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「はい、これで終わりです。ありがとうございました。病み上がりなのにご無理はなかったですか?」
「全然平気です」
カゴの中の洗濯物は全部干し終えた私とお母さんは、腰に手を当て空に向かって手を伸ばした。体がほぐれたようで気持ちが良かった。ずっと緊張していたのかもしれない。体中に新鮮な空気が流れた感じがする。
干した服や布がゆるやかな風にたなびき、気持ちの良い朝になった。
「さて、省吾さんは午後に戻って参りますし、今日は診療所も使いませんけぇ、ゆっくりお休みいただいてもようございますよ。でもあんな辛気臭いベッドではお嫌でしょう? 家でゆっくりされたらよろしいのに。お布団敷きましょうか? 家には私しかおりませんけぇ静かですし」
「あ、いえ。大丈夫です。体調は何ともないです」
「あらそうでございますか。お元気になって良うございます」
上品なお母さんは柔らかく微笑んでカゴをよいしょと持ち上げた。なんだろう……似てないけど、私の母に似ている気もする。物を持ち上げた時の横から見た輪郭とか。全然似てもいないのに、なぜか不思議と母と重なる。
「もしよろしければ、後で着ているそのお召し物を拝見させていただけませんか」
「これですか?」
「そう。お色も素材もたいそう素敵ですね。どちらでお求めになったのでしょう? やっぱり三越かしら?」
ネットで買ったんだけど、そんなことは言っても伝わらないと思う。私の服装が珍しいのかな。このシースルーの生地はこの時代にはないのかもしれない。
「あの……ところで今って何年ですか?」
「今ですか? 今ってそりゃあ、昭和13年ですけれど……」
「何月何日ですか?」
「8月11日ですが……」
昭和13年……いまいちピンとこなかったけど、社会の授業で勉強をしてきた教科書の内容を急いで思い出していた。
1945年に終戦で、それが確か昭和20年。1937年に日中戦争が始まって……年号だと昭和12年?
もしかして今、私のいるこの時代は戦争の最中?
一気に血の気が引いた。頭を鈍器で殴られたような重い衝撃が走ったような感覚。目の前で不思議そうに私を見ている若先生のお母さんの顔も、景色も建物も視界に映る全てのものが大きく歪んだ。
戦時中に来てしまった。一刻も早く帰らないと。
投下される爆弾、焼け野原となった土地が脳裏をよぎる。命の危険がある。
空も海もこんなに綺麗で家も診療所も後ろの林も今、干し終えた洗濯物も穏やかに風になびいているのに。
蝉の鳴き声がせわしなく響いている。早く帰れと私を急かしているように聞こえる。
「……少しお顔の色が優れんようです。お休みになられます?」
「……いえ、大丈夫です。この辺でうさぎを見ませんでしたか?」
「うさぎ? 裏手の尋常小学校におった気がしますけどねぇ。みんなでお世話して」
「その小学校はどこにありますか?」
「お出かけになられます? 小学校なら坂を下りて左手に行くとまた坂道がありますけぇ、そこから一本道でございますよ」
「ありがとうございます。行ってみます!」
「ええ? ええ、そう。どうぞ気を付けて下さいね」
私は飛び出すような形で走って家を出た。
途中何もないところで転びそうになり、自分が今、元のおじいちゃんの家の縁側に置いてあったサンダルを履いていることに気が付いた。これでは走りにくい。
足元を注意しながら走って坂道を下りると突き当りに二又の道があった。これを左に進めば小学校があるらしい。もしかしてそっちに不思議なうさぎの手がかりがあるのかもしれない。
二又を左に進もうと一歩足を踏み出した時、すぐそばの低木からがさがさと音がした。
音のした方に視線を向けると、白いうさぎが低木の隙間からひょっこりと飛び出してきた。
「いた! うさぎっ!」
思わず声を出すとうさぎは一瞬だけ私の方を見て耳をピンと伸ばし、その愛くるしい見た目からは想像もできない速さで駆け出した。
「え? 早っ!」
うさぎは右側の坂道を全速力で駆けた。信じられない速さだった。うさぎが捕食者から本気で逃げる時はこんなスピードが出るのかと感心してしまう。
急いで後を追うも履いているサンダルでは思うように走れなかった。
「くっそー……」
サンダルを脱いで走ると足の裏が汚れて気持ちが悪くし、すでに1日風呂に入っていない上にさらに汚れるのは嫌だ。でもそんなことは言ってられない状況かもしれない。
もどかしい気持ちを抱えながらうさぎを追っているとしだいに疲れてきて、走る速度がゆっくりになった。走るというより歩いている。そんな私をあざ笑うようにうさぎはピタリと止まり、私の方を振り返った。
虹色の瞳に真っ白な毛色。やはり間違いない。あの時のうさぎだ。
あの島にいる人懐こいうさぎのことだからゆっくりと近づけば逃げないかもしれない。
ゆっくり慎重に足を踏み出しそろりと近づいていくと、前にいるうさぎも1歩ずつひょこりと前に進みだした。
少し早歩きをしてみると、うさぎは素早い動きで駆け出す。
「何か……腹立つ」
私の反応を見ているようで時折りこちらを振り返り、動きの速さを変えているように見える。か弱い草食動物の顔をしておちょくっているのかもしれない。
ゆっくり近付き、そこから一気に捕まえるのはどうだろう。
私は坂道の途中で立ち止まり、海の方に顔を向けているうさぎを見た。臆病な動物だから少しの物音でもすぐに駆け出してしまうのかもしれない。
サルダルを履いているので難しいけど、なるべく音を立てないようにそろりと近付くことにした。
うさぎは二本足で立ち止まったものの、私の方を振り向きもしない。
今がチャンス!
うさぎに神経を研ぎ澄ましなるべく気配をけして、うさぎの背中へと一気に手を伸ばした。
背中の毛に触れるか触れられないかの距離で急にうさぎが駆け出した。鉄砲玉のようにすさまじい勢いで飛び出し、一瞬で目の前からいなくなってしまった。
「……触るのなんて無理じゃない?」
うさぎが走り去った後は土ぼこりが舞い上がっていた。私は呆然と立ち尽くしてしまった。




