第15話 文化祭
文化祭当日の朝、教室へ入った瞬間から、普段とはまるで違う騒がしさがあった。
廊下を歩く生徒の数はいつもより多く、教室の前では最後の飾り付けを直している者がいて、どこかのクラスからは朝早くから音楽が聞こえてくる。遼が鞄を置く頃には、神谷はすでに実行委員用の腕章を着けて教室中を動き回っていた。
「秋月、おはよう。」
「早いな。」
「昨日寝たの二時。」
「寝ろよ。」
「無理。気になって寝れなかった。」
神谷は笑いながら手元の紙へ目を落とす。
「九時から一般公開だから、それまでに入口だけ直す。あと夏川さん来たら受付の確認して――」
「おはよー!」
名前を出したところで、ちょうど教室のドアが開いた。
「噂をすれば。」
ひまりだった。
いつもの制服姿ではあるものの、髪には小さな飾りを付けていて、普段より少しだけ気合いが入っているように見えた。
「どう?」
教室へ入るなり、その場で一回転する。
「何が。」
「今日の私。」
「いつもと同じ。」
「髪!」
「ああ。」
「気付いてよ。」
「可愛い可愛い。」
「適当!」
ひまりが頬を膨らませる。
その後ろから入ってきた美咲が笑った。
「秋月くん、朝から女心分かってないね。」
「美咲は気付いた?」
「家出る前から見せられた。」
「じゃあノーカウント。」
「何でだよ。」
三人で話していると、神谷がこちらへやって来る。
「夏川さん、ちょうどよかった。受付の――」
「あ、はいはい!」
ひまりはすぐに神谷のところへ向かう。
「忙しいな。」
遼が呟く。
「実行委員だもん。」
美咲はそう答えると、少し離れた場所で神谷と話しているひまりを見る。
「まあ、本人楽しそうだし。」
「そうだな。」
「昨日も十二時くらいまでLINEしてたよ。」
遼は少しだけ美咲を見る。
「そうなの。」
「うん。文化祭楽しみすぎて寝れないって。」
「へえ。」
「秋月くんにも送ってたでしょ?」
一瞬、返事が遅れた。
「まあ。」
「やっぱり。」
美咲は面白そうに笑った。
「最近仲いいね。」
「そう?」
「そうだよ。」
「普通じゃない。」
「またそれ。」
美咲はそれ以上追及せず、「私も準備しよ」と教室の奥へ歩いていった。
九時になると、校内は一気に人で溢れた。
他クラスの生徒だけでなく、保護者や中学生らしい集団も廊下を歩き、呼び込みの声と音楽と笑い声が入り混じる。遼たちのクラスにも途切れることなく客が入り、暇になると思っていた受付当番も予想以上に忙しかった。
「二名入りまーす!」
「こっちどうぞ!」
「神谷! これ足りない!」
「今持ってく!」
「夏川さん、受付代わって!」
「はーい!」
ひまりは朝からずっと動き回っていた。
受付へ座ったかと思えば呼び込みへ行き、誰かが困っていればそちらへ向かい、戻ってきたと思えば美咲と話し始める。
「元気だな。」
榊が隣で呟いた。
「昨日二時まで起きてたらしいぞ。」
「マジ?」
「美咲が言ってた。」
「文化祭でそこまでテンション上がれるの羨ましい。」
「分かる。」
「俺もう帰りたい。」
「まだ十時。」
「嘘だろ。」
遼が笑う。
そのとき、教室の入口から声が飛んできた。
「フラバちゃーん!」
別のクラスの女子だった。
「遊び来たよ!」
「その名前で呼ぶな!」
受付にいたひまりが笑いながら立ち上がる。
「誰から聞いたの!」
「美咲!」
「また美咲か!」
「可愛いじゃん、フラバちゃん。」
「全然可愛くない!」
笑い声が起きる。
いつの間にか、あだ名はクラスの外にまで広がっていた。
「結構広まってんな。」
榊が苦笑する。
「本人笑ってるけど。」
「まあ、夏川だし。」
遼も笑った。
昼を過ぎても、ひまりの勢いは落ちなかった。
美咲と他クラスを回り、戻ってきては神谷の仕事を手伝い、昼食もまともに取っていないらしい。
「ひまり。」
美咲がペットボトルを差し出す。
「飲んで。」
「ありがと。」
「あと何か食べなよ。」
「後で。」
「朝からそれ言ってる。」
「大丈夫だって。」
「倒れたら知らないからね。」
「はーい。」
ひまりは笑って水を飲むと、また誰かに呼ばれて立ち上がった。
午後二時を過ぎた頃だった。
遼は榊と廊下に出て、他クラスの展示を見ていた。
「これ終わったら三階行こうぜ。」
「何あるの。」
「知らない。」
「じゃあ何で行くんだよ。」
