最終章「無窮のヴィタルマナ」①
「名前は大事だ。ヴィタルマナのアウローラ=イェスニー」
世界が気づかないまま、その終焉は免れた。知らないまま、知る必要のないまま、街はただ、日常を続けていた。
毎日空を見上げる習慣のある人間は、意外と少ない。
カフェテラスの白いパラソルの下で、アウローラはエア・ディスプレイに映るネリー=マントラの就任演説を眺めていた。
世界評議会の新議長。カクテル帽を丁寧に被ったその白髪の女性は、壇上で一語一語を彫刻のように並べていた。
「――新たな時代の幕開けにあたり、我々は過去の過ちと真摯に向き合わねばなりません」
声は柔らかいが、言葉の選び方は鋭い。
丁寧かつ狡猾。ネリーという人間を表す言葉として、それ以上の精度はなかなか出せない。
アウローラがテーブルに指を翳し、ミュートに切り替えた。演説はまだ続いていたが、聞くべきことは聞いた、という顔だった。
「ずいぶんと長いお話ですわね」
「政治家の演説は長いほうが安全だ。短いと内容を精査される」
「天日は、時々本当に意地の悪いことを言いますわね」
アウローラはアイスティーを口に運んだ。
氷がグラスの縁にぶつかって、からんと気の抜けた音を立てた。
「事実を述べただけだ」
「そう言ったつもりですわ」
アウローラはくすりと笑った。
「意趣返しとして受け取っておきます」
テラスに吹く風は穏やかだった。通りには午後の光が満ちていて、行き交う人々の足取りにはどこか弛緩した空気がある。
数か月前にこの街を覆っていた緊張は――完全には消えていないが――少なくとも表面上は薄れていた。
「父の手記を、ネリー議長に渡しました」
アウローラの声が、一段低くなった。
「出自は伏せていただきましたが、告発に十分事足りたようです」
「アルフレッド前議長は?」
「自ら辞任しました。実際にはネリーの根回しもあったのでしょうけれど――父自身が、もう疲れ果てていたことと、その両方でしょう。手記が公になることはありません」
通りを横切る鳩が一羽、パラソルの影をかすめて飛んだ。
アウローラはその軌道を目で追い、それから視線を手元に戻した。
「私なりの制裁のつもりでした。でも、制裁という言葉は少し違うのかもしれません」
「決着、か」
「決着。ええ、そのほうが近いように思います」
天日は頷いた。アウローラの横顔に目をやった。銀髪の毛先が風に遊ばれている。表情は凪いでいたが、奥底に沈んだものがある。
それは悲しみというよりも、静謐の残滓だった。
「ネリー議長は頼れる方です。――少なくとも利害が一致している間は」
「で、アウローラを当事者の意見団体代表として議会に招きたい。と」
「よくご存じで」
「マリィさんがね」
「あの方は何でも知っているのですね」
「知るのが仕事だ、と言ってました」
アウローラはグラスをテーブルに戻した。背筋を正すように、姿勢を変えた。
「今後は、ヴィタルマナであることを公にして活動します」
短い宣言だった。だが、その一文に至るまでに通ってきた道の険しさを思えば、簡潔さこそが覚悟の証だった。
「世界は元に戻ったように見える。それはつまり、まだ何も変わっていないということです。変えていくのは、これからです」
天日は口の中で転がしていたコーヒーを飲み込んだ。
「使命感?」
「いいえ」アウローラは首を横に振った。「使命にしてしまうと、終わりがなくなりますから。終わりのないものは、いつか人を壊します。だからこれは、私が選んだ仕事です」
「仕事ね」
「ええ。報酬は、次の世代が境界を知らずに育つこと」
その言葉を聞いて、天日は少しだけ目を細めた。笑ったのではない。まぶしかったのだ。
通りの向こうで子供が笑っている。何がおかしいのか、子供自身も判っていないような笑い声だった。
「――それと、もうひとつ」
アウローラの声が変わった。テラスの空気がわずかに冷えた。
「アンコールマン博士がお亡くなりになりました」
天日は冷めたコーヒーのカップをソーサーに戻した。磁器の触れ合う小さな音が、句読点の代わりだった。
「自死だったそうです。シン・シティのメンバーが確認しました」
「……そうか」
天日はカップに手を伸ばしかけて、途中でやめた。指先だけが取っ手に触れて、離れた。視線がテラスの向こうへ流れる。
穏やかな横顔だった。穏やかすぎる、と言ったほうが正確かもしれない。
