第14話 フラバちゃん
「フラバちゃん」という呼び方は、美咲が思っていた以上に早く広まった。
最初に使っていたのは、美咲とその周りにいる女子数人だけだった。ひまりがぼんやりしていると「フラバちゃん大丈夫?」と声を掛け、ひまりが「してないから」と返す。それだけの内輪の冗談だったはずなのに、二日もすると男子まで意味を知るようになり、いつの間にか本人の前でも普通に使われるようになっていた。
「フラバちゃん、これ職員室持ってって。」
「誰がフラバちゃんだ。」
「夏川さん。」
「名前知ってるなら名前で呼んでよ。」
「じゃあ夏川フラバさん。」
「悪化してる!」
教室に笑い声が起きる。
ひまりも笑っていた。
嫌がってはいる。
けれど、本気で怒っているようには見えない。
「美咲のせいだからね。」
「私?」
「最初に言ったじゃん。」
「だって便利なんだもん。」
「人の症状を便利な略称にしないで。」
「でも可愛いよ、フラバちゃん。」
「全然可愛くない。」
そう言いながら、ひまりは美咲の頬をつねる。
「痛い痛い。」
「反省して。」
「しませーん。」
美咲が逃げ、ひまりが追いかける。
その様子を見ていたクラスメイトも笑う。
少なくとも、この時点では、それ以上の意味を持つ言葉ではなかった。
ひまり自身が笑っている。
だから、誰も気にしなかった。
遼も同じだった。
「定着したな。」
榊が隣で言う。
「何が。」
「フラバちゃん。」
「そうだな。」
「女子のあだ名ってできるの早いよな。」
「そういう問題?」
「違う?」
「知らない。」
榊は少し笑った。
「本人も嫌なら言うだろ。」
「まあ。」
遼もそう思った。
ひまりは言いたいことを言える人間に見える。嫌なら嫌と言うだろうし、実際、「やめて」と何度も言っている。
ただ、そのたびに笑っていた。
だから、たぶん大丈夫なのだろう。
文化祭前日の放課後、教室にはいつも以上に多くの生徒が残っていた。
机はすべて廊下へ運び出され、壁には飾りが貼られ、教室の中央には作りかけの大道具が並んでいる。神谷は黒板の前に立って作業を振り分け、ひまりは足りない材料を確認しながら教室の中を行ったり来たりしていた。
「神谷くん、これ終わった!」
「ありがとう。じゃあ次、入口の飾り見てきて。」
「了解!」
「夏川さん。」
「ん?」
「走るなよ。」
「走ってない!」
そう言いながら走っていく。
「走ってんじゃん。」
誰かが笑った。
遼も壁際で装飾を貼りながら、その様子を眺めていた。
「秋月。」
榊が脚立の下から呼ぶ。
「そこ押さえて。」
「うん。」
「絶対離すなよ。」
「離したらどうなる?」
「俺が死ぬ。」
「じゃあ離さない。」
「判断基準怖いな。」
脚立を押さえながら、遼は教室を見回す。
一か月前まで何もなかった場所が、見慣れない空間へ変わっている。文化祭にそれほど興味がなかった遼でも、ここまで来ると少しだけ楽しみになっていた。
「写真撮ろうよ!」
誰かが言った。
「完成したら全員で撮ろ!」
「まだ完成してないだろ。」
「だから完成したら。」
「明日でよくない?」
「前日も撮っとこうよ。」
遼は無意識にひまりを見る。
ひまりは入口の飾りを直していた。
声は聞こえているはずだった。
けれど、特に反応はない。
「夏川さんもいい?」
神谷が確認する。
「何が?」
「最後、みんなで写真。」
「ああ。」
ほんの少しだけ間があった。
「いいよ!」
笑顔だった。
遼は視線を戻す。
「秋月。」
「何。」
「ちゃんと押さえろ。」
「あ、ごめん。」
「今離しかけただろ。」
「離してない。」
「信用できねえ。」
榊が脚立から降りてくる。
作業が終わったのは、外がすっかり暗くなった頃だった。
「終わったー!」
ひまりが両手を上げる。
教室のあちこちから拍手が起こった。
「神谷、写真!」
「はいはい。」
神谷がスマートフォンを取り出す。
「全員入れよー。」
「狭い!」
「前しゃがんで。」
「俺後ろ?」
「背高い奴後ろ。」
生徒たちが集まり始める。
遼も榊に背中を押され、列の端へ入った。
「秋月もっと中。」
「ここでいい。」