「知らないから。」
「なるほど。」
二人で階段へ向かおうとしたとき、少し先から聞き慣れた声がした。
「秋月くん!」
ひまりだった。
美咲と二人で歩いてくる。
「何してるの?」
「見て回ってる。」
「私たちも。」
「神谷は?」
「働いてる。」
「実行委員。」
「ひまりもでしょ。」
「休憩中!」
胸を張る。
「サボりとも言う。」
美咲が横から言った。
「ちゃんと許可もらったもん。」
「神谷くん甘いから。」
「人徳です。」
「どの口が。」
四人で歩き始めた。
文化祭の校内は、普段なら考えられないほど騒がしい。廊下の両側から呼び込みの声が飛び、教室から音楽が聞こえ、階段を上れば今度は吹奏楽部の演奏が遠くから響いてくる。
「何見る?」
ひまりがパンフレットを広げる。
「お化け屋敷。」
榊が即答する。
「嫌。」
ひまりも即答した。
「早。」
「怖いの無理。」
「意外。」
「何が意外なの。」
「夏川さん何でも平気そう。」
「私を何だと思ってるの。」
「フラバちゃん。」
榊が言った。
一瞬だけ間があった。
それから美咲が吹き出す。
「榊くんまで言ってる。」
「だってみんな呼んでるし。」
「ほら!」
美咲がひまりの肩を叩く。
「定着した!」
「嬉しくない!」
ひまりも笑った。
遼もつられて笑う。
「じゃあお化け屋敷以外。」
「三年の喫茶店行こうよ。」
「混んでない?」
「並べばいいじゃん。」
四人で階段を上がる。
その途中だった。
上の階から、大きな声が響いた。
「だからお前が悪いんだろ!」
怒鳴り声だった。
遼たちだけでなく、周囲を歩いていた生徒も何人か足を止める。
「何?」
美咲が上を見る。
踊り場の先で、男子生徒二人が言い争っていた。
「俺じゃねえって言ってんじゃん!」
「じゃあ誰なんだよ!」
「知らねえよ!」
文化祭の準備か何かで揉めているらしい。
近くにいた女子が「ちょっとやめなよ」と止めに入る。
「行こうぜ。」
榊が言う。
「巻き込まれたくない。」
「そうだね。」
美咲も頷く。
遼も歩き出そうとして、気付いた。
ひまりが動いていない。
「夏川?」
声を掛ける。
返事はなかった。
階段の途中で立ったまま、上を見ている。
「ひまり。」
美咲も気付いた。
ひまりの指が、パンフレットの端を強く握っていた。
「大丈夫?」
「……うん。」
声は出た。
けれど、動かない。
上ではまだ言い争いが続いている。
「だから俺じゃねえって!」
「嘘つくなよ!」
その声が響くたびに、ひまりの肩がわずかに揺れた。
「ひまり。」
美咲が腕を掴む。
「行こ。」
「うん。」
返事をする。
それでも足は動かなかった。
呼吸が少しずつ速くなっている。
「夏川さん?」
榊の声からも、さっきまでの軽さが消えた。
美咲はひまりの顔を覗き込む。
「あー……。」
そして、小さく息を吐いた。
「フラバちゃん入っちゃったか。」
その言葉は、あまりにも自然だった。
ひまりは何も答えない。
「とりあえず下行こ。」
美咲が腕を引く。
「ここうるさいから。」
「……ごめん。」
「謝んなくていいって。」
ひまりが一段下りる。
足元が少しふらついた。
美咲が支える。
「ほら、ゆっくり。」
その横を、文化祭を楽しむ生徒たちが何人も通り過ぎていく。
笑い声。
呼び込み。
音楽。
誰もひまりを見ていない。
「保健室行く?」
美咲が聞く。
ひまりは首を振った。
「大丈夫。」
「ほんと?」
「……ちょっと座れば。」
「じゃあ空いてるとこ探そ。」
美咲は慣れた様子で答えた。
榊も少し困ったように遼を見る。
「俺、水買ってくる?」
「お願い。」
美咲が答える。
「秋月くん。」
「うん。」
「ちょっとひまり見てて。」
「ああ。」
美咲は近くの空き教室を探しに行き、榊は階段を下りていった。
残された遼は、ひまりの隣に立つ。
ひまりは手すりへ片手を置き、俯いていた。
呼吸はまだ浅い。
「夏川。」
「……うん。」
「座る?」
「大丈夫。」
「大丈夫じゃなさそうだけど。」
少しだけ間が空いた。
「……そうかも。」
弱い声だった。
遼は何も言わなかった。
何を言えばいいのか分からない。
背中をさすった方がいいのか。
励ました方がいいのか。
美咲なら何かできるのかもしれない。
神谷なら、もっと迷わず動けるのかもしれない。
遼には分からなかった。
