第18話 青春だね
それから、ひまりと電話をする日は少しずつ増えていった。
毎日ではない。
約束をしているわけでもない。
夜になって、ひまりから『暇』と一言だけ送られてくる日もあれば、遼の方から『数学の宿題どこ』と聞いたことをきっかけに、そのまま通話へ移ることもあった。話す内容も学校でしている会話と大して変わらず、誰かの噂話をしたり、次の定期試験が面倒だと愚痴を言ったり、ひまりが動画を見ながら笑っている声だけがしばらく聞こえていたり、電話をしている意味があるのか分からない時間も多かった。
『秋月くん。』
「何。」
『今何してる?』
「英語。」
『勉強?』
「宿題。」
『真面目。』
「明日提出だぞ。」
『……え?』
遼はペンを止めた。
「知らなかったの。」
『ちょっと待って。』
電話の向こうで何かを探す音がする。
『うそ。ほんとじゃん。』
「書いてあるだろ。」
『聞いてない!』
「先生言ってた。」
『聞いてない!』
「寝てた?」
『起きてた。』
「じゃあ聞けよ。」
『秋月くん見せて。』
「嫌。」
『お願い。』
「自分でやれ。」
『冷たい。』
「三ページしかない。」
『三ページもある。』
「頑張れ。」
『電話切るよ。』
「どうぞ。」
『……切ってほしくないくせに。』
遼は一瞬黙った。
「別に。」
『出た。』
ひまりが笑う。
『別に。』
「真似するな。」
『別に。』
「宿題やれ。」
『はーい。』
それから十分ほど、二人ともほとんど話さなかった。
遼が問題を解く音と、時々ひまりがページをめくる音だけが通話越しに聞こえてくる。
以前なら、電話をしているのに黙っていることを不思議に思ったかもしれない。
今は、そうでもなかった。
『ねえ。』
「何。」
『三番分かんない。』
「どこ。」
『二ページ目。』
「それ一番簡単なやつ。」
『分かんないものは分かんない。』
「写真送って。」
『はい。』
数秒後、問題の写真が届く。
遼はそれを見ながら説明する。
『あー。』
「分かった?」
『分かった気がする。』
「じゃあやって。」
『先生。』
「誰が。」
『秋月先生。』
「金取るぞ。」
『じゃあいいです。』
「安い生徒だな。」
また笑う。
そんな夜が続いた。
学校でも、二人が話す時間は以前より増えていた。
とはいえ、ひまりが遼に付きっきりになるわけではない。朝は美咲と話し、昼休みには女子の輪へ入り、体育では別の女子と組み、放課後になれば駅前へ寄って帰る。
その合間に、時々遼のところへ来る。
「秋月くん。」
「何。」
「消しゴム貸して。」
「持ってるじゃん。」
「こっちの方が消しやすそう。」
「同じだろ。」
「貸して。」
「はい。」
「ありがと。」
数分後。
「返して。」
「まだ使ってる。」
「自分の使えよ。」
「こっち好き。」
「じゃああげる。」
「ほんと?」
「百円。」
「高。」
ひまりが笑う。
それだけだった。
けれど、そういうやり取りが増えた。
「仲いいねえ。」
ある昼休み、美咲が二人の間へ割って入るように遼の机へ手をついた。
「最近。」
「そう?」
ひまりが答える。
「そうだよ。」
「普通だよ。」
「秋月くんまでうつってるじゃん。」
「何が。」
「普通って言うやつ。」
「元々言ってる。」
「じゃあひまりがうつったのか。」
「そうかも。」
ひまりは笑う。
美咲は二人を交互に見たあと、少しだけ口元を上げた。
「電話もしてるんでしょ?」
「毎日じゃないよ。」
「どのくらい?」
「週……。」
ひまりが指を折る。
「三?」
「昨日もしただろ。」
「あ、じゃあ四。」
「多くない?」
美咲が笑う。
「もう付き合えばいいじゃん。」
「何でそうなるの。」
「だって電話週四でしょ?」
「友達でもするでしょ。」
「私はしない。」
「美咲は電話嫌いじゃん。」
「そうだけど。」
美咲は少し考えてから、遼を見る。
「秋月くんは?」
「何が。」
「ひまりと付き合いたい?」
「ちょっと!」
ひまりが先に声を上げた。
「何聞いてんの!」
「いいじゃん。」
「よくない!」
「本人いるんだから一番早いじゃん。」
「そういう問題じゃないでしょ!」
ひまりが美咲の肩を叩く。
遼はその様子を見ながら、少し困った。
付き合いたいか。
考えたことがないわけではなかった。
ひまりは可愛い。
一緒にいるのも楽しい。
電話が来れば嬉しい。
それなら、好きなのかもしれない。
けれど、改めて言葉にしようとすると、よく分からなかった。
「ほら、秋月くん困ってるじゃん。」
「ひまりも顔赤いよ。」
「赤くない!」
「赤い赤い。」
「美咲!」
笑い声が教室へ広がる。
遼も結局、答えなかった。
美咲も本気で答えを求めていたわけではないらしく、すぐに別の話題へ移った。
その日の放課後。
ひまりは美咲と帰った。
「じゃあね、秋月くん。」
「また明日。」
「うん。」
手を振って教室を出ていく。
遼も榊と駅へ向かった。
「青春だねえ。」
校門を出たところで、榊が言った。
「お前もか。」
「何が。」
「美咲と同じこと言ってる。」
「だってそうじゃん。」
「普通に友達。」
「週四で電話する友達。」
「そこだけ聞くと多いな。」
「多いんだよ。」
榊は笑った。
「まあいいけど。」
「何が。」
