第五章「マスクの男」①
「我々はどこから来たのか。何者なのか。どこへ向かうのか――ただ知りたいのさ」
ボルトを急襲した、謎のマスクの男。引き金に掛けた指。その男の目的とは……
ボルトがコントロールセンターの扉を蹴り抜いた。分厚い鉄扉がエンハンススーツの出力に耐えきれず、蝶番ごと内側へ倒れる。轟音が通路を駆け抜けた。
非常灯の青白い光だけが室内をぼんやりと照らしている。重い空気が二人にまとわりつく。ボルトはハンドガンを構えたまま歩を進め、左右に体を捻りながら銃口を巡らせた。
「来い」
合図を受けて天日が敷居を跨ごうとした。――束の間、空気が凍った。
重い銃声が室内を揺るがした。
ボルトの体が横殴りに吹き飛び、筐体へ叩きつけられた。ガラスが砕ける音が一拍遅れて天日の鼓膜を打つ。
入口からは死角だった。窓の近くから人影がぬるりと現れた。気配を殺し、待ち構えていたのだ。
ゆっくりと近づいてくる。天日は入口付近で動けずにいた。非常灯の下で、シルエットが少しずつ輪郭を帯びていく。手にはショットガン。銃口からは硝煙が微かに立ち昇っている。
天日は反射的に銃口を向けた。グリップを握る両手が震えている。視界の隅に横たわるボルトが映る。くぐもった呻き。わずかな痙攣。
男の顔が闇から浮かび上がった。目元を覆う白いベネチアンマスクが、不気味さを一層際立たせている。
「思いもしなかったよ」
態度は落ち着き払っていた。上に立つ者の威厳と哲学者の思慮深さを併せ持つような声。聞く者の主体性を奪い、耳を傾けさせる強烈な引力があった。
「まさか辿り着くとは」
マスクの男がさらに半歩、天日に近づいた。
「あの狼のような男は軍人だろう。だが君は違うな。――そうか、システムを落としたのは君か」
天日の銃口は男の胸郭を正確に捉えていた。バイザーに映るクロスヘアがそれを示している。しかし引き金にかけた指は意思を持ったように重い。
「違う」
振り切るように声を出した。その言葉が何を否定したのか、天日自身にもよく分からなかった。
男は一瞬だけ首を傾げ、かすかに口元を緩めた。
「ふむ。軍はとうに骨抜きにされたと踏んでいたのだがね。どうやら侮っていたようだ。君たちのような者がまだいるとは――惜しいところだった。いや、私の想定が甘かったと言うべきか」
緊迫した空気の中で、男はまるで書斎で独り言をこぼすようにゆっくりと言葉を紡いだ。考えを整理するたびに小さな沈黙を挟む。
その沈黙を割ったのは銃声だった。
ボルトは床に倒れたまま、右手の力を振り絞ってハンドガンを放ったのだ。しかし弾丸は男を掠め、天井を抉った。リコイルに耐えきれず銃がその手から滑り落ちる。
「……天日。――撃て」
息の塊が声のかたちを成していた。
「ボルト大佐――」
天日が視線をボルトに移すと同時に、マスクの男が銃口をボルトへ向けた。
判断は意識より先に体が下した。天日はボルトの前に飛び出し、射線の上に立った。銃口を男に突きつけたまま両腕を伸ばす。伸ばした肘が細かく震えている。
「ほう、まだ息があったか」
男の声に驚きはなく、むしろ感心に近い響きだった。ショットガンの銃口は天日を透かすようにボルトの急所を捉えている。震えている天日よりも、重傷で横たわるボルトのほうが、なおも脅威と見なしていることが分かる。
男の指が引き金を絞り込む。
「やめろ」
叫んだ。――いや、叫ぼうとした。声帯から出たのは、それよりもずっと奥にあるものだった。言葉というよりは衝動が、理性の檻を破って零れ出したような音だった。
その瞬間、男の体がわずかに強張り、銃身が揺らいだ。
天日はその隙に半歩動き、ボルトへの射線を完全に遮った。
男は微かに動揺し、引き金から指を外した。マスクの奥の眼光が天日を射抜く。蛇に睨まれた蛙のように、体が凍った。
一拍の空白。やがて何かを理解したように、男の口元が歪んだ。
「――面白い。まさか、君も」
男は驚くべきことにショットガンの銃口を床へ下ろした。確信を深めるように小さく頷く。
「何故、君はそこに立っている」
男の問いは漠然としていた。天日は真意を掴めないまま聞き返した。
「――貴方は、何故こんなことをしているんですか」
震える体とは裏腹に、声は冷静だった。男は十分な間をおいて言った。
「我々はどこから来たのか。何者なのか。どこへ向かうのか――ただ知りたいのさ。君よりずっと単純な動機さ」
この男の話を真に受けてはいけない。勘がそう告げている。
「誤解しないでほしい。できることなら私も平和的に事を進めたい。だが、時間は有限だ。――お嬢様にも、いずれ解るだろう」
口調にかすかな自嘲が混じっていた。脈絡のない「お嬢様」という言葉が、天日の記憶の隅に引っかかった。
マスクの男が片手を手を耳に翳した。イヤーデバイスからの通信に気を留めているようだ。そうしている間も天日が向ける銃口を意に介していない。
