第11話 帰り道
翌日、ひまりはいつも通り学校へ来た。
「おはよー!」
教室のドアを開けるなり響いた声に、何人かが振り返る。
「夏川、大丈夫だった?」
「大丈夫大丈夫!」
「昨日結構やばそうだったじゃん。」
「ごめんねー。もう平気!」
ひまりは笑いながら自分の席へ向かい、途中で美咲を見つけるとその肩を後ろから抱くようにして寄り掛かった。
「美咲、おはよ。」
「重い。」
「昨日介抱してくれた親友への愛。」
「だったらジュース奢って。」
「現金な親友だなぁ。」
二人が笑う。周囲もそれを見て笑い、昨日の出来事は、少なくとも表面上はもう終わったことになっていた。
遼も自分の席からその様子を眺めていた。
目が赤いわけでもない。顔色が悪いわけでもない。いつもと同じように笑っていて、昨日、教室の床へしゃがみ込みながら何度も謝っていた人物とは思えなかった。
「おはよ。」
不意にひまりがこちらを向いた。
「おはよう。」
「昨日ありがとね。」
「俺、何もしてないけど。」
「それ昨日も言った。」
「言ってない。」
「似たようなこと言った。」
ひまりは笑う。
「じゃあ、何もしてくれなくてありがとう。」
「それ悪口じゃない?」
「あはは、確かに。」
笑いながら自分の席へ戻っていく。
遼はその背中を見送り、それから教科書を取り出した。
昨日のことを聞こうとは思わなかった。
ひまりが何も話さないなら、それでいい。
そう思っていた。
昼休みになる頃には、教室の話題は完全に文化祭へ戻っていた。昨日の看板も教室の後ろへ立て掛けられていて、失敗した文字は結局そのまま残されることになったらしい。
「これ逆に良くない?」
「味ある。」
「昨日ボロクソ言ってただろ。」
「一晩寝たら芸術になった。」
「便利だな。」
看板を作った男子本人も笑っている。
ひまりは少し離れたところでその会話を聞いていたが、今日は何も言わなかった。
ただ、一度だけ笑ってから視線を外した。
遼はそれに気付いた。
気付いたが、それだけだった。
放課後の文化祭準備も普段通り始まった。
神谷が指示を出し、ひまりがそれを手伝い、美咲は途中まで作業に参加してから部活の友達に呼ばれて教室を出ていった。榊も今日は家の用事があるらしく、五時を過ぎた頃には先に帰っていた。
「秋月、悪い。」
神谷が時計を見る。
「俺も部活顔出してくる。これ終わったら適当に帰っていいから。」
「分かった。」
「夏川さんも。」
「はーい。」
「昨日みたいになる前に帰れよ。」
「だから大丈夫だって。」
「信用ないからな。」
「ひどいなぁ。」
神谷は笑いながら鞄を持ち、そのまま教室を出ていった。
気付けば、教室に残っているのは遼とひまり、それから教室の反対側で作業している女子二人だけになっていた。
「静かになったね。」
ひまりが言う。
「そうだな。」
「さっきまでうるさかったのに。」
机を元の位置へ戻しながら、ひまりは小さく笑った。
「私、こういうの結構好きかも。」
「静かなの?」
「ううん。みんなで何かやって、終わったあと急に静かになる感じ。」
「ああ。」
「分かる?」
「なんとなく。」
「秋月くん、こういう時間好きそう。」
「どういうイメージなんだよ。」
「窓ばっか見てるから。」
「まだ言ってる。」
「だって本当じゃん。」
遼が笑うと、ひまりも笑った。
六時前には作業も終わり、最後まで残っていた女子二人も「お先」と教室を出ていった。
遼も鞄を持つ。
「夏川、帰らないの?」
「帰るよ。」
ひまりはそう答えながら、机の中を何度か確認している。
「何かなくした?」
「イヤホン。」
「鞄は?」
「ない。」
「ポケット。」
「ない。」
「机。」
「今見てる。」
「じゃあ知らない。」
「諦めるの早くない?」
ひまりは笑いながら机の横へしゃがみ込み、しばらくして「あった!」と声を上げた。
「どこ。」
「鞄。」
「最初に見ろよ。」
「見たんだけどなぁ。」
二人で教室を出る。
廊下にはもうほとんど生徒がいなかった。窓の外から運動部の掛け声が聞こえ、階段を下りるたび、それも少しずつ遠くなる。