だから、ただ隣にいた。
しばらくすると、ひまりの呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
「……ごめんね。」
「何が。」
「せっかく文化祭なのに。」
「別に。」
その言葉を聞いて、ひまりが少しだけ顔を上げた。
「また言った。」
「何。」
「別に。」
「ああ。」
「口癖だね。」
「夏川にもうつっただろ。」
「そうだった。」
ほんの少しだけ笑う。
さっきまで強張っていた顔が、わずかに緩んだ。
「秋月くんってさ。」
「うん。」
「こういうとき、何も言わないよね。」
「何か言った方がいい?」
「ううん。」
ひまりは首を振った。
「それでいい。」
遼はひまりを見る。
「美咲はね、すぐ大丈夫って言うの。」
「うん。」
「神谷くんだったら、たぶん保健室連れてく。」
「そうかも。」
「秋月くんは何もしない。」
「悪かったな。」
「褒めてる。」
ひまりはまた少し笑った。
「何もしない人、楽だから。」
階段の上では、さっきまで言い争っていた男子たちが先生に連れていかれていた。
もう怒鳴り声は聞こえない。
代わりに、遠くから文化祭の音楽が聞こえてくる。
「ひまりー。」
美咲が戻ってきた。
「空いてる教室あった。」
「もう平気。」
「ほんと?」
「うん。」
美咲はひまりの顔をじっと見る。
「顔色戻ってきたね。」
「でしょ。」
「じゃあフラバちゃん終了?」
「その言い方ほんとやめて。」
「はいはい。」
美咲は笑った。
ひまりも笑う。
少し遅れて、榊がペットボトルを持って戻ってきた。
「水。」
「ありがと!」
「もう平気なの?」
「平気平気。」
「早いな。」
「軽いやつだったから。」
ひまりは何でもないことのように答えた。
そして四人は、そのまま三年生の喫茶店へ向かった。
十分後には、ひまりは美咲とパフェの写真を撮っていた。
榊がクリームを服へ落として笑われ、遼も一緒になって笑った。
さっきの出来事など、最初からなかったみたいだった。
夕方になり、一般公開終了を知らせる放送が流れると、校内の人影は少しずつ減っていった。
教室へ戻る途中、遼の前をひまりと美咲が歩いていた。
「今日楽しかったね。」
「うん。」
「フラバったけど。」
「余計な一言!」
「だって事実じゃん。」
「忘れてよ。」
「無理。」
「美咲のそういうところ嫌い。」
「はいはい。」
笑いながら歩いている。
少し後ろでは榊がパンフレットを丸めながら、「疲れた」と何度も繰り返していた。
遼も笑った。
それでも、階段でひまりと二人になったときの言葉だけは覚えていた。
何もしない人、楽だから。
その夜。
十一時を少し過ぎた頃、ひまりからLINEが来た。
『今日はありがと』
『何が』
『階段』
『何もしてない』
すぐに既読が付く。
『だから』
遼は画面を見る。
『それがよかった』
続けて、
『美咲とか優しいんだけどさ』
『大丈夫?っていっぱい聞かれると』
『大丈夫って言わなきゃって思うから』
遼は少し考える。
『俺には言わなくていいの』
送信してから、自分でも少し変な質問だと思った。
返信はすぐには来なかった。
一分ほどして、画面が光る。
『秋月くんには』
そこで一度途切れた。
『大丈夫じゃなくてもいい気がする』
遼はその文章をしばらく見ていた。
何と返せばいいのか考えている間に、もう一つ届く。
『なんてね笑』
笑っているスタンプ。
遼は文字を打ちかけ、消した。
『そっか』
結局、それだけ返した。
『うん』
そのあと、文化祭で食べたパフェの写真が送られてきた。
『これ美味しかった』
話題はそれだけで変わった。
遼も何事もなかったように返信し、ひまりもいつものようにくだらない話を続けた。
ただ、日付が変わる少し前。
『そろそろ寝る』
遼が送ると、
『はーい』
『おやすみ』
と返ってきた。
『おやすみ』
スマートフォンを置く。
数分後、また震えた。
『秋月くん』
『何』
今度はしばらく既読が付かなかった。
やがて、
『今度ほんとに無理になったら』
そこまで届く。
続きが来る。
『LINEしてもいい?』
遼はほとんど考えずに返した。
『いいよ』
すぐに既読が付いた。
『ありがと』
猫が笑っているスタンプが送られてきた。
その夜は、それで終わった。




