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第二章「境界線」①

「……なにこの椅子。拷問器具?」

時は半日ほど遡る。天日アメノヒはゲートを通り、オリジン特区へ来ていた。マリィと共に成果報告のためプレゼンへ向かう。

 遡ること数時間前――天日(アメノヒ)境界(ゲート)の待合室で、世界で最も退屈な椅子に座っていた。


 退屈な椅子、というのは比喩ではない。境界(ゲート)の待合室に設置されたベンチは、座面が微妙に前傾していて、背もたれには背骨のどの部位にも合致しない謎のカーブがついている。長居させないための設計思想が、臀部を通じてダイレクトに伝わってくる。ヴィタルマナがオリジン区画に入るには身元保証人の同行が要る。つまりこの椅子は「お前はここで大人しく待っていろ」という意思表示を、造形のみでやってのけている。家具にまで説教される筋合いはないのだが、設計者の執念には素直に感心した。


 グラスデバイスにプレゼン資料を映し、3度目の通し読みをしていた。「オムニブースト」。自分が開発した合成肥料の名前を、天日(アメノヒ)はそれなりに気に入っている。中身も申し分ないが、それを決めるのは今日のプレゼンを聞く側の人間たちだった。


 待合室のドアが開いた。約束の5分前。


 マリィ=コアィは入ってくるなり淡い赤毛を無造作に束ね、グラスデバイスのブリッジを中指で押し上げながら室内を見回した。天日(アメノヒ)を見つける前に、まず椅子に目を留めた。


「……なにこの椅子。拷問器具?」


「僕もそう思っていたところです」


 立ち上がった天日(アメノヒ)に、マリィは「座ってていいのに」とも「よく来たわね」とも言わなかった。代わりに、


「痩せた?」


 と言った。


「会ったの先月ですよね」


「先月より痩せて見える。ちゃんと食べてる?」


「ナチュラルフードを作る側の人間が栄養失調だったら、それはもう事故ですよ」


 マリィは鼻を鳴らした。感心とも呆れともつかない。この人の鼻はいつも多義的だ。


「すみません、わざわざ迎えに来ていただいて。リモートで済む手続きなのに」


「こういうのは気持ちの問題なの」


 マリィが天日(アメノヒ)のイヤーデバイスのあたりに手をかざした。


『――同行者のIDを受理しました』


 デバイスが無感情に告げた。身元保証。たったそれだけのことに、この人はわざわざ車を走らせてくる。それが「気持ちの問題」で片づけられるのだとしたら、気持ちというのはずいぶん高効率な燃料ということになる。


「行きましょう。車、表に停めてあるから」


 外に出ると、華奢なマリィとは対照的な大型SUVが路肩に鎮座していた。実用性でも見栄でもない。ただ「聞くな」とだけ言っている車だった。


 トランクにキャリーケースを押し込みながら、天日(アメノヒ)はマリィの質問に答えた。


「プレゼンの件ですけど、成果は問題ないと思います。オムニブーストで育てた作物は収穫量が最低でも15パーセント向上、栄養素の含有量にも有意な変化が出ています」


「データは確認したわ。いい数字ね」


 マリィの声は淡々としていた。褒めてもいなければ、けなしてもいない。ただ事実を事実として受け取った。天日(アメノヒ)はその無機質さに、いつも少しだけ救われる。過剰な称賛は、期待の前借りのようで落ち着かないのだ。


「問題は、数字の向こう側をどう見せるか。最近ウムコント社のケミカルフードにシェアを食われっぱなしでしょう。上はナチュラルフードで巻き返したいと思っている。幸い、自然食ブームで消費は伸びてきてるから、追い風はある」


「頑張ります」


「頑張るのは当然として。緊張、してる?」


「少しだけ」


「少しだけ、は嘘ね。プレゼン資料を3回読み返す人間は、少しだけとは言わないの」


 天日(アメノヒ)は苦笑した。待合室で資料を読んでいたのが、外から見えていたらしい。


「まあいいわ。期待してる」


 それだけ言って、マリィは踏む必要のないアクセルに足を乗せ、握る必要のないハンドルに手を添えた。自動運転の車で運転姿勢を取る人を、天日(アメノヒ)はマリィ以外に知らない。


 車窓の外を雨粒が斜めに流れていく。小糠雨。音にならない程度の、空気に溶けかけた雨だった。


「そういえば」


 車窓を雨粒が斜めに横切っていった。その軌跡を目で追っていると、ふいに運転席から声が飛んできた。


天日(アメノヒ)くん、プレゼンまでずいぶん時間が空くけど。どこか寄りたいところはある?」


「いえ、特にないです。時間まで適当に――」


「じゃあ付き合って」


 天日(アメノヒ)の返答を最後まで聞く気がなかったことは、マリィの指がすでにナビパネルを操作していることから明らかだった。


『目的地をポドコヴァに変更します』


「腹が減っては戦はできぬ、でしょう」


「僕、さっき食べたんですけど」


「私が減ってるの」


 反論の余地がなかった。上司の空腹に部下の満腹で対抗するのは、あらゆる組織論において推奨されていない。


 20分ほどで車は停まった。


「ポドコヴァ」と記された電光看板を見上げ、天日(アメノヒ)は車を降りた。マリィが「郊外の店」と言っていたが、ヴィタルマナ特区の市街地に比べれば、この辺りは十分すぎるほど都会だった。「郊外」の定義は、住んでいる場所によって伸縮する。


 店内に入ると、小気味よい「いらっしゃいませ」が迎えた。奥のキッチンカウンターでは生身のシェフが鍋を振っている。ケミカルフードの合成機が厨房を占拠する時代に、人間がフライパンを握っている光景は、それだけで一つの主張だった。


