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第16話 帰り道

文化祭が終わった翌週、教室は急に広くなったように感じられた。


壁を覆っていた飾りは外され、積み上げられていた段ボールもなくなり、廊下へ運び出されていた机も元の位置へ戻っている。ほんの数日前まで毎日のように放課後まで残っていたのが嘘みたいに、六時間目が終われば帰宅部の生徒たちはすぐに鞄を持って教室を出るようになった。


「終わると一瞬だな。」


榊が机へ頬杖をつきながら言う。


「一か月くらい準備してたのに。」


「そんなもんだろ。」


「もっと余韻とかないの?」


「何の。」


「文化祭の。」


「写真見れば。」


「そういうことじゃないんだよ。」


榊は不満そうにスマートフォンを取り出し、クラスLINEへ送られてきた写真を眺め始めた。


「これ結構いいじゃん。」


「どれ。」


「前日に撮ったやつ。」


見せられた画面には、教室いっぱいにクラスの生徒たちが並んでいる。


遼もいる。


榊もいる。


神谷も、美咲もいる。


中央ではひまりが笑っていた。


「お前ほんと顔固いな。」


「普通だろ。」


「夏川さんと比べてみろよ。」


「比べる相手が悪い。」


「それはそう。」


榊が笑う。


「でも夏川さん、写真好きだよな。」


遼はもう一度画面を見る。


「そうなの?」


「文化祭の日もずっと撮ってたじゃん。」


「ああ。」


「意外だった。」


「何が。」


「ほら。」


榊は一瞬だけ言葉を選んだ。


「最初のやつ。」


集合写真。


遼にもすぐ分かった。


「写真自体が駄目なわけじゃないんだろ。」


「そうみたいだな。」


「じゃあ何だったんだろうな。」


遼は答えなかった。


分からない。


以前なら、それだけだった。


今は少し違う。


ひまりに聞けば、もしかすると教えてくれるのではないか。


そんな考えが浮かぶようになっていた。


けれど、聞こうとは思わなかった。


少なくとも、今は。


「秋月くん。」


噂をしていると、教室の前からひまりが歩いてきた。


「何見てるの?」


「文化祭の写真。」


「見せて。」


ひまりは遼の机へ手をつき、榊のスマートフォンを覗き込む。


「あー、これ!」


「夏川さんめっちゃ笑ってる。」


「可愛いでしょ。」


「自分で言うんだ。」


「事実だから。」


「強い。」


榊が笑う。


ひまりは画面を指で動かしながら、次々と写真を見ていく。


「あ、これ美咲ひどい。」


「何が。」


「顔。」


「本人に送っとく?」


「送ろ送ろ。」


「お前ら仲いいのか悪いのか分かんないな。」


「超仲いいよ。」


ひまりは迷いなく答えた。


「ね、美咲!」


少し離れた席にいた美咲へ声を掛ける。


「何ー?」


「私たち仲いいよね!」


「急に何。」


「いいから。」


「まあ、普通。」


「ひど!」


教室に笑い声が起きる。


「うそうそ。仲いい仲いい。」


「雑すぎる。」


ひまりも笑う。


その笑顔を見ながら、遼は文化祭の日の階段を思い出していた。


あのときとはまるで違う。


呼吸を乱していたことも、手すりを握ったまま動けなくなっていたことも、今のひまりを見ていると遠い出来事のように思える。


昼休みになると、ひまりは美咲たちと教室を出ていった。


「食堂行ってくる!」


「はいはい。」


「秋月くんも来る?」


「今日はパンある。」


「そっか。」


それだけ言って手を振り、教室を出ていく。


遼は購買で買っておいたパンを取り出した。


「最近普通に誘われるな。」


榊が言う。


「何が。」


「夏川さん。」


「そう?」


「そう。」


「誰でも誘うだろ。」


「出た。」


「何。」


「夏川さんだから理論。」


榊は笑いながら椅子を反対向きにして座った。


「お前さ、絶対自分が好かれてる可能性考えないよな。」


「好かれてはいるんじゃない。」


「お。」


「友達として。」


「つまんねえ。」


「何を期待してるんだよ。」


「青春。」


「自分でやれ。」


「相手がいない。」


「知らない。」


二人で笑う。


窓の外では、文化祭が終わった校庭で運動部がいつもの練習をしていた。


日常に戻った。


そんな感じがした。


その日の放課後、遼が昇降口で靴を履き替えていると、後ろから肩を叩かれた。


「秋月くん。」


振り向く。


ひまりだった。


「一人?」


「榊は部活の友達に呼ばれた。」


「じゃあ一緒に帰ろ。」


