第17話 寝落ち通話
翌朝、遼が目を覚ましたとき、最初に聞こえたのは聞き慣れない小さな音だった。
規則正しく、少しだけ掠れた呼吸の音。
何だろうと思いながら枕元へ手を伸ばし、スマートフォンの画面を点ける。
通話中。
表示されている名前は、夏川ひまり。
「……え。」
一瞬、何が起きているのか分からなかった。
昨夜のことを思い出す。
ひまりからLINEが来た。前の学校のことを思い出して眠れないと言われた。電話していいかと聞かれ、そのまま通話を始めた。
そこまでは覚えている。
けれど、いつ寝たのかは覚えていなかった。
画面の通話時間を見る。
六時間十二分。
「長……。」
思わず声が漏れた。
その声が聞こえたのか、電話の向こうで小さく布団の擦れる音がした。
『……ん。』
「夏川?」
返事はない。
また静かな呼吸だけが聞こえる。
寝ているらしい。
遼は時計を見る。
六時四十七分。
学校へ行くにはまだ少し余裕がある。
通話を切ろうとして、指を止めた。
別に切ってもいい。
むしろ、切るべきなのかもしれない。
それでも何となく、寝ている本人より先に切るのが悪いような気がして、そのままスマートフォンを枕元へ置いた。
洗面所へ行き、顔を洗う。
制服へ着替える。
戻ってきても、まだ通話は続いていた。
「夏川。」
少し大きめの声で呼ぶ。
『……んー。』
「朝。」
『……あさ?』
「七時。」
数秒の沈黙。
『……え?』
急に布団の擦れる音が大きくなった。
『七時!?』
「うん。」
『うそ!』
「ほんと。」
『待って待って待って。』
ばたばたと何かが動く音が聞こえる。
『え、電話。』
「うん。」
『まだ繋がってる?』
「今喋ってるだろ。」
『え、ずっと?』
「六時間くらい。」
沈黙。
『……うそ。』
「ほんと。」
『切ってよ!』
「夏川が切ると思ってた。」
『私寝てたもん!』
「俺も寝てたよ。」
『じゃあしょうがないか。』
「しょうがない。」
電話の向こうで、ひまりが笑った。
昨夜の掠れた声とは違う。
学校で聞く、いつもの声に近かった。
『でもめっちゃ寝た。』
「よかったな。」
『秋月くんは?』
「寝た。」
『ほんとに?』
「うん。」
『私うるさくなかった?』
「寝てたから知らない。」
『寝言とか。』
「知らない。」
『ほんと?』
「たぶん。」
『絶対嘘。』
「何で。」
『なんか恥ずかしい。』
「今さら?」
『今さらだから恥ずかしいの。』
また笑う。
その声を聞いていると、昨夜ひまりが眠ることすら怖がっていたことが少し現実味を失っていく。
『あ、準備しなきゃ。』
「うん。」
『じゃあ切るね。』
「分かった。」
一瞬だけ間があった。
『……昨日ありがと。』
「何もしてないけど。」
『うん。』
ひまりは小さく笑った。
『それでいいの。』
通話が切れた。
画面には通話時間だけが残る。
六時間二十一分。
遼はそれを少し眺めてから、スマートフォンをポケットへ入れた。
学校へ着くと、ひまりはすでに教室にいた。
美咲と何かを話している。
「だから寝坊しかけたんだって。」
「珍しいじゃん。」
「昨日寝るの遅くて。」
「また夜更かし?」
「違う違う。」
遼が教室へ入る。
ひまりが気付いた。
「あ。」
目が合う。
「おはよ。」
「おはよう。」
それだけだった。
ただ、ひまりは少し笑った。
遼も自分の席へ向かう。
「秋月。」
榊が鞄を机へ置きながら顔を覗き込んできた。
「眠そう。」
「眠い。」
「夜更かし?」
「まあ。」
「何してたの。」
「電話。」
「珍しいな。誰と?」
答えようとしたところで、
「私!」
教室の前から声が飛んできた。
遼は顔を上げる。
ひまりが手を挙げていた。
「何で言うの。」
「別にいいじゃん。」
「え。」
榊が遼を見る。
それからひまりを見る。
もう一度遼を見る。
「電話?」
「うん。」
「昨日?」
「うん。」
「二人で?」
「電話って普通二人じゃない?」
「そういうこと聞いてない。」
榊の声が少し大きくなったせいで、美咲もこちらを見た。
「何?」
「夏川さんと秋月、昨日電話してたらしい。」
「へえ。」
美咲は一度頷く。
そのまま数秒止まった。
「……え?」
「だから電話。」
「いつ?」
「夜。」
ひまりが答える。
「何時まで?」
「朝。」
美咲が黙った。
榊も黙った。
遼は嫌な予感がした。
「朝?」
「寝ちゃって。」
「寝ちゃって?」
「起きたらまだ繋がってた。」