「顔切れるぞ。」
「別に。」
「せっかくなんだから入れって。」
押されるまま少し中へ寄る。
ひまりは中央付近にいた。
隣には美咲。
反対側には神谷。
「撮るよー!」
スマートフォンをタイマーに設定し、神谷も列へ入る。
「三!」
誰かが勝手に数え始める。
「二!」
ひまりが笑う。
「一!」
シャッター音が鳴った。
「もう一枚!」
もう一度。
今度は何人かがピースをする。
ひまりも美咲と肩を寄せ、笑っていた。
何も起こらなかった。
「見せて見せて。」
撮影が終わると、生徒たちがスマートフォンの周りへ集まる。
「俺目つぶってる!」
「知らん。」
「撮り直そうぜ。」
「もういいだろ。」
「夏川めっちゃ笑ってる。」
「いつもでしょ。」
「美咲顔やば。」
「殺す。」
笑い声が起きる。
ひまりも画面を覗き込む。
「送って!」
「クラスLINE流す。」
「ありがと。」
遼は少し離れたところから、その様子を見ていた。
集合写真。
以前、ひまりが動けなくなったものと同じだった。
それでも今日は平気だった。
写真そのものが駄目なわけではない。
それはもう分かっていた。
「秋月くん。」
ひまりがこちらを見る。
「見ないの?」
「後でLINEで見る。」
「せっかくなのに。」
ひまりは神谷のスマートフォンを受け取ると、そのまま遼のところまで持ってきた。
「ほら。」
画面を見せる。
クラスの生徒たちが並んでいる。
全員が笑っている。
「秋月くん、顔固い。」
「普通だろ。」
「榊くんも。」
「俺は写真苦手なんだよ。」
「二人とも暗いなぁ。」
ひまりは笑いながら画面を拡大する。
「私めっちゃいいじゃん。」
「自分で言う?」
「可愛くない?」
「自信あるな。」
「ある。」
遼は笑った。
そのとき、ひまりが画面を見たまま小さく呟いた。
「こういう写真なら、好き。」
遼はひまりを見る。
「こういう?」
「うん。」
ひまりはすぐに顔を上げた。
「みんな楽しそうだから。」
いつもの笑顔だった。
それ以上聞く前に、美咲が後ろからひまりへ抱きつく。
「フラバちゃーん、帰るよ。」
「その呼び方やめろ!」
「明日本番なんだから早く寝なさい。」
「お母さん?」
「いいから。」
「待って、鞄!」
二人はじゃれ合いながら離れていく。
遼も帰り支度を始めた。
その夜、十一時を過ぎた頃。
スマートフォンが震えた。
『明日楽しみだね』
ひまりだった。
『そうだな』
『秋月くん絶対楽しみじゃなさそう』
『楽しみ』
『嘘っぽい』
『楽しみです』
『もっと嘘っぽい笑』
笑っているスタンプが送られてくる。
遼も適当なスタンプを返した。
少しして、ひまりから写真が送られてきた。
さっき撮った集合写真だった。
『これ保存した?』
『まだ』
『保存して』
『なんで』
『記念だから』
遼は写真を保存する。
『した』
『よし』
『何がよしなの』
『これで秋月くんも文化祭楽しんでる人』
『写真一枚で?』
『そう』
しばらく返信が途切れた。
遼もスマートフォンを置き、明日の準備をしようとしたところで、また通知が鳴った。
『ねえ』
『何』
『もし明日フラバったら』
そこで文章が止まった。
遼は画面を見る。
数秒後、続きが届く。
『笑っていいからね』
意味が分からず、遼は少し考えた。
『何で』
『だってフラバちゃんだし笑』
笑っているスタンプ。
遼はしばらく返信できなかった。
『嫌じゃないの』
送る。
今度は少し長く間が空いた。
『何が?』
『フラバちゃんって呼ばれるの』
既読が付く。
一分。
二分。
返事は来なかった。
やがて、
『別に』
とだけ届いた。
遼はその二文字を見て、少しだけ笑った。
『それ俺のやつじゃん』
すぐに返信が来る。
『うつった笑』
それからもう一つ。
『みんな笑ってくれるならその方がいいよ』
遼は画面を見つめた。
『心配されるより楽だから』
何と返せばいいのか分からなかった。
少し考えて、
『俺は笑わないと思う』
と送った。
既読が付く。
しばらくして、ひまりから猫が笑っているスタンプが一つ届いた。
その日は、それで会話が終わった。