「美咲は?」


「今日用事あるって。」


「神谷は?」


「何で神谷くん出てくるの。」


「実行委員。」


「文化祭終わりました。」


「ああ、そっか。」


「もう私たちただのクラスメイトです。」


ひまりは少し大げさに肩を落とした。


「寂しい?」


「ちょっと。」


「仲良かったもんな。」


「神谷くん、いい人だしね。」


靴を履き替えながら、ひまりは何でもないことのように答える。


「でも文化祭終わってよかったかも。」


「どうして。」


「疲れた。」


「やっぱり。」


「めちゃくちゃ疲れた。」


ひまりは笑う。


「楽しかったけどね。」


二人で校門を出る。


文化祭前は毎日のように暗くなるまで学校へ残っていたせいか、まだ空が明るいうちに帰ることが少し変な感じだった。


「暇になったね。」


ひまりが言う。


「そうだな。」


「放課後ってこんな暇だったっけ。」


「元々こうだった。」


「何してた?」


「帰ってた。」


「つまんな。」


「普通だろ。」


「秋月くんの普通、だいたいつまんない。」


「失礼だな。」


ひまりは笑う。


駅へ向かう道の途中に、小さなファストフード店があった。


ひまりがその前で足を止める。


「ね。」


「何。」


「ポテト食べたい。」


「食べれば。」


「一人で?」


「俺に聞いてる?」


「他に誰がいるの。」


遼は店を見る。


「いいよ。」


「やった。」


二人で店へ入った。


平日の夕方ということもあり、店内には同じ学校の制服を着た生徒が何人かいた。ひまりはポテトとジュースを注文し、遼も同じものを頼む。


「奢ってくれないんだ。」


「何で。」


「男の子だから。」


「偏見。」


「甲斐性なし。」


「帰るぞ。」


「嘘嘘。」


笑いながらトレーを持ち、窓際の席へ座る。


文化祭の話をした。


神谷が働きすぎだったこと。


美咲が他クラスの男子に声を掛けられていたこと。


榊がお化け屋敷で本気で驚いていたこと。


「榊くん、あれ面白かった。」


「本人は否定してたけどな。」


「動画撮ればよかった。」


「怒るぞ。」


「秋月くんは全然驚かなかったよね。」


「作り物だし。」


「可愛くない。」


「夏川は入る前から嫌がってたじゃん。」


「怖いものは怖いの。」


ひまりはポテトを一本口へ入れる。


「でも楽しかったなぁ。」


「うん。」


「転校してきてよかった。」


何気ない言葉だった。


遼はジュースへ伸ばしかけた手を止める。


「前の学校、嫌だった?」


ひまりの手が、ほんの少しだけ止まった。


しまった。


そう思ったときには、もう遅かった。


「……うん。」


ひまりはポテトを見ながら答えた。


笑ってはいなかった。


「ごめん。」


「何で秋月くんが謝るの。」


「聞かない方がよかったかなって。」


「別に。」


ひまりが顔を上げる。


少しだけ笑う。


「それくらい平気。」


「そっか。」


「うん。」


それ以上は聞かなかった。


ひまりも話さなかった。


数秒だけ会話が途切れたあと、ひまりが突然遼のトレーへ手を伸ばした。


「一本もらう。」


「自分のあるだろ。」


「秋月くんの方が美味しそう。」


「同じだよ。」


「一本くらいいいじゃん。」


「勝手に取ってから言うな。」


「美味しい。」


「同じだって。」


また笑う。


さっきの沈黙は、それだけで消えた。


店を出た頃には、空が少し暗くなり始めていた。


「じゃあね。」


駅前でひまりが手を振る。


「また明日。」


「うん。」


「今日はありがと。」


「ポテト?」


「それも。」


「それも?」


「何でもない。」


ひまりは笑い、そのまま改札へ向かって歩いていった。


遼も反対方向へ歩き始める。


帰宅して、夕食を食べ、風呂へ入り、宿題を終える。


十一時になっても、ひまりからLINEは来なかった。


珍しい。


そう思った。


そこで遼は、自分がひまりからの通知を待っていたことに気付いた。


毎日来るわけではない。


来ると約束したわけでもない。


それなのに、スマートフォンへ何度か目を向けていた。


十一時半。


通知はない。


遼はベッドへ横になった。


今日は美咲と話しているのかもしれない。


もう寝たのかもしれない。


別に、どちらでもいい。


そう思いながらスマートフォンを伏せる。


数分後。


震えた。


遼はすぐに手を伸ばした。


ひまりだった。


『起きてる?』


『起きてる』


既読はすぐに付いた。


