第13話 あだな
ひまりからLINEが来るのは、その日だけではなかった。
翌日も、その次の日も、夜になると何かしら通知が届いた。内容は本当にどうでもいいものばかりで、「明日の英語って小テストある?」とか、「今日の数学意味分かった?」とか、「コンビニでプリン買った」と写真が送られてくることもあり、遼も最初こそ律儀に返していたが、数日も経つ頃には、ひまりから通知が来ること自体を特別なこととは思わなくなっていた。
『秋月くん』
『何』
『暇』
『美咲は』
『電話中』
『じゃあ暇じゃないじゃん』
『私とは電話してないから暇』
『知らん』
『冷たい』
そんなやり取りをしているうちに、気付けば三十分が過ぎていることもある。
学校では相変わらずだった。
ひまりは美咲と一緒にいることが多く、文化祭準備では神谷と動き、休み時間になれば誰かの席へ行って話している。遼のところへ来ることもあったが、夜に何十分もLINEしていることを知らなければ、特別親しいようには見えなかったかもしれない。
「最近お前、スマホ見る回数増えたよな。」
昼休み、榊が唐突に言った。
「そう?」
「増えた。」
「気のせいじゃない。」
「夏川さん?」
「何が。」
「LINE。」
遼が黙ると、榊は少し笑った。
「図星じゃん。」
「普通に話してるだけ。」
「へえ。」
「何。」
「いや、別に。」
わざとらしい言い方だった。
遼が睨むと、榊は笑いながら紙パックのジュースへストローを刺した。
「でも、いいんじゃない。」
「何が。」
「仲良くなるの。」
「普通だろ。」
「そういうことにしとく。」
聞いたことのある言い方だった。
遼は少し笑った。
教室の前では、ひまりが美咲と何かを話している。
美咲が笑う。
ひまりも笑う。
その笑顔を見る限り、最近は調子も良さそうだった。
大きな発作は、あの日以来起きていない。
ただ、何もないわけではなかった。
三時間目の授業中、教師が一人の生徒を強い口調で叱ったとき、ひまりの手が止まったことがある。
「何回同じこと言わせるんだ。」
教師の声が教室へ響く。
叱られている男子は俯いたまま、「すみません」と小さく答えていた。
その瞬間、遼は何となくひまりを見る。
シャープペンシルを握ったまま、動いていなかった。
けれど、教師が話を終えて授業へ戻ると、ひまりも何事もなかったようにノートを取り始めた。
別の日には、昼休みに誰かのスマートフォンから通知音が何度も続けて鳴った。
ピコン。
ピコン。
ピコン。
「うるさ。」
「グループLINE。」
「通知切れよ。」
笑い声が起きる。
ひまりは箸を持ったまま少し俯き、数秒してから小さく息を吐いた。
「ひまり?」
美咲が声を掛ける。
「ん?」
「大丈夫?」
「何が?」
「いや。」
美咲は少しだけひまりの顔を見る。
「ならいい。」
それで終わった。
以前なら、もう少し心配したかもしれない。
今は違う。
美咲も、ひまりの小さな変化を見ることに少しずつ慣れ始めていた。
そして、ひまり自身もそれを望んでいるようだった。
「ねえ、美咲。」
「ん?」
「そんな毎回確認しなくていいよ。」
「何を。」
「大丈夫? って。」
ひまりは笑いながら言う。
「大丈夫なときもあるし。」
「でも急に変になるじゃん。」
「それはそうだけど。」
「じゃあ聞く。」
「過保護。」
「うるさい。」
二人は笑う。
その会話を聞いていた周りの女子も、いつの間にか同じような感覚になっていたのかもしれない。
ひまりが少し黙っていても、すぐには騒がない。
顔色が悪く見えても、まず美咲を見る。
美咲が何も言わなければ、そのままにする。
クラス全体が、少しずつひまりの異変との付き合い方を覚え始めていた。
文化祭まで一週間を切った日の放課後。
教室では最後の飾り付けが進んでいた。
「そこもうちょい上!」
「これ以上無理!」
「椅子乗れば?」
「怖いって。」
「神谷呼ぼうぜ。」
「何でも神谷に頼るなよ。」
笑い声が飛び交う。
ひまりも教室の後ろで美咲と一緒に飾りを作っていた。
「これ可愛くない?」
「微妙。」
「えー。」
「なんか小学生っぽい。」
「ひど。」
「星多すぎ。」
「文化祭なんだから派手でいいじゃん。」
「センスが昭和。」
「美咲にだけは言われたくない。」
二人で笑う。
そのとき、教室の前で大きな音がした。
段ボール箱が床へ落ちる。
「うわ、ごめん!」
「何してんの。」
「足引っ掛けた。」
中に入っていた小道具が床へ散らばる。
「やば。」
「片付けろ片付けろ。」
何人かが笑いながら集まる。
ひまりの手が止まった。
美咲がすぐに気付く。
「ひまり。」
「……うん。」
「大丈夫?」
「大丈夫。」
答えは早かった。
けれど、ひまりは床へ落ちた小道具を見たまま動かない。
「ほんと?」
「うん。」
美咲は少しだけ顔を覗き込む。
「また来そう?」
「たぶん平気。」
「たぶんって。」
ひまりは困ったように笑った。
「ちょっとだけ、変な感じしただけ。」
「あー。」
美咲はそれ以上慌てなかった。
「じゃあ座っときな。」
「大丈夫だって。」
「はいはい。」
その言い方は、以前より軽かった。
「無理するとまたフラバるよ。」
ひまりが顔を上げる。
「……フラバる?」
「フラッシュバック。」
美咲は何でもないように言った。
「長いから略した。」
「何それ。」
ひまりが笑う。
「勝手に動詞にしないでよ。」
「いいじゃん。分かりやすいし。」
「ダサい。」
「じゃあもっといい名前考えて。」
「名前いらないから。」
二人は笑った。
近くで聞いていた女子が振り返る。
「何、フラバって。」
「ひまりのあれ。」
美咲が軽く説明する。
「急に昔のこと思い出して固まるやつ。」
「ああ。」
女子もすぐに納得した。
「フラバね。」
「広めないでよ。」
ひまりは笑いながら美咲の肩を叩く。
「絶対広める。」
「最悪。」
「でも便利じゃん。」
「何が便利なの。」
美咲は少し考えてから、笑った。
「『ひまりまたフラバってる』って言えば一発で伝わる。」
「やめてよ、ほんと。」
そう言いながらも、ひまりは笑っていた。
遼は少し離れたところから、そのやり取りを聞いていた。
フラバ。
体育館の前で初めて聞いた言葉。
あのときは何のことか分からなかった。
今は分かる。
ひまりも嫌そうにはしていない。
美咲も悪気はない。
だから、その言葉はそのまま教室の中へ溶けていった。
翌日には、別の誰かが使っていた。
「夏川、今日フラバってない?」
「何それ、美咲が言ってたやつ?」
「そうそう。」
「勝手に流行らせないで!」
ひまりが笑う。
みんなも笑う。
その笑い声の中で、美咲が楽しそうに言った。
「もうフラバちゃんでよくない?」
「もっとやだ!」
ひまりはすぐに返した。
「ダサすぎ!」
「可愛いじゃん。」
「どこが!」
「フラバちゃん。」
「呼ぶな!」
美咲が逃げる。
ひまりが追いかける。
教室に笑い声が広がった。
それを見ていた遼も、少しだけ笑った。




