
この電話はなかった。
そのことを考えると、胸の奥が少しだけざわついた。
翌朝。
目を覚ますと、電話は切れていた。
画面を見る。
通話時間、二時間四十七分。
ひまりが先に起きて切ったらしい。
LINEには、
『今日はちゃんと切りました』
と送られていた。
その下に得意げなスタンプ。
遼は少し笑った。
『えらい』
送って、制服へ着替える。
学校へ着くと、ひまりはいつも通り美咲と話していた。
「おはよ、秋月くん。」
「おはよう。」
目が合う。
それだけ。
昨夜二時間以上電話していたことなど、周りには分からない。
そのことが、少しだけ特別に感じられた。
昼休み。
遼は榊と弁当を食べていた。
「夏川さん、今日は平気そうだな。」
榊が言う。
「うん。」
「昨日びっくりしたけど。」
「そうだな。」
「まあでも、最近ずっと何もなかったし。」
榊は卵焼きを食べる。
「たまに出るくらいなら仕方ないのかもな。」
「……うん。」
「前より絶対よくなってるだろ。」
遼は少し離れた席を見る。
ひまりが美咲と笑っている。
「そうだな。」
それは、いいことだった。
午後も何も起きなかった。
放課後。
ひまりは美咲と帰った。
夜。
LINEは来なかった。
次の日も来なかった。
その次の日も。
学校では毎日話した。
ひまりは元気だった。
そして、一週間が過ぎた。
遼はベッドでスマートフォンを見ていた。
最後の通話から七日。
何となく、履歴を開く。
夏川ひまり。
そこに残っている名前を眺める。
電話を掛ければいい。
普通に話したいなら、自分から掛ければいい。
それだけだった。
けれど、遼は掛けなかった。
何となく違う気がした。
自分が話したいのは、普段のひまりなのか。
それとも。
そこまで考えて、画面を閉じた。
翌日も、ひまりは笑っていた。
昼休み。
美咲に何かを言われ、大きな声で笑っている。
神谷が通り掛かり、二人の会話へ混ざる。
三人で笑う。
遼はそれを見ていた。
胸の奥に、ほんの少しだけ嫌なものがあった。
嫉妬。
たぶん、それだと思った。
神谷と話しているから。
美咲とばかり一緒にいるから。
自分のところへ来ないから。
それなら、まだ分かる。
けれど、その日の五時間目。
教師が少し大きな声を出した。
「そこ、私語やめろ。」
遼は反射的にひまりを見た。
ひまりは普通にしていた。
ノートを書いている。
何も起きない。
その瞬間。
遼は、ほんのわずかに落胆した。
自分でも気付かないくらい小さなものだった。
けれど、確かにあった。
遼の手が止まった。
前を見る。
ひまりは何も知らず、ノートを取っている。
よかった。
何も起きなかった。
そう思うより先に。
何も起きなかったのか。
そう思ってしまった。
遼はゆっくり視線を落とした。
ノートの文字が、しばらく頭へ入ってこなかった。