けれど、次の文章はなかなか来なかった。


『どうした』


送る。


また既読。


一分ほど経つ。


『ごめん』


文化祭の少し前にも見た言葉だった。


『何が』


今度はすぐに返信が来た。


『今日さ』


『帰りに前の学校のこと聞いたじゃん』


遼は身体を起こす。


『うん』


『あれからちょっと思い出しちゃって』


そこで文章が止まった。


しばらくして、


『寝ようとしたんだけど』


『無理かも』


遼は画面を見た。


文化祭の夜に言われたことを思い出す。


今度ほんとに無理になったら、LINEしてもいい?


自分は、いいよと答えた。


『今どんな感じ』


送る。


『分かんない』


『ちょっと気持ち悪い』


『あと寝ると夢見そう』


『それが嫌』


返信の間隔が、いつもより短い。


『美咲は?』


送ってから、少しだけ迷った。


既読が付く。


『寝てる』


『起こしたくない』


それから、


『秋月くんも寝る?』


『まだ平気』


『ほんと?』


『うん』


少し間が空く。


『ありがと』


遼はベッドの背もたれへ身体を預けた。


『何か話す?』


『何でもいい』


『何でもが一番困る』


『じゃあ今日のポテト』


『もう話しただろ』


『美味しかった』


『それだけ?』


『うん』


いつもの調子に戻そうとしているのが分かった。


遼も合わせた。


『俺の一本取ったし』


『まだ言ってる』


『泥棒』


『一本で犯罪者にされた』


笑っているスタンプが届く。


少し安心した。


そこから十分ほど、くだらない話を続けた。


文化祭の写真。


明日の授業。


数学の宿題。


美咲が朝に弱いこと。


榊が最近太った気がするという話。


やがて、ひまりからの返信が少しずつ遅くなった。


『眠くなった?』


『ちょっと』


『じゃあ寝れば』


『うん』


それで終わると思った。


けれど、


『でも』


と届く。


『目閉じるの怖い』


遼は指を止めた。


『何か思い出す?』


しばらく返信はなかった。


『うん』


それだけだった。


『何を』


送ってから、聞いていいことなのか迷った。


既読が付く。


一分。


二分。


『ごめん』


『やっぱ言えない』


『分かった』


それ以上は聞かなかった。


今度は三分ほど何も来なかった。


もう寝たのかと思った頃、スマートフォンが震える。


『秋月くん』


『うん』


『電話していい?』


遼は画面を見た。


少しだけ驚いた。


LINEで話すことは増えたが、電話をしたことは一度もない。


『いいよ』


送信した直後、画面が切り替わった。


ひまりからの着信だった。


遼は通話ボタンを押す。


「もしもし。」


返事がない。


「夏川?」


小さく息を吸う音が聞こえた。


『……もしもし。』


いつものひまりとは違う声だった。


小さい。


少し掠れている。


「大丈夫?」


聞いてから、文化祭の日の言葉を思い出した。


大丈夫っていっぱい聞かれると、大丈夫って言わなきゃって思うから。


「あ。」


『何?』


「いや。」


遼は少し考える。


「何でもない。」


電話の向こうで、ひまりがほんの少し笑った。


『秋月くんらしい。』


「何が。」


『何でもない。』


しばらく、どちらも話さなかった。


通話越しに、ひまりの呼吸だけが聞こえる。


遼は何か話さなければならないのかと思ったが、何を言えばいいのか分からなかった。


だから、そのまま黙っていた。


一分ほど経った頃。


『ねえ。』


「うん。」


『切らないでね。』


遼はベッドへ横になった。


「分かった。」


『寝るまででいいから。』


「うん。」


また沈黙する。


何もしない。


何も聞かない。


ただ電話を繋いでいる。


それだけなのに、少しずつひまりの呼吸がゆっくりになっていくのが分かった。


『秋月くん。』


「何。」


『まだいる?』


「いるよ。」


『そっか。』


しばらくして、また呼ばれた。


『秋月くん。』


「いる。」


『まだ何も言ってない。』


「どうせいるか聞くと思った。」


電話の向こうで、小さな笑い声がした。


『正解。』


その声を聞いて、遼も少し笑った。


夜は静かだった。


学校で聞くひまりの大きな笑い声も、美咲の声も、神谷の声もない。


二人しかいない。


それが、遼には少しだけ不思議だった。

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