第三章「水底の握手」①
「――彼はヴィタルマナよ」
地下8階で出会った不敵な男。バレンチノ・ボルト大佐との邂逅。天日の運命が動き出す。
雨脚は衰えるどころか、激しさを増していた。もはや降っているという表現では足りない。空が裂けて、そこから海が注ぎ込んでいるかのような暴雨だった。視界の3メートル先が白い壁に変わり、足元のアスファルトは川底のように水が流れている。
天日は、自分の体がまだ動いていることが不思議だった。
警備ドローンとの格闘で両腕は鉛のように重く、脛の擦過傷は雨水に洗われるたびに鈍く抗議の声を上げている。シャツは体温を奪うだけの冷たい布切れに成り果て、靴の中では水が歩くたびにぐちゅぐちゅと間抜けな音を立てていた。疲労が全身を覆っていたが、マリィの背中を見失うわけにはいかなかった。
マリィは半歩先を、迷いのない足取りで進んでいた。
「あとどのくらいですか」
天日が声を張ったが、雨がほとんど飲み込んだ。マリィが振り返りもせずに答える。
「もうすぐ。角を曲がれば見えるはず」
もうすぐ、という言葉を天日はこの十数分で7回聞いた。8回目を数える前に、視界の奥に巨大な影が浮かび上がった。
リグ・ベータ社。アジアリージョン支社。
マリィの古巣であり、ブラフマナスパティ社の親会社にあたる軍事企業の拠点だった。濡れた暗闇の中でもその輪郭は明確で、周囲の建築物とは明らかに異なる威圧感を放っている。壁面の装飾を一切排した無骨なコンクリートの外殻が、雨に打たれて黒く光っていた。美観には微塵も関心を払っていない。その潔さが、ここが何をする場所なのかを雄弁に語っていた。
正面エントランスに辿り着いたとき、天日の足はほとんど惰性だけで動いていた。マリィが認証パネルに手をかざすと、分厚い防爆ドアが低い唸りを上げてスライドする。
中に入った途端、外界の轟音が遮断された。
雨音が消え、代わりに空調の低い唸りと、自分たちの靴底が水を含んで床を叩く音だけが反響する。その静けさがかえって耳に痛い。天日は無意識に息を止めていたことに気づき、ゆっくりと吐いた。
「こっち」
マリィは廊下の照明に青白く照らされながら、迷うそぶりもなく奥へ進んでいく。エレベーターのパネルを操作する手つきは、長い空白など存在しないかのように自然だった。古巣、という言葉の重みが、その所作ひとつで伝わってくる。
エレベーターが静かに降下を始めた。天日は壁面の階数表示を眺めた。B1、B2、B3――数字が淡々と減っていく。
「地下8階に作戦会議室があるの」
マリィが補足したのは、表示がB5を過ぎたあたりだった。
「ずいぶん深いですね」
「あら知らなかった? 深いってことは、安全ってことよ」
正論だった。地下8階まで掘り下げれば、地上で何が起きようと影響はなさそうである。ただし天日は、安全のために地下8階まで潜る必要がある時点で、何かが根本的に間違っているような気がした。
エレベーターのドアが開いた。
薄暗い通路の先に、武骨な金属製の扉がある。マリィが再び認証を通すと、分厚い扉が横にスライドし、中の光が漏れ出した。
作戦会議室は、天日が想像していたよりもずっと広かった。中央に据えられた大型のテーブルにはホログラフィック・ディスプレイが埋め込まれ、壁面には複数のモニターが並んでいる。いつか観たスパイ映画のセットのようだ。だが天日の目を引いたのは設備ではなく、その中にいる人間たちだった。
テーブルの奥に、腕を組んで立っている男がいた。実際の体格以上に大きく見える。白が混ざった少し長めの髪をなで上げ、日焼けした肌に刻まれた皺の一本一本が、この男が椅子の上ではなく現場で歳を重ねてきたことを示している。制服の左胸には大佐の階級章。
「やあ――待っていたよ」
男は不敵に笑った。
通話越しで聞いたあの声と同じ、飄々とした響きだった。ただし、その目は天日とマリィの全身をくまなく観察している。ずぶ濡れの服、天日の脛の傷、マリィの疲弊した表情。――すべてを数秒で読み取り、何も言わなかった。言わないことが、この男なりの配慮であるらしかった。
マリィは会議室に足を踏み入れるなり、天日の横を素通りした。
「着替えがあるはずよね、奥に」
「ああ。ロッカーに――」
男の返事を聞き終える前に、マリィは会議室の奥の扉に消えていた。
取り残された天日は、会議室の空気を測るようにゆっくりと室内を見渡した。
「改めて。俺はバレンチノ=ボルト。国防庁アジアリージョン司令部所属。地位は一応、大佐だ。まあ、ボルトでいい。階級で呼ばれると背中が痒くなる」
ボルトは天日に向かって手を差し出した。その仕草には、地下8階にいるとは思えない陽気さがあった。非常事態に陽気でいられる人間は二種類しかいない。状況を理解していないか、理解した上で選んでいるか。この男が前者でないことは、目を見れば判った。
「はじめまして。天日=エゼンです」
戸惑いながらも、天日はその手を握り返した。
「紹介しよう」
ボルトが天日に振り返り、テーブルの右手側を示した。壁にもたれるようにして立っている男がいる。ボルト以上の体格をしていた。表情は鉄板を一枚挟んだ向こう側にあるようで、こちらに興味があるのかないのか判然としない。少なくとも「歓迎」という単語は、この男の辞書では奥のほうに仕舞われているらしい。
