↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/62

第20話 優越と期待

遼はしばらく返信できなかった。


画面には、ひまりから届いた『電話していい?』という文字が表示されたままになっている。


電話をすること自体は珍しくない。文化祭が終わってから何度もしているし、眠れない夜だけではなく、何でもない日に一時間近く話したこともある。それなのに今夜だけは、いつもと同じように『いいよ』と返すことができなかった。


嬉しい。


さっき確かに、そう思った。


ひまりがまた発作を起こした日の夜に、ひまりから電話を求められたことを。


『秋月くん?』


新しいメッセージが届く。


『寝た?』


遼は我に返り、慌てて文字を打った。


『起きてる』


『電話いいよ』


送信すると、すぐに着信画面へ切り替わった。


名前を見る。


夏川ひまり。


通話ボタンを押す。


「もしもし。」


『もしもし。』


声は思ったより普通だった。


昼間のように震えているわけでもなく、以前のように掠れてもいない。ただ、学校で聞く声より少しだけ小さい。


「今日の、大丈夫?」


言ってから気付く。


「あ。」


電話の向こうで小さく笑う声がした。


『また言った。』


「ごめん。」


『いいよ。』


「今のは?」


『今のはセーフ。』


「基準が分からない。」


『私も分かんない。』


二人とも少し笑った。


それだけで、いつもの電話と変わらないような気がした。


「眠れない?」


『まだ寝てないから分かんない。』


「そっか。」


『でも。』


少し間が空く。


『今日、一人になるの嫌だなって思って。』


遼は何も言わなかった。


『美咲に電話しようかと思ったんだけど。』


「うん。」


『やめた。』


「何で。」


『んー。』


ひまりは少し考えているようだった。


『美咲だと心配するから。』


「俺も心配するけど。」


『秋月くんはちょっと違う。』


「何が。」


『分かんない。』


「またそれ。」


『分かんないものは分かんないの。』


少しだけ明るい声に戻る。


『でも、秋月くんってあんまり聞かないじゃん。』


「何を。」


『何があったの、とか。何思い出したの、とか。』


遼は黙った。


聞きたくないわけではない。


むしろ、知りたい。


ひまりの前の学校で何があったのか。


なぜ集合写真で動けなくなったのか。


なぜ人の笑い声や怒鳴り声に反応するのか。


何を思い出しているのか。


知りたいと思っている。


けれど、本人が話さないものを聞く理由がないと思っていた。


「嫌そうだから。」


『何が?』


「話すの。」


『……うん。』


「だから聞かない。」


『そっか。』


しばらく、ひまりは何も言わなかった。


『やっぱ秋月くん変。』


「何で。」


『普通もっと聞くよ。』


「美咲は?」


『聞く。』


「榊は?」


『榊くんは知らない。』


「神谷は?」


『神谷くんも聞くと思う。』


「じゃあ俺だけ変なの。」


『うん。』


「失礼だな。」


『でも。』


ひまりの声が少しだけ小さくなる。


『だから電話した。』


遼は返事をしなかった。


何と答えればいいのか分からなかった。


嬉しい。


また、そう思った。


今度は理由が分かる。


自分が選ばれたからだ。


美咲ではなく。


神谷でもなく。


榊でもなく。


ひまりが自分を選んだ。


それが嬉しい。


それなら、おかしくない。


好きな女の子に頼られれば、誰だって嬉しいだろう。


たぶん。


「秋月くん?」


「うん。」


『いる?』


「いるよ。」


『よかった。』


ひまりが小さく息を吐く。


それから、何でもない話を始めた。


明日の授業。


最近寒くなったこと。


美咲が新しいマフラーを買ったこと。


文化祭が終わってから神谷が少し暇そうなこと。


途中でひまりが動画を見始め、急に笑い出す。


『見てこれ。』


「何。」


『送った。』


猫がソファから落ちる短い動画だった。


「これこの前も送ってなかった?」


『違う猫。』


「同じだろ。」


『全然違う。』


「猫じゃん。」


『秋月くん、猫に謝って。』


「すみませんでした。」


『よろしい。』


笑う。


遼も笑う。


その声だけ聞いていれば、昼間の出来事などなかったようだった。


十一時半。


十二時。


会話は途切れながらも続いた。


『秋月くん。』


「何。」


『眠い?』


「ちょっと。」


『じゃあ寝る?』


「夏川は。」


『私も眠い。』


「じゃあ寝れば。」


『うん。』


しばらく沈黙する。


