第19話 久しぶりは、なぜか嬉しい
十一月に入ると、朝の空気は目に見えて冷たくなった。
夏服の名残は完全に消え、教室の窓も以前ほど開けられなくなり、朝一番に登校した生徒が「寒い」と言いながら閉めて回るのが当たり前になっていた。
「秋月くん。」
遼が席でスマートフォンを見ていると、ひまりが前から歩いてきた。
「今日寒くない?」
「寒い。」
「それだけ?」
「他に何があるの。」
「会話を広げてよ。」
「冬だから。」
「まだ秋。」
「じゃあ秋だから。」
「そういうことじゃない。」
ひまりは笑いながら前の席へ座った。
「ねえ、見て。」
スマートフォンの画面を見せてくる。
そこには猫の写真が表示されていた。
「猫。」
「可愛いでしょ。」
「うん。」
「昨日見つけた。」
「どこで。」
「駅の近く。」
「野良?」
「たぶん。」
何枚も写真を撮ったらしい。
同じ猫がこちらを見ている写真、歩いている写真、少しぶれた写真。
「これ一番可愛くない?」
「最初の方がいい。」
「えー。」
「こっち顔見えてるし。」
「分かってないなぁ。」
ひまりが画面を見ながら笑う。
普通だった。
以前と何も変わらない。
最近、夜に連絡を取る回数は減っていたが、学校で話す時間が減ったわけではなかった。
むしろ、こうしてひまりの方から席へ来ることも多い。
「ひまりー。」
美咲が呼ぶ。
「先生来たよ。」
「あ、やば。」
ひまりが立ち上がる。
「じゃあね。」
「うん。」
自分の席へ戻っていく。
遼はその背中を見てから、スマートフォンへ目を戻した。
何も問題はない。
それでいい。
午前中の授業も、昼休みも、何も起こらなかった。
昼休みにはひまり、美咲、神谷を含む何人かが教室の後ろで話していた。
「神谷くん、それ絶対嘘。」
「ほんとだって。」
「サッカー部ってそんな走るの?」
「走る。」
「私なら死ぬ。」
「夏川さん体力あるじゃん。」
「それとこれは別。」
笑い声が聞こえる。
遼は榊と昼食を食べながら、その輪へ何度か目を向けた。
「また見てる。」
榊が言う。
「見てない。」
「見てる。」
「たまたま。」
「そのたまたま多すぎ。」
遼はパンの袋を丸めて榊へ投げた。
「ゴミ投げんな。」
「捨てといて。」
「嫌だよ。」
榊が投げ返す。
そんなことをしているうちに、昼休みは終わった。
六時間目は数学だった。
教師が黒板へ式を書き続ける。
遼はノートを取りながら、時々時計を見る。
あと十五分。
眠い。
教室全体にも、午後最後の授業特有のだるい空気が漂っていた。
「ここ、来週のテストに出すからな。」
教師が言う。
何人かが慌ててノートへ印を付ける。
そのとき、廊下から声が聞こえた。
「お前マジでやめろって!」
笑い声。
隣のクラスだろうか。
教師が一度だけドアの方を見る。
「うるさいな。」
それだけ言って、また黒板へ向き直る。
遼は何となく前を見た。
ひまりがいる。
普通にノートを取っていた。
何も起きない。
やっぱりもう大丈夫なのかもしれない。
そう思った。
直後。
「だからやめろって言ってんだろ!」
今度は、さっきより大きな声だった。
笑っているようにも聞こえる。
怒っているようにも聞こえる。
誰かが廊下を走る音。
机か何かへぶつかったような、大きな音。
教師が眉をひそめる。
「ちょっと見てくる。」
教室を出る。
途端に、生徒たちがざわつき始めた。
「何?」
「喧嘩?」
「隣じゃない?」
「見に行こうぜ。」
何人かが立ち上がる。
「やめとけって。」
榊が笑いながら言う。
遼も廊下へ目を向ける。
そして、視界の端で何かが動いた。
ひまりだった。
ペンが床へ落ちている。
本人は拾おうとしない。
机の上へ両手を置いたまま、俯いていた。