「夏川さん、最近調子よさそうじゃん。」
遼は少しだけ考える。
「そうだな。」
言われてみれば、そうだった。
文化祭の階段以来、ひまりは発作を起こしていない。
授業中に教師が声を荒らげても、以前のように固まることはなかった。LINEの通知音が鳴っても普通にしているし、写真を撮ることも避けていない。
フラバちゃんというあだ名だけが残り、肝心のフラバはしばらく起きていなかった。
「いいことだな。」
榊が言う。
「ああ。」
遼も頷いた。
本当に、そう思った。
それからさらに一週間が過ぎた。
ひまりは元気だった。
発作はない。
保健室へも行かない。
夜に眠れないというLINEも来ない。
代わりに、普通のLINEが来る。
『見て』
猫の動画。
『かわいい』
『うん』
『反応薄』
『かわいいです』
『よろしい』
別の日には、
『今日美咲とラーメン』
という文章と一緒に写真が送られてきた。
『女子高生が食う量じゃない』
『美咲替え玉してる』
『強い』
『私はしないよ』
『聞いてない』
『大事』
ひまりは楽しそうだった。
学校でも、美咲と笑っている時間が増えていた。
神谷とも以前と変わらず話している。
文化祭が終わって実行委員として一緒にいる必要はなくなったが、廊下で会えば立ち止まって話し、体育のあとには何人かで一緒に教室へ戻ってくる。
遼とも話す。
夜には電話もする。
何も問題はなかった。
むしろ、転校してきてから今が一番安定しているように見えた。
ある日の昼休み。
「ひまり。」
美咲が弁当を食べながら言った。
「ん?」
「最近フラバってないね。」
「あ。」
ひまりは少し考える。
「確かに。」
「何日?」
「知らない。」
「二週間くらい?」
「そんな経った?」
「たぶん。」
美咲は嬉しそうに笑った。
「よかったじゃん。」
「うん。」
ひまりも笑う。
「このまま治ったりして。」
「治るものなの?」
「知らない。」
「適当。」
「でも最近ほんと平気なんだよね。」
ひまりはそう言って、卵焼きを口へ入れた。
「前より学校楽しいからかな。」
「お。」
美咲が笑う。
「いいこと言うじゃん。」
「美咲のおかげかも。」
「もっと言って。」
「調子乗るからやめる。」
「何だよ。」
二人が笑う。
周りの女子も笑う。
遼は少し離れたところからその会話を聞いていた。
よかった。
そう思った。
ひまりが苦しまない。
それに越したことはない。
以前の学校で何があったのかは、まだ知らない。
それでも、今の学校で楽しく過ごせているのなら、それでいいのかもしれない。
その夜、ひまりからLINEは来なかった。
翌日も来なかった。
三日目。
学校では普通に話した。
昼休みには遼の席まで来て、昨日見たテレビの話をしていた。
けれど、夜は何も来なかった。
四日目。
遼はベッドへ入り、スマートフォンを見る。
二十三時十八分。
通知はない。
最後のやり取りは四日前だった。
別に珍しいことではない。
毎日連絡を取ると決めていたわけでもない。
学校では会っている。
今日だって話した。
何も問題はない。
遼は動画を一本見て、スマートフォンを伏せた。
五分ほどして、また画面を見る。
何も来ていない。
自分から送ればいい。
そう思った。
けれど、特に用事がなかった。
『暇』
ひまりなら、それだけで送ってくる。
自分が同じことをするのは、何となく違う気がした。
結局、何も送らなかった。
翌朝。
「おはよー!」
ひまりはいつも通りだった。
教室へ入ると美咲のところへ行き、笑いながら昨日の話を始める。
遼にも、
「おはよ、秋月くん。」
と声を掛けた。
「おはよう。」
それだけ。
何もおかしくない。
昼休みには神谷を含めた数人で購買へ行っていた。
放課後は美咲と駅前へ行くらしい。
「また服見るの?」
「今日はコスメ。」
「この前買ってなかった?」
「美咲、分かってないね。」
「何が。」
「女の子は何回でも見るの。」
「あ、それ前も言ってた。」
「覚えてるじゃん。」
二人は笑いながら教室を出ていった。
遼はその背中を見送る。
「秋月。」
榊が隣へ来る。
「帰る?」
「うん。」
「何見てたの。」
「別に。」
「夏川さん?」
「違う。」
「絶対そうじゃん。」
「違うって。」
榊は笑った。
遼も笑った。
ただ、駅まで歩いている間も、何となくスマートフォンが気になった。
その日の夜も、通知は来なかった。
五日目。
六日目。
ひまりは元気だった。
笑っていた。
遼とも話した。
それでも、夜のLINEは以前より明らかに減っていた。
遼は初めて、自分から送った。
『宿題終わった?』
数分後。
『終わったよー』
『秋月くんまだ?』
『うん』
『珍しい』
『数学だるい』
『がんばれ笑』
そこで会話は終わった。
以前なら、そのまま何十分も続いた気がした。
遼はスマートフォンを置いた。
何かが変わったわけではない。
ひまりが自分を避けているわけでもない。
むしろ、いいことだった。
一人でも眠れる。
夜に誰かと話さなくても平気。
学校も楽しい。
発作も起きない。
少しずつ、元気になっている。
遼はベッドへ横になった。
よかった。
本当に。
そう思った。
それなのに、以前より夜が少しだけ長く感じた。




