第二章「境界線」②
新肥料「オムニブースト」の成果をプレゼンする天日。オリジンである上役が、ヴィタルマナ研究員に向ける視線とは……
「――以上が『オムニブースト』の研究報告となります」
エア・ディスプレイには最終スライドが映し出されたまま、短い静寂が会議室を満たした。収穫量の棒グラフ、栄養素の比較チャート、土壌データの推移。自分でまとめた数字を、自分で読み上げる。奇妙な反復作業だが、プレゼンとはそういうものだ。
「収穫量が15パーセント向上、栄養素の含有量にも有意差あり、か」
本社の担当役員が腕を組んだまま呟いた。隣に座るもう一人の役員は、テーブルに映された資料データを指先でスクロールしている。
「いい数字だ。申し分ない」
天日は「ありがとうございます」と返した。手応えとしては悪くない。60点が及第点だとすれば、75点あたりの空気だった。百点満点の拍手喝采は望んでいない。むしろ静かに通過したい。目立つのは趣味ではないのだ。
「ただ、味は評価しづらいな。結局のところ、ケミカルフードで大半の味は再現できるわけだし」
もう一人が言った。もっともな指摘だった。ケミカルフードの合成技術は年々精度を上げている。ボタン一つで任意の味が仕上がる時代に、土を耕して種を蒔く意味を問われるのは、ナチュラルフードの宿命だ。
「おっしゃる通りです。ただ、オムニブーストで育てたトマトは糖度が従来比で20パーセント増しまして、果物のようにデザートとして調理することもできます。これはケミカルフードの『再現』ではなく『原本』にあたるものなので、模倣される側にいる限り、優位性は揺らがないと考えています」
「なるほど」
役員が頷いた。その『なるほど』は、納得7割、社交辞令3割。天日にはそのブレンド比がだいたい分かる。十分だった。
「ところで」
役員がデバイスを手に取った。
「この肥料の開発者は、君かね」
「はい」
「――ヴィタルマナが、ねえ」
口調に棘はない。感心にも近いトーンだった。だが、手元のデバイスをスライドして、確認しているのは明らかに天日の情報だと想像がついた。隣の役員がフォローするように口を開く。
「優秀な人材はどこにでもいるということだろう。数字がすべてだ」
マリィの事前の根回しが行き届いていることを、天日は密かに実感していた。同時に感謝した。ただ、「どこにでもいる」の「どこ」が特区を指していることの含意を、本人はたぶん自覚していない。天日は笑顔を崩さなかった。こういう場面には慣れている。慣れすぎて、感情が動く前に対処が終わっている。便利な体質だと自分でも思う。
「ありがとうございます。引き続き、現場で成果を出せるよう努めます」
会議室をあとにすると、廊下の壁に見慣れた赤毛がもたれていた。足音に気づいたのか、レンズの奥の視線がこちらを捉えた。
「どうだった?」
「75点くらいかと」
「ずいぶんと正確な自己採点ね」
「職業病です」
マリィは壁から背を離し、天日と並んで歩き出した。磨かれた床に二人の足音だけが響く。
「数字で黙らせたのは正解よ。ウムコント社のケミカルフードにシェアを食われっぱなしだったから、上も内心ほっとしたはず」
「ほっとした顔には見えませんでしたけど」
「偉い人のほっとした顔は、普通の人の無表情と区別がつかないの。覚えておいて」
エレベーターホールまで来たところで、天日はふと足を止めた。
手が、軽い。
「……キャリーケース」
「え?」
「会議室に置いてきました」
振り返ると、閉じたばかりの会議室のドアが遠くに見えた。中では次の会議の準備が始まっているかもしれない。戻るのは少し気まずい。
「取ってくる?」
「いえ――中身はプレゼン用の野菜サンプルと着替えくらいなので、急ぎではないんですが」
マリィが肩をすくめた。
「じゃあ後で届けるわ」
「すみません、助かります」
マリィは呆れた顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
天日はビルの外に出た。小糠雨は続いている。空気が湿っていて、シャツの襟がすぐに肌に貼りついた。
ホテルまでは歩いて20分ほどだった。オリジン区画を一人で歩く機会は少ない。通りの広さ、街路樹の手入れの行き届き方、ショーウィンドウの照明の均一さ。特区とはまるで異なる世界の様子に、五感が勝手に飛びついた。
通りの角に据えつけられたパブリックビジョンが、ニュース映像を流していた。足を止めるつもりはなかったが、視覚と聴覚が自動的に情報を引き寄せる。
『――なお、被害者に関連性はみられず、いずれも外傷はなく、心筋梗塞によるものとみられています。未だ原因は分かっておりません……えー、続いてはお天気です。今夜から明日朝にかけて、雨脚はさらに強くなる見通しで――』
ホテルに着くと、ロビーは静かだった。チェックインを済ませ、エレベーターに乗り、割り当てられた部屋に入る。高層階。窓からはスカイラインが一望でき、眼下に広がる街並みは雨に霞んでいた。
荷物がないので、やることがない。やることがないと、考え事が始まる。考え事が始まると、ろくなことにならない。天日はベッドに腰を下ろし、グラスデバイスを起動した。
メニューパネルの片隅に、ポドコヴァの蒸籠の画像がサムネイルで残っていた。さっきマリィと食べた昼食の記録。美味かったな、と思う。素直に、それだけを思う。素材の甘みと蒸気の柔らかさ。ケミカルフードがどれだけ進歩しても、蒸籠から立ち昇る湯気の匂いまでは再現できない。匂いには記憶が棲んでいる。記憶は、模倣の外にある。
旧WHPOから|別世界秩序《Another World Order》、通称AWOが発令されたのは今から38年前のことだ。
21世紀の半ば、大方の予想に反して地球上の人口減少は加速した。ただ、生まれてくる人間の数が、死にゆく人間の数に追いつかなくなった。それだけのことだ。それだけのことが、文明を根底から揺さぶった。
各国で内乱が起き、最先進国から順に倒壊していった。残った国々が一つにまとまり、地球は統一国家となった。崇高な理念で手を取り合ったわけではない。争う気力が尽きたというほうが正確だろう。役目を終えたWHPOは解体され、現世界評議会が政治の最高機関として成り代わった。
その頃には人類の数は、ピーク時の十分の一を下回っていた。
しかし、憂いばかりでもない。結果として争いが減り、有り余る富が残った。国境線が無くなったことでそれが行き渡った。そこから失われた100年を取り戻すように、時計の針は再び動き始めた。
窓の外は雨脚が強くなっていた。街並みの輪郭が少しずつ滲んでいく。ガラスに映る天日の姿が、雨粒に削られるように曖昧になっていく。小糠雨は本降りに変わりつつあった。
ご拝読ありがとうございます!
作品の世界観の一つ、オリジンとヴィタルマナの隔たりを感じていただけると嬉しいです!
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