電話は切れない。


「切らないの。」


『切ってほしい?』


「どっちでも。」


『じゃあ切らない。』


「はい。」


『また寝落ちするかも。』


「美咲に言うなよ。」


『言わないよ。』


「絶対言う。」


『今度は秘密にする。』


「信用できない。」


『ひど。』


ひまりが笑う。


それから少しずつ声が減っていった。


布団が擦れる音。


時々聞こえる小さな呼吸。


遼もスマートフォンを枕元へ置き、目を閉じた。


『秋月くん。』


「うん。」


『今日さ。』


「うん。」


『追いかけてきてくれたじゃん。』


遼は目を開けた。


「うん。」


『あれ、嬉しかった。』


「そっか。」


『美咲も来たけど。』


「うん。」


『でも秋月くんが最初だった。』


「近かったから。」


『そういうこと言う。』


「ほんとだよ。」


『分かってるけど。』


ひまりは小さく笑う。


『ありがとね。』


「うん。」


『おやすみ。』


「おやすみ。」


それから声は聞こえなくなった。


遼も目を閉じる。


けれど、なかなか眠れなかった。


ひまりの言葉が頭に残っていた。


秋月くんが最初だった。


だから電話した。


嬉しかった。


どれも、嬉しい。


そのこと自体はおかしくない。


むしろ普通だ。


遼はそう思った。


ただ一つだけ、どうしても引っ掛かるものがあった。


もし今日、何も起きなかったら。


ひまりが授業を普通に受けて、普通に美咲と帰って、普通に一人で眠れていたら。


この電話はなかった。


そのことを考えると、胸の奥が少しだけざわついた。


翌朝。


目を覚ますと、電話は切れていた。


画面を見る。


通話時間、二時間四十七分。


ひまりが先に起きて切ったらしい。


LINEには、


『今日はちゃんと切りました』


と送られていた。


その下に得意げなスタンプ。


遼は少し笑った。


『えらい』


送って、制服へ着替える。


学校へ着くと、ひまりはいつも通り美咲と話していた。


「おはよ、秋月くん。」


「おはよう。」


目が合う。


それだけ。


昨夜二時間以上電話していたことなど、周りには分からない。


そのことが、少しだけ特別に感じられた。


昼休み。


遼は榊と弁当を食べていた。


「夏川さん、今日は平気そうだな。」


榊が言う。


「うん。」


「昨日びっくりしたけど。」


「そうだな。」


「まあでも、最近ずっと何もなかったし。」


榊は卵焼きを食べる。


「たまに出るくらいなら仕方ないのかもな。」


「……うん。」


「前より絶対よくなってるだろ。」


遼は少し離れた席を見る。


ひまりが美咲と笑っている。


「そうだな。」


それは、いいことだった。


午後も何も起きなかった。


放課後。


ひまりは美咲と帰った。


夜。


LINEは来なかった。


次の日も来なかった。


その次の日も。


学校では毎日話した。


ひまりは元気だった。


そして、一週間が過ぎた。


遼はベッドでスマートフォンを見ていた。


最後の通話から七日。


何となく、履歴を開く。


夏川ひまり。


そこに残っている名前を眺める。


電話を掛ければいい。


普通に話したいなら、自分から掛ければいい。


それだけだった。


けれど、遼は掛けなかった。


何となく違う気がした。


自分が話したいのは、普段のひまりなのか。


それとも。


そこまで考えて、画面を閉じた。


翌日も、ひまりは笑っていた。


昼休み。


美咲に何かを言われ、大きな声で笑っている。


神谷が通り掛かり、二人の会話へ混ざる。


三人で笑う。


遼はそれを見ていた。


胸の奥に、ほんの少しだけ嫌なものがあった。


嫉妬。


たぶん、それだと思った。


神谷と話しているから。


美咲とばかり一緒にいるから。


自分のところへ来ないから。


それなら、まだ分かる。


けれど、その日の五時間目。


教師が少し大きな声を出した。


「そこ、私語やめろ。」


遼は反射的にひまりを見た。


ひまりは普通にしていた。


ノートを書いている。


何も起きない。


その瞬間。


遼は、ほんのわずかに落胆した。


自分でも気付かないくらい小さなものだった。


けれど、確かにあった。


遼の手が止まった。


前を見る。


ひまりは何も知らず、ノートを取っている。


よかった。


何も起きなかった。


そう思うより先に。


何も起きなかったのか。


そう思ってしまった。


遼はゆっくり視線を落とした。


ノートの文字が、しばらく頭へ入ってこなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。