遼は少しだけ身体を起こした。
「夏川?」
声は届かなかった。
周りが騒がしい。
もう一度呼ぼうとした、そのとき。
ひまりが突然立ち上がった。
椅子が後ろへ倒れる。
大きな音がした。
教室中の視線が集まった。
「え?」
美咲が振り向く。
ひまりは何も言わなかった。
そのまま教室の後ろへ向かって歩く。
速い。
歩くというより、逃げるようだった。
「ひまり?」
美咲が立ち上がる。
ひまりは教室の後ろのドアを開け、そのまま廊下へ出ていった。
「ちょっと。」
美咲が追いかけようとする。
遼も立ち上がっていた。
自分でも、なぜ立ったのか分からなかった。
「秋月?」
榊がこちらを見る。
「ちょっと行ってくる。」
「え。」
遼は教室を出た。
廊下には何人かの生徒がいた。
騒ぎの中心は反対側だった。
ひまりの姿を探す。
階段。
いた。
踊り場を下りていく金色の髪が見えた。
「夏川!」
呼ぶ。
止まらない。
遼も階段を下りる。
一階。
ひまりは廊下の突き当たりまで行き、外へ続く扉の前でようやく止まった。
「夏川。」
遼が近付く。
反応はない。
顔が見えない。
「大丈夫。」
そこまで言いかけて、止めた。
以前言われたことを思い出す。
大丈夫って聞かれると、大丈夫って言わなきゃって思うから。
遼は何も言わず、少し離れたところで止まった。
ひまりの肩が小さく上下している。
呼吸が速い。
手が震えている。
「……ごめ。」
ひまりが言った。
「うん。」
「ごめん。」
「謝らなくていいよ。」
「違う。」
声が震える。
「違うの。」
遼には何が違うのか分からなかった。
ひまりは両手で耳を塞いだ。
「やめて。」
「何もしてないよ。」
「違う。」
また同じ言葉。
「やめて。」
遼は黙った。
ひまりはここを見ていない。
少なくとも、遼を見てはいなかった。
何か別のものを見ている。
そんな気がした。
「夏川。」
「……。」
「俺ここにいるから。」
返事はない。
それでも遼は近付かなかった。
数分だったのかもしれない。
もっと長かった気もする。
ひまりの呼吸が少しずつ落ち着いていく。
耳を塞いでいた手が下がる。
「……秋月くん。」
「うん。」
「いつからいた?」
「階段から。」
「そっか。」
ひまりは小さく笑おうとした。
笑えなかった。
「久しぶりだね。」
「何が。」
「これ。」
自分の胸元を指す。
「最近なかったから。」
「うん。」
「治ったと思ってた。」
遼は何も言わなかった。
「やっぱ駄目だね。」
「そういうことじゃないだろ。」
「じゃあどういうこと?」
ひまりが顔を上げる。
目が赤かった。
泣いたわけではない。
それでも、ひどく疲れて見えた。
「分かんないけど。」
「分かんないんじゃん。」
「うん。」
遼がそう答えると、ひまりはほんの少しだけ笑った。
「秋月くんって、適当だよね。」
「よく言われる。」
「誰に?」
「今、夏川に。」
「それだけじゃん。」
「じゃあ初めて言われた。」
ひまりがまた少し笑う。
いつもの笑顔とは違う。
弱い。
それでも、さっきよりは呼吸が落ち着いていた。
「保健室行く?」
「……行きたくない。」
「じゃあここいる?」
「先生に怒られる。」
「事情話せば大丈夫だろ。」
「大丈夫って言った。」
「あ。」
「ふふ。」
ひまりが笑った。
「今のはいいよ。」
「難しいな。」
「難しい女だから。」
「自分で言うんだ。」
「うん。」
二人で少しだけ笑った。
そのとき、階段の方から足音が聞こえた。
「ひまり!」
美咲だった。
その後ろから榊も来る。
「いた!」
美咲は駆け寄ると、ひまりの肩へ手を置いた。
「何してんの! 急にいなくなるから。」
「ごめん。」
「また?」
「……うん。」
美咲の表情が曇る。
