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芳子さんの言った通り、家はすぐ近くにあった。
黒色に近い木材でできた立派な門構えの家で灰色の少しでこぼことした石でできた塀に囲まれている。ひいおじいちゃんの家よりもずっと広そうで風格のある家だった。やっぱり芳子さんは本物のお嬢さんなんじゃないかな。こんな立派な家に住んでいる親戚なんて聞いたことがない。すごく遠い親戚か、川本とはあまり関係がないのかもしれない。
「どうぞこちらへ」
芳子さんはごく自然に門をくぐり、先へと行こうとしている。こんな立派な家に汚れたサンダルで入って良いものか悩み、門の前で立ち止まっていると手招きをされた。
「どうぞ?」
「は、はい」
申し訳ない気持ちで門をくぐると手入れをされた植栽の間には踏み石があり、灰色の踏み石の上を歩くと、案の定、靴底の泥が石につきサンダルの足跡が点々とついてしまっている。
「石が汚れちゃってるんですけど……」
後ろからおどおどと声を掛けると、芳子さんが振り返った。
「外にあるものですし。汚れるのは当たり前です。雨が降れば汚れは流れるので気にしないで下さいな」
くすりと笑ってそう言ってくれた。
踏み石を渡ると砂利の敷き詰められた広い庭に出て、井戸があった。井戸の奥には小さな池があり、まるで鯉が泳いでいそうな涼しげな雰囲気があった。
「そこに座ってて」
芳子さんには縁側に座るよう促され、彼女は手にしていた傘をそっと縁側のへりに立てかけ、身に着けていた白い手袋は手際よく外すとぽいと縁側の上に置いた。
井戸の側に置いてある桶に井戸から引いた水を入れると、桶ごとよいしょと足元に持って来てくれた。
「どうぞ。草履も汚れているみたい。洗ったら少し乾かしておいたらどうかしら。この天気ならすぐに乾くと思うの」
側に置いてある傘を広げると砂利の上に置き、彼女は靴を脱いで縁側に上がった。濡れた傘を乾かそうとしているみたい。
「そうだ。カステラが棚にしまってあるわ。それも食べちゃいましょう」
私の返事も待たずに家の奥へと引っ込んで行った。
私のような見ず知らずの他人にこんなに良くしてくれるなんて、芳子さんはすごく気の良い人なのかな。逆の立場だったとしても私がこんな風に他人と接することはできないと思う。何だかすごく不思議な人。そんな風に思いながら桶に足を浸すと、薄く汚れた水が水面に広がり足の汚れはすっかりきれいに落ちた。
聞いたこともないセミの鳴き声がすぐ近くで聞こえ、人の気配もしない広い庭でただ一人、冷たい水に足を浸している。水中で足を動かすと水面にほんの少し波紋ができ、土汚れが浮き上がってまた沈殿した。
このまま芳子さんが戻って来なかったらどうしよう。知らない家の知らない庭でこのまま夕方になって夜になってただ一人、この場に取り残されたらどうしよう。
急に不安な気持ちが押し寄せ心細く押しつぶされそうで縁側の上で体育座りをして膝のところに顔をうずめた。セミはせわしなく鳴いている。
このまま顔を上げたらいつものおじいちゃんの家に戻っていたら良いのに。目をつむり、セミの鳴き声に耳を澄ましていると急に鳴き声が途絶えた。
床の上を歩く足音が聞こえ顔を上げると芳子さんが皿に淡い黄色をしたカステラを乗せて廊下を歩いていた。その姿を見て、思わず目からはせきをきったように涙があふれ、両手で顔を覆った。
「私、家に帰りたいっ!」
「……辛かったのね」
涙が止まらずしゃっくりと声にならない嗚咽と。ずっと下を向いて鼻水も出ている。芳子さんはずっと背中をさすってくれている。それがまたたまらず悲しくて、おいおいと泣いてしまった。
背中をさすっていた手が離れると桶の水をぱしゃぱしゃとかける音がして、しばらく同じ音が繰り返されてまたやんだ。きっと彼女が私の履いていた汚れたサンダルを洗ってくれたのだと思う。こんな家に住むお嬢さんに汚いサンダルを洗わせてしまった。申し訳ないやら、人前でこんなに泣いて情けないやらどうして良いかわからず、ずっと顔を下に向けしゃっくりが落ち着くのを待った。
今まで聞いたこともないセミの鳴き声がまた聞こえてきた。
何分経ったかわからない頃にしゃっくりも落ち着き、伏せていた顔を少し横に向けると芳子さんは空を眺めていた。私と彼女の間にはまだ口のつけられていないカステラが四切れ置いてある。
「そろそろ落ち着いた?」
芳子さんは私を見ずに空の方に顔を向けながら言った。
「こういう時はものを食べると元気が出るの。私はそういう時は甘いものだけど。本当は家に来たお客様に出すものだけど、今日は特別。これは内緒ね」
彼女は人差し指を唇に添えてふふと笑った。その姿が優しく、とてもまぶしくて魅入ってしまった。
「さあ、虫がこないうちに食べちゃいましょうよ」
手でカステラを一切れ取ると、大きな口を開けて半分ほど頬張った。その姿がとても上品なお嬢さんに見えなくてほんの少しぷっと噴き出してしまった。ああ、私この人好きだなぁ。
私もカステラを取ると、ひと口をゆっくりと口の中に入れた。カラメルの香ばしく優しい甘さが口に広がり、不安や恐怖を少し溶かした感じ。芳子さんの言う通り確かに甘いものは元気が出るかもしれない。私も甘いお菓子は大好きだし昔も今の時代も甘いものは人を元気にさせるんだ。
その後はお互いに無言でカステラを食べ終えて、しばらくぼんやりとしていた。彼女も何で泣いたのか聞いてこないし、私も芳子さんに特に説明するようなことも無いし。洗ってくれたサンダルが乾いたらそろそろひいおじいちゃんのところに帰らないと。
ところで今、何時なんだろう。ポケットに入っているスマホを取り出し、時間を確認すると11時過ぎの時間が表示されている。私、何時間くらい外にいるんだろう。
「なあに? それは? 不思議なものを持っているのね」
芳子さんは不思議そうにスマホを覗いたけど、さほど興味は無いのかすぐにスマホから顔を離した。
「履き物もそろそろ乾いているかも。夏実さんはどの辺に住んでいるの?」
「住んでいるっていうか……お世話になっているっていうか。ひい……あ、若先生のところに」
「若先生……川本診療所?」
「そ、そうです」
私と芳子さんはお互いに顔を見合わせた。