「シモン=ナガン。少尉。口数は少ないが腕は確かだ」
シモンは天日を一瞥した。一瞥、というのが正確だ。視線が通り過ぎるのに要した時間は、まばたき一回分にも満たない。しかしその一瞬に、値踏みとも警戒ともつかない何かが確かに含まれていた。天日が会釈を返す頃には、シモンの視線はすでに壁の一点に戻っていた。
「よろしくお願いします」
天日の声は、硬い壁に吸い込まれた。返事の代わりに沈黙が戻ってくる。会話のキャッチボールを想定していたが、相手はグローブを持っていなかった。
「気にするな。照れ屋なんだ」
ボルトが言った。シモンの眉がぴくりと動いたが、否定はしなかった。否定しないということが必ずしも肯定とは限らないが、少なくとも大佐にそう言われ慣れてはいるようだった。
「セイヴ=ガーリエル。大尉」
黒髪に眼鏡。シモンとは対照的に穏やかな目をしていた。すべてを等距離で見ているような視線。控えめに頷き、「よろしく」とだけ言った。ボルトが嵐の上に立とうとする人間なら、この男は嵐の横に並んで歩こうとする――そういう涼しさがあった。
「そして、アナスタシア=タナトス。少尉だ」
均整のとれた体躯に、背筋の通った姿勢。肩にかかる金髪のワンレングスが照明の下で淡く光り、緑色の瞳が天日を真っ直ぐに射貫いている。その視線に虚飾はなく、過不足のない会釈が返ってきた。
「アナスタシアです。よろしく」
それだけだった。しかしその短さの中に、すべてが詰まっている。言葉の少なさは寡黙とは違う。必要な分だけ正確に切り出す、そういう種類の簡潔さだった。
「天日=エゼンです。……その、場違いなのは承知していますが」
「場違いかどうかは、これから決まる」
ボルトが遮るように言った。それから少し間を置いて、天日の目をまっすぐに見た。
「君を招いたのは、マリィがどうしても君を連れてきたいと言ったからだ。自分の首を賭けてもいいと。――彼女がそこまで言う人間は、俺の記憶では二人目だ」
天日は返答に窮した。首を賭けてもいい、というのは比喩なのか本気なのか。マリィならどちらもあり得る。一人目が誰なのかが気にならないといえば嘘になる。
「はい、はい、馬鹿なこと言ってないで」
奥の扉が開き、着替えを終えたマリィが戻ってきた。何故か白衣を羽織っている。乾いた服に着替え、髪の水気を拭き取ったことで、先ほどまでの疲弊した印象がいくらか薄れていた。白衣のせいかもしれない。
「これ、あなたも」
マリィが手に持っていた着替えを天日に押しつけるように渡した。
「サイズは適当だけど、濡れたままよりはましでしょう」
「……ありがとうございます」
「猫の手も借りたいと言い出したのはあなたでしょう、バレンチノ=ボルト大佐。けれど彼が素晴らしい人材であることは保証するわ」
ボルトは着替えを促す視線を天日に送りつつ、悪びれた様子もなく肩をすくめた。
「事実を二つの角度から述べただけだ。矛盾はしていない」
「詭弁は軍人の必修科目なの?」
「選択科目だが、成績は優秀だった」
マリィは嘆息した。だが、呆れはしていても、嫌そうには見えない。歴史を感じる、呼吸の合った応酬だった。
「彼はエンジニアよ」
「エンジニア?」
「ええ、農業エンジニア」
マリィは天日に向き直った。
「早く着替えていらっしゃい」
天日は気恥ずかしさも相まって、マリィの言葉を助け船に衣類を抱えて会議室の隅に移動した。背を向けて着替えを始める。濡れたシャツを脱ぐとき、脛の傷が引き攣れるように痛んだ。乾いた布地が肌に触れる感覚が、思いのほか心地よい。単純な快適さが、疲弊した思考回路をわずかに回復させる。
「――ってことはまさか」
ボルトが声を落として言った。当然天日にも届いていたが、着替えに忙しいふりで誤魔化す。
「――彼はヴィタルマナよ」
一拍の沈黙。空調の音が、急に大きく聞こえた。
「……聞いてないぞ」
ボルトの声は低かった。先ほどの飄々とした調子が消え、硬質な響きが混じっている。
「言ってないもの」
マリィの返答には、一切の悪びれがなかった。言っていないから聞いていない。論理としては完璧だが、誠実さとしてはいささか問題がある。
天日はシャツのボタンを留めながら、聞こえないふりを続けた。ここで振り返ってしゃしゃり出ることが得策ではないと感じ取ったからだ。
着替え終わった天日がテーブルに戻ると、空気はすでに平静を取り戻していた。少なくとも表面上は。ボルトは腕を組み直し、セイヴは眼鏡の位置を直し、アナスタシアは変わらず静かに座っている。シモンだけが、先ほどより明らかに天日から視線を外していた。見ないようにしている、ということ自体が、見ているよりも雄弁だった。
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主要キャラクターが一斉に登場しました。短い紹介シーンですが、個性を感じ取っていただけると嬉しいです!
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