「久しぶりじゃん。」
「ね。」
「大丈夫?」
ひまりは一瞬だけ止まった。
それから、
「大丈夫。」
と笑った。
遼はその顔を見ていた。
さっきまでとは違う。
いつものひまりだった。
美咲が来た瞬間に戻った。
「ほんと?」
「ほんとほんと。」
「保健室行く?」
「行かない。」
「でも。」
「もう平気だから。」
笑う。
美咲はまだ心配そうだったが、やがて「無理しないでよ」と言って肩から手を離した。
「先生には俺から言っとく。」
榊が言う。
「授業戻れそう?」
「うん。」
「じゃあ先戻ってる。」
「ありがと。」
榊は遼を見る。
「秋月は?」
「俺も戻る。」
そう答えた。
四人で階段を上がる。
美咲とひまりが前。
遼と榊が少し後ろ。
「びっくりした。」
榊が小声で言う。
「急にお前まで飛び出すから。」
「ごめん。」
「いや、いいけど。」
榊は前を歩くひまりを見る。
「また出たんだな。」
「うん。」
「最近なかったのに。」
「そうだな。」
「まあ、仕方ないか。」
それだけ言って、榊は前を向いた。
教室へ戻ると、教師もすでに戻っていた。
「夏川、大丈夫か?」
「はい!」
明るい声。
「すみませんでした。」
「体調悪いなら保健室行っていいぞ。」
「もう平気です!」
「そうか。」
授業が再開する。
ひまりは席へ座り、落としたペンを拾った。
ノートを開く。
何事もなかったように、黒板の続きを書き始める。
遼も席へ戻った。
教科書を開く。
教師の声を聞く。
いつもの授業。
いつもの教室。
前には、いつものひまりがいる。
遼はペンを持った。
そのときだった。
胸の奥に、妙な感覚があることに気付いた。
何だろう。
心配。
それはある。
ひまりがまた苦しんだ。
治ったと思っていたのに。
可哀想だと思う。
できることなら、もう起きない方がいい。
それなのに。
階段を下りた先で、ひまりと二人になった時間を思い出す。
美咲にも、榊にも見せなかった顔。
笑えないひまり。
震えていた声。
自分へだけ聞かせた弱い声。
そして、
『秋月くん。』
そう呼ばれた瞬間。
遼は、自分が少しだけ嬉しかったことを思い出した。
ペンが止まった。
何で。
遼は前を見る。
ひまりは普通にノートを取っている。
よかった。
もう落ち着いた。
それでいい。
そう思う。
そう思っているはずなのに、さっきまで二人だけだった時間が終わってしまったことを、どこかで残念に思っている自分がいた。
遼は視線をノートへ戻した。
気のせいだ。
そう思った。
放課後、ひまりは美咲と帰った。
「今日は真っ直ぐ帰るから。」
「当たり前。」
「過保護。」
「誰のせい。」
「私。」
「分かってんじゃん。」
二人は笑いながら教室を出ていく。
ひまりは途中で振り返った。
「秋月くん。」
「何。」
「さっきありがと。」
「うん。」
「じゃあね。」
「また明日。」
ひまりは手を振り、そのまま美咲と廊下へ消えた。
遼はその姿が見えなくなるまで眺めていた。
「秋月。」
榊が隣から言う。
「今日コンビニ寄る?」
「うん。」
帰り道も、家へ帰ってからも、さっきの感覚が少しだけ残っていた。
夜。
二十二時四十分。
スマートフォンが震えた。
ひまり。
その名前を見た瞬間。
遼の指は、考えるより先に通知を開いていた。
『起きてる?』
久しぶりに見る文章だった。
心臓が少しだけ速くなる。
心配だから。
たぶん。
『起きてる』
送る。
すぐに既読が付いた。
『今日』
『電話していい?』
遼は画面を見つめた。
その瞬間、自分の中に浮かんだ感情を、今度は誤魔化せなかった。
嬉しい。
そう思った。
ほんの一瞬。
確かに。
「……何で。」
誰もいない部屋で、遼は小さく呟いた。