「ライブクッキングっていうのかしら。こういうクラシカルなスタイルが人気なの」


「人気なわりに空いてますね」


「時間帯のせいよ。皮肉を言わないの」


 軽く手を挙げた背中が、迷いなく奥の席へ向かう。天日(アメノヒ)はその後ろについて着席した。昼どきには少し早い店内には、窓際のカップルと、カウンターで新聞を読む老人しかいなかった。


「ここ、天日(アメノヒ)くんのところの野菜を卸してるの。甘くて美味しいって評判よ」


 マリィがメニューパネルをスクロールしながら言った。天日(アメノヒ)は自分が育てた野菜が並ぶメニューを眺めた。少しこそばゆい気分だった。


「なにか食べたいものは?」


 馴染みのない料理名が並んでいた。天日(アメノヒ)は適当に一つ選んだ。選ぶ基準は、写真の彩りがいちばん鮮やかだったから。味の想像がつかないときは、見た目に頼るしかない。


「蒸籠で蒸した野菜が、すごく美味しかったです」


 食後のコーヒーを待ちながら、天日(アメノヒ)は言った。率直な感想だった。蒸すという工程がこれほど素材の輪郭を際立たせるのかと、食べながらずっと考えていた。エンジニアの職業病だ。美味しいものに出会うと、味より先に原理が気になる。


「蒸籠は旧中国領の伝統的な調理法だったかしら。それとも日本リージョン?」


「確か、どちらでも使われていましたよ」


 何気なく答えた。


「詳しいのね」


 マリィのレンズ越しの視線が、ほんの一瞬だけピントを絞るように細くなった。


「……いえ。前に何かで読んだような――」


 天日(アメノヒ)はコーヒーカップに視線を落とした。嘘ではない。文献で読んだのは事実だ。そう、いつだったか――そこに見計らったようにサーブロボットがトレイを運んできた。通路側の天日(アメノヒ)がカップを取り、テーブルに並べる。


「この調理法だと、薄味でも十分に素材の味が楽しめますね。こういう仕事は、確かにケミカルフードにはできない」


 話題を料理に戻すと、マリィの表情が少し緩んだ。


「でしょう。ケミカルフードがいくら進化しても、やたらナチュラルフードの味を再現したがるのよ。結局、全部模倣でしょう? 本物が先にあって、それを追いかけてる」


「細胞が求めてるんですかね、本物を」


「ロマンチストね、天日(アメノヒ)くん」


「いえ、エンジニア的な仮説です」


「エンジニアはロマンチストの別名よ」


 マリィがカップをソーサーに戻した。磁器の触れ合う小さな音が、彼女の句読点だった。


「あ、そうだ」


 天日(アメノヒ)は思い出すように身を乗り出した。


「今、品種改良を進めているきのこがあって。特区の審査に出しているところなんですけど」


「きのこ」


「はい。かなり自信があります。美味しいのはもちろん、栄養価が高くて肉厚で、炒めると肉みたいにジューシーで香ばしい。ライスにもパンにも合います」


 語っているうちに舌の上に記憶が蘇ってきた。食後だというのに唾液が湧いた。


「食べたばかりでその顔になるんだから、相当ね。楽しみにしてる」


 マリィがカップを置くのに合わせて、天日(アメノヒ)もカップを口に寄せた。


「――つ」


 慌ててカップを戻す。テーブルの上でカップがソーサーの縁を叩き、コーヒーが波打った。こぼさなかっただけ上出来だった。マリィが慌てる天日(アメノヒ)を見て、ゆっくりと口角を上げた。


「猫舌?」


「……今知りました」


「26年生きて今知ったのかしら?」


 質問に正直に答えた未来を想像し、天日(アメノヒ)は、ただ黙って笑い返した。


「――あ」


 天日(アメノヒ)の視線がテーブルの隅に留まった。メニューパネルの端に、子供向けのイラストが描かれたデザートメニューが表示されている。象の形をしたパンケーキ。対象年齢3歳から6歳。かわいらしい象の鼻がメープルシロップを巻き上げている絵柄で、その存在がなぜかするりと次の言葉を引き出してしまった。


「そういえばあの子――」


 空気が変わった。


 変わった、という表現は正確ではない。凍った。コーヒーの湯気さえ一瞬だけ揺らぎを止めたように見えた。マリィの指がカップの取っ手の上で動きを止めている。磁器の触れ合う音が消えた。この会話の終止符を示す、確かな意思表示だと天日(アメノヒ)は受け取った。


 その反応は予想できたはずだった。だが、マリィへの親しみが生んだ僅かな期待が、無意識のうちに口を衝かせたのかもしれない。


「すみません」


「いいの」


 声は静かだった。怒気も含まない。むしろ感情を徹底的に濾過した後の、透明すぎる声だった。それが却って、言葉の奥にある重さを際立たせている。マリィはグラスデバイスのブリッジを中指で押し上げた。いつもの仕草だった。が、その動作がいつもより一拍長いことに天日(アメノヒ)は気づいていた。レンズの奥で何かを立て直している。表情ではなく、もう少し深い場所にあるものを。


「――食べ終わったなら行きましょう。プレゼンに遅れたら、私が怒られる」


 主語がさりげなく自分になっている。天日(アメノヒ)に気を遣わせないための配置換え。この人は、傷ついた瞬間にすら他人の居心地を設計する。その器用さが、ときどき痛々しい。

ご拝読いただきありがとうございます!

天日(アメノヒ)とマリィの軽快な会話、いかがでしたでしょうか。


↓Instagramでキャラクタービジュアル公開中

https://www.instagram.com/vitalmana2168/


↓TikTokでショートムービー公開中

https://www.tiktok.com/@sjrhsjm/


↓マリィ=コアィ

https://www.tiktok.com/@sjrhsjm/video/7634390048141479175

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