「寝落ち通話じゃん!」
美咲の声が教室へ響いた。
「ちょ、声大きい!」
ひまりが慌てて美咲の口を塞ごうとする。
「何してんのあんた!」
「何って電話!」
「朝まで!?」
「寝てただけだから!」
「それを寝落ち通話って言うんだよ!」
周りにいた女子たちまで反応し始める。
「え、何?」
「ひまり誰と寝落ち通話したの?」
「秋月くん。」
「えー!」
「違う違う違う!」
ひまりが両手を振る。
「そういうんじゃないから!」
「どういうんだよ。」
榊が笑う。
「秋月、お前昨日まで普通の友達とか言ってなかった?」
「普通の友達だよ。」
「普通の友達と六時間電話する?」
「ほとんど寝てた。」
「時間の問題じゃない。」
「じゃあ何の問題なんだよ。」
教室に笑い声が広がる。
ひまりも最初こそ否定していたが、途中から面倒になったのか机へ突っ伏した。
「もういい。」
美咲がその背中を軽く叩く。
「フラバちゃん、青春してるねえ。」
「うるさい。」
「彼氏できたら教えてね。」
「違うって言ってるでしょ。」
「秋月くん。」
突然、美咲が遼を見る。
「責任取ってね。」
「何の。」
「知らない。」
「知らないのかよ。」
また笑い声が起きた。
ひまりも顔を上げ、遼と目が合うと困ったように笑った。
朝のホームルームが始まるまで、その話題はしばらく続いた。
けれど一時間目が始まる頃には、もう誰も気にしていなかった。
ひまりもいつも通り授業を受けていた。
昨夜のことを知っているのは、遼だけだった。
眠れないと言ったこと。
目を閉じるのが怖いと言ったこと。
何かを思い出していること。
そして、電話を切らないでほしいと言ったこと。
朝の教室で笑っているひまりからは、そのどれも想像できなかった。
昼休み。
遼がパンを食べていると、ひまりが一人でやって来た。
「ここいい?」
「いいよ。」
前の席へ座る。
今日は美咲と一緒ではなかった。
「美咲は?」
「食堂。」
「行かなかったの。」
「うん。」
ひまりは弁当箱を開く。
「朝のあれ、ごめんね。」
「何が。」
「電話のこと。」
「ああ。」
「まさかあんな騒がれると思わなかった。」
「普通言わないだろ。」
「だって榊くんが聞くから。」
「俺に聞いたんだよ。」
「答えてあげただけ。」
「余計なお世話。」
「ごめんごめん。」
ひまりは笑いながら卵焼きを口へ入れる。
少しして、声を小さくした。
「でも。」
「うん。」
「昨日の理由は言わないでね。」
遼はひまりを見る。
「言わないよ。」
「ほんと?」
「言う理由ないし。」
「そっか。」
ひまりは少し安心したように笑った。
「美咲にも?」
「言わない。」
「ありがと。」
「美咲には話してないの。」
「前の学校のこと?」
「うん。」
ひまりは箸を止めた。
「……あんまり。」
「そうなんだ。」
「美咲はさ。」
少し考える。
「今の私しか知らないから。」
「うん。」
「それでいいかなって。」
ひまりはまた弁当を食べ始める。
遼はそれ以上聞かなかった。
ひまりも何も話さなかった。
その日の夜、十時半。
ひまりからLINEが来た。
『今日電話する?』
遼は画面を見る。
昨日とは違う。
今日は何も起きていない。
少なくとも、そう見えた。
『今日も眠れない?』
『違うよ』
すぐに返ってくる。
『普通に』
続けて、
『電話したいだけ』
遼は少しだけ笑った。
『いいよ』
数秒後、着信画面へ切り替わる。
「もしもし。」
『もしもし。』
今日のひまりの声は明るかった。
『今日は寝落ちしないからね。』
「昨日もする予定じゃなかっただろ。」
『今日はちゃんと切る。』
「はいはい。」
『秋月くん。』
「何。」
『今日美咲にめっちゃ弄られた。』
「自業自得。」
『秋月くんのせいでもある。』
「何で。」
『電話切らなかったから。』
「夏川もだろ。」
『私は寝てました。』
「俺も寝てました。」
『じゃあ引き分け。』
「何と戦ってるの。」
ひまりが笑う。
その日は、怖いとも、眠れないとも言わなかった。
学校の話をして、榊の話をして、美咲の話をして、文化祭の写真を見返して、くだらない話だけで一時間ほどが過ぎた。
『じゃあ今日は切るね。』
「うん。」
『おやすみ。』
「おやすみ。」
今度はちゃんと通話が切れた。
遼はスマートフォンを枕元へ置く。
昨日とは違う。
ひまりは苦しんでいなかった。
それでも電話をしてきた。
そのことが、少しだけ嬉しかった。