「さて、いつまでも話していたいところだが、頃合いのようだ。――目的の半分と言ったところか、まあいい。議会の連中と戯れるのは別の機会にしよう。――君ともまたいずれ」
男は翻り、悠々とコントロールセンターを出た。天日の銃口はその姿を追いかけたが、ただ追いかけただけで、仕事はしなかった。
やがて男の足音が消え、静寂が戻った。銃を下ろす。腕がひどく重かった。
安堵と自責が喉の奥からせり上がるのを感じた。
*
ボルトの傷は素人目にも深刻だった。意識こそ保っているものの、大量の出血と衝撃による骨折で身動きがとれない。エンハンススーツの防弾層が散弾の貫通こそ防いだものの、至近距離の衝撃は殺しきれず、内部の損傷は目を覆うほどだった。しかし後に分かったことだが、ボルトは死角からの銃撃に咄嗟に体を捻り、左半身で受け止めていた。戦闘データがそれを記録していた。その刹那の判断が致命傷を避けたことになる。
『こちらディアー・ツー、ロビーの状況を教えてください』
天日は止血テープでボルトの傷を処置した後、セイヴへの通信を試みた。
『――こちらウルフ・ファイブ。ロビー制圧完了。負傷者あり。コントロールセンターへ向かう』
いくらかの空白を挟んで返答があった。セイヴの声だった。言葉の間に激しい呼吸が挟まる。戦闘の苛烈さを物語っていた。
『コントロールセンターは確保しましたが、ボルト大佐が負傷。人手がいります』
『――分かった。すぐに向かう』
程なくして、セイヴとシモンがコントロールセンターに駆け込んできた。シモンは背にアナスタシアを担いでいる。アナスタシアの全身にはボルトのそれ以上に止血テープが巻かれ、割れたヘッドプロテクターの隙間から美しいブロンドが覗いていた。もっとも今は朱に染まり、本来の輝きを失っていた。
天日は起きたことを二人に伝えた。しかしセイヴもシモンも、マスクの男とは遭遇しなかったという。だが今は退路を追及している余裕はない。
室内の一角から機器の駆動音が響いた。防衛システムが再起動を始めた音だ。天日はボルトの体をセイヴに委ねると、預かっていたキーロガーを防衛システムのメインコンピューターにセットした。マリィと事前に打ち合わせた手順に従い、プログラムのチェックとアップデートを実行する。ディスプレイに展開されたコードを走査し、改竄箇所を特定し、修正パッチを噛ませていく。さっきまで引き金の上で硬直していた指先が、今はまるで別もののようにキーボードの上を滑っていた。
『こちらディアー・ワン。システム復旧を確認。防衛システム、正常稼働――みんな、本当にお疲れさま』
マリィの声がイヤーデバイス越しにかすかに震えていた。
*
内務省タワーの足元は、すでに混沌の渦中にあった。
復旧した警備ドローンが編隊を組んで上空を旋回し、サーチライトが雨幕を切り裂いている。警官隊が正面入口を固め、人質だった市民の列が護送車へと誘導されていた。タワー正面には見張りについていたであろうテロリストの遺体が数体、雨に打たれたまま転がっている。事態の収束を聞きつけた警官隊と交戦した痕跡だった。
救護班がタワーから出てきた天日たちに駆け寄った。その先頭にマリィがいた。
ボルトとアナスタシアは即座に担架へ移された。搬送の直前、ボルトがマリィに何か言葉をかけていたが、その声は雨音に溶けて周囲の誰にも届かなかった。二つの担架が救護車両に吸い込まれ、扉が閉じる。
「セイヴ、シモン。あなたたちも早く治療を受けなさい」
マリィの言葉に二人は頷き、救護班に体を預けた。シモンは一度だけ振り返り、その視線が天日にぶつかった。何かを言いかけたように見えたが、開きかけた口はそのまま閉じ、再び歩いていった。
残されたのは天日とマリィだった。心なしか雨脚が緩んできたように感じる。
「天日くん、怪我は」
「僕は大丈夫です」
短い答えだった。マリィは黙って天日を見つめた。目立った外傷はない。だがマリィには見えていた。体ではなく、心の裂傷が。
「――撃てませんでした」
天日の声は静かだった。自分を責めているというよりも、事実をただ口にしているだけの、乾いた声音だった。
「あなたは軍人ではないわ」
マリィはそう言い切ると、天日の体を両腕で強く引き寄せた。小柄な体で天日の全てを受け止めようとした。一瞬だけ抗い、しかしすぐに力を抜いた。自分よりずっと小さなマリィの肩に体重を預け、久しぶりに緊張の糸が途切れるのを感じた。
「本当に無事でよかった」
天日は目を閉じた。雨粒が二人の肩を叩き続けていた。
ご拝読ありがとうございます。
皆様の目に、マスクの男が魅力的な敵キャラクターとして映っていると幸いです。
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