8-2
「嘘でしょ……こんな時に……」
白うさぎに触れてピリと指先に電気が走った感触を思い出した。
うさぎは門の先にある坂道の真ん中でこちらを向いている。
このうさぎに今、ついて行けば私は現代に帰れる。そういう予感がした。
え、嫌だよ。夕飯食べて無いし、ひいおじいちゃんとまだお別れの挨拶をしてないし、お母さんにも挨拶してないし。何にも心の準備もしていない。さっきは助けてくれてありがとうも言えてないよ。
どうしようどうしたら良い? とひいおじいちゃんに聞いてみようと振り返ろうとした。
「うさぎから目を離さないように」
頭を軽く抑えられ、私は振り向けなかった。
「でも、でも……このまま私、さよならになる」
「早かったな。でもこんな時代にいない方が良い。早く帰りなさい」
「ひいおじいちゃん……私、未来でひいおじいちゃんに会えないんだよ。会ったことない!」
「俺は忘れないよ。さぁ、いきなさい。これを逃したら次はいつかわからない」
「でも、でも……」
「いきなさい。俺は大丈夫だ。君がいるってことは俺は無事に島から帰って来られるんだろう。さぁ、行け」
肩をとんと押され、私は一歩を踏み出した。うさぎが耳をピンと立ててこちらに向いている。その瞳は虹色だった。
「振り返らずに、うさぎから目を離さないで。さぁ」
後ろでひいおじいちゃんがそう言っている。
私はゆっくりとうさぎのいる方へと歩いた。うさぎは動く気配は無く、その場で鼻をひくひくとさせている。
いつの間にかセミの鳴き声は聞こえず土を踏み締める音だけがしている。ひいおじいちゃんはまだ私の事を見ているのかな? どんな表情をしている? 手を振っているのかな?
うさぎはそこから動かないけれどなぜかうさぎの体がにじんだように見えて、顔も耳の形もぼんやりとして姿がよくわからなくなってきた。雫が頬を伝い、風が吹くと濡れた頬に髪がまとわりついた。
「ありがとうって……言ってない。朝ごはんもおにぎりも……こんなのって無い」
にじんだ視界にいたうさぎはぼんやりと白く映っていて、すぐ手の届く距離まで来た。
「何でこのタイミングなの? ひいおじいちゃんはどうなっちゃうの……?」
ぽろぽろと涙があふれ、視界はぐちゃぐちゃで何が見えているのかもわからなくなった。うさぎがそこにまだいるのかもわからない。
ひいおじいちゃんから押された感触がまだ残っている気がして自分の肩に手を置いた。もう片方の手にはスマホが握られている。
「こんなのってない! 何でこんなタイミングなの!?」
両手で顔を覆い、わぁと泣いてその場にしゃがみ込んだ。
涙が止まらず視界は暗くなる。
「ひいおじいちゃん! 芳子さん!」
名前を叫びながらも、後ろから「何もそんなに泣かなくても……」とひいおじいちゃんの声が聞こえると良いなと思いながら、涙はとまる気配もなくずっと流れている。まだ心の準備もできていなかったのに、何でこのタイミングで!
何度も心の中でそう思い、涙をぬぐった。
ふと、むあっとした体を包み込む熱を感じ、恐る恐る顔を上げるとすぐ側にいたはずの白うさぎの姿は見えなかった。そして辺りは暗く夜のはずなのに外は明るい。
「電気だ……」
電柱についている街灯と家から漏れている明かりで辺りはとても明るかった。
『あれ? なっちゃんいないんだけどー』
『夜に? どこ行ったん? 危ないよ』
『まぁたいじけて部屋にいるんじゃないの?』
後ろの家から母と姉と、きよちゃんの声が聞こえる。帰って来たんだ!
涙をふき、前につんのめりながら立ち上がると急いでおじいちゃんの家に戻った。家の塀はあの場所で見た木造のものではなく、ベージュ色の石塀だった。
「おじいちゃんの家!」
門の内側には車が2台とまり、そのうちの1台はシルバー色のレンタカーだった。
庭の方から声のする方へ走ると、廊下のガラス戸を開けて外を眺めている母ときよちゃんがいた。
「お母さんっ!」
「あ、いたわ」
母のもとへ駆け寄り、サンダルを脱ぎ捨てて母に飛びついた。母が飛びついた勢いで少しよろけて迷惑そうに言った。
「ちょっとなに? 痛いんだけど……」
私は返事ができなくて、やっぱり大粒の涙がポロポロとあふれ出る。
「どうしたの? お肉食べれなかった?」
「うそ? うちの子らじゃん。ごめんねぇ、ちょっと今から買うてくるわ」
声が出なくて首を横に振ることしかできなかった。夕飯の焼肉の事で私がこんな状態になってるって思うところが最高に平和でバカみたいで少しおかしくてぷっと噴き出しそうになった。泣いてるのに笑うって我ながら気持ちが悪い。
「なっちゃんどうしたの? 泣いてるの?」
庭の方から姉の声が聞こえた。姉は外まで私を探しに行っていたのかな?
「さぁ……よくわからない。蚊に刺されるから入ろ」
「ホンマ夏実ちゃん、ごめんねぇ。お肉買うて来ようか?」
「ええよ。焼肉が原因じゃないみたいじゃし。ホンマ、年頃の娘は難しいわぁ」
母の肩で涙を拭いていたところ面倒くさそうに押し戻され、涙は止まっていたけど、泣き過ぎてしゃっくりが出ていた。母ときよちゃんは私を置いて廊下を戻り、居間に入って行った。
「なっちゃん、大丈夫?」
姉の細い指がおでこ張り付いた前髪をゆっくりと払っている。少しくすぐったくて、こんな風に接してくれる姉に何だか救われるような気がした。
「何かあった? お水もらってこようか? はいティッシュ」
「ううん、いらない……」
横からボックスティッシュが差し出され思い切り鼻をかんだ。鼻をかむと鼻の通りが少しすっきりとしてしゃっくりもおさまってきた気がする。
夜目に目が慣れてきたのか家の中の輪郭がはっきりと見えてきた。何が入っているかわからないダンボールが置いてある廊下に、廊下に面しているタンスがたくさん置かれている和室。そしておじいちゃん家の匂い。
私、戻って来たんだ。