昇降口で靴を履き替え、校門を出たところで、ひまりが遼の少し後ろを歩いていることに気付いた。
「駅?」
「うん。」
「俺も途中までそっち。」
「じゃあ一緒に帰ろ。」
あまりにも普通に言われたので、遼も「うん」と答えた。
夕方の道には同じ学校の生徒が何人か歩いていたが、学校から離れるにつれて少なくなっていく。ひまりは最初こそ文化祭の話をしていたものの、しばらくすると会話が途切れた。
気まずい沈黙ではなかった。
少なくとも遼はそう思っていた。
「ねえ。」
ひまりが言う。
「昨日のことなんだけど。」
「うん。」
「やっぱり気になる?」
遼は少し考えた。
「何が?」
「私がああなるの。」
「……気にはなる。」
「そっか。」
ひまりは前を向いたまま歩く。
「美咲はもう慣れたって。」
「言ってた。」
「言ってたの?」
「前に。」
「何それ。私のいないところで私の話してるじゃん。」
「たまたま。」
「怪しい。」
ひまりは笑った。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
「でも、慣れてもらった方が楽なんだよね。」
「そうなの?」
「うん。」
信号が赤になり、二人は横断歩道の前で止まる。
「毎回みんなに『大丈夫?』って囲まれる方が、結構きついから。」
「なんで?」
「だって。」
ひまりは少しだけ困ったように笑う。
「自分でも何でああなってるのか、うまく説明できないし。」
遼は黙って聞いていた。
「大丈夫って言っても大丈夫じゃないし、大丈夫じゃないって言ったらもっと心配されるし。」
「面倒だな。」
「でしょ?」
ひまりは少し嬉しそうに笑った。
「だから、放っといてくれるくらいがちょうどいい。」
信号が青になる。
二人は歩き始める。
「でも秋月くんは見るよね。」
不意に言われた。
遼はひまりを見る。
「私がああなってるとき。」
「……そう?」
「見る。」
「ごめん。」
「だから、謝らなくていいって。」
ひまりは笑う。
「嫌だったら言うから。」
「うん。」
「でも。」
そこで少し間が空いた。
「秋月くんに見られるのは、そんなに嫌じゃないかも。」
遼は返事をしなかった。
何と答えればいいのか分からなかった。
ひまりも、それ以上何も言わない。
駅前が近付くにつれて人通りが増え、店の明かりが目立ち始める。
「あ、私こっち。」
ひまりが足を止めた。
「秋月くんは?」
「まっすぐ。」
「そっか。」
ひまりは少しだけ考えてから、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
「ね、LINE交換しよ。」
「いいよ。」
「やった。」
画面を操作し、連絡先を交換する。
ひまりのアイコンは、友達と撮ったらしい写真だった。
何人かの女子が肩を寄せ合って笑っている。
「これ前の学校?」
遼が何気なく聞いた。
ひまりの指が止まった。
ほんの一瞬だった。
「……ううん。」
すぐに画面を伏せる。
「こっち来てから。」
「ああ。」
「じゃあ、また明日ね。」
「うん。」
「今日はありがと。」
「だから何もしてないって。」
「それでいいの。」
ひまりは笑って手を振ると、人混みの中へ歩いていった。
遼も家へ向かう。
十分ほど歩いたところで、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
ひまりからだった。
『今日はありがと!』
その下に、笑っている猫のスタンプが一つ。
遼は少し考えてから、
『何もしてないけど』
と返した。
すぐに既読が付く。
『だからそれでいいんだって笑』
続けてもう一件。
『また変になっても気にしないでね』
遼は歩きながらその文章を読んだ。
何と返すか少し迷う。
『分かった』
そう打ってから、一度消した。
代わりに、
『気にはすると思う』
と送った。
しばらく既読だけが付いていた。
やがて返信が来る。
『そっか』
それだけだった。
数秒後、もう一つ。
『じゃあ、またなったらよろしく笑』
遼は画面を見つめたまま歩いていた。
冗談なのだろう。
だから、
『了解』
とだけ返した。