「あの方は、件の日からずっと壊れていたのかもしれません。私たちが訪ねたときには、もう限界だったのでしょう」
アウローラの目が、かすかに揺れた。
「データもすべて処分されていたそうです。跡形もなく」
天日は何も言わなかった。
午後の光は変わらず暖かく、風は穏やかで、子供の笑い声はまだ聞こえていた。
「自分を赦せなかったんだと思います」アウローラは静かに言った。「罪を背負って生きることと、罪を背負いきれずに崩れることは、紙一重ですわね」
「紙一重。そうかもしれない」
天日は同意した。同意の仕方にも色々あるが、これは最も温度の低い種類のものだった。
アウローラはそれに気づいたのか、また別の理由か、天日の横顔をしばらく見つめた。
「天日」
「はい」
「あなたは、怖くありませんか?」
問いの輪郭がぼんやりしていた。何が怖いのかを特定していない。漠然とした問いには漠然とした答えしか返せない――はずだが、天日にはアウローラの言わんとすることが解っていた。
「他者を感化する力――のこと?」
アウローラが頷いた。
「私は時々、自分の力が怖い。誰かの心を惑わせてしまう。それが良いことのために使われたとしても、惑わせたという事実は消えません」
言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。
「ディマンドは、この力を武器にしました。恐怖で縛り、意思を歪めた。私はそうならないと、どうして言い切れるのでしょう?」
「言い切れないから、怖いんでしょう」
「ええ」
「それでいいと思う」
天日はカップをソーサーの上で滑らせるように回した。
「自覚があるうちは大丈夫。自覚がなくなったとき、はじめて怖いと言えばいい」
「慰めになっていませんわ」
「それはオーダーになかった」
アウローラは小さく笑った。笑ったが、目の奥は笑っていなかった。
「私にとって、この力は呪いです」
知っている。アウローラは以前にも同じ言葉を使った。
「――呪い」
「ええ」
「アウローラ。それは事実の誤認だ」
天日にとってはどちらでもいいことだった。だから見逃してきた。でも、今は伝えようと思った。ただそれだけのことだった。
「君の心は呪われているの?」
唐突な問いに、アウローラは面食らった。
「……いいえ」
「『本心からの願い』。かつて君自身が言った。そして君の心は、いつだって誰かの幸福を願っている。――そう、本心から」
「では、何と――」
「祈り」
風が凪いだ。
街の喧騒が一瞬だけ遠のいて、その一語だけが空中に残った。
「ディマンドが恐怖を伝えたのも真意だ。力の問題じゃない。宿す心の問題だ。名前は大事だ。ヴィタルマナのアウローラ=イェスニー」
アウローラの瞳が微かに震えた。冬の湖のようなグレーに、光が射している。
「……祈り」
「ええ」
「私の祈り」
繰り返すたびに、言葉は内側へ沈んでいった。アウローラの目から、薄い氷が溶けていくのが見えた。
「……ありがとう」
「僕は名前をつけただけだ」
天日は肩をすくめた。
子供の笑い声が遠くで聞こえた。何人かで笑っている。理由は判らない。笑い声というものは、理由が不明なほうが心地よい。
天日がカップを傾けた。空だった。確認するように一度覗き込んでから、ソーサーに戻す。
「以前も似たようなことを言った気がするけど――僕は、この日常を愛しく思っている」
それは一見、脈絡のない告白だった。
「誰よりも、と言ったら大袈裟に聞こえるかな」
「――いいえ」
アウローラは首を振った。
「あなたがそう言うなら、きっと文字通りのことなのでしょう」
誰よりも。
それがどれほどの奥行きを含む言葉なのか、アウローラには解らない。ただ――響きの中に嘘がないことだけは、はっきり伝わっていた。
言葉は時に不自由だが、時間がそれを解決する。特別な力があろうがなかろうが、自然と帳尻があっていくものだ。
「だからこの日常を守るために、必要なことをした。ただ、それだけだ」
「それだけ、ね」
アウローラは少し笑った。今度は目の奥も笑っていた。
「それだけのことを、途方もない規模でやってしまわれるのが、あなたなのですね」
天日は何も答えなかった。
白いパラソルが風に揺れて、二人の影がテーブルの上で踊った。
エア・ディスプレイの中では、ネリーの演説がまだ続いている。新しい時代。希望。共存。政治家の常套句は耳に心地よいが、それを現実にするのは壇上の人間ではない。
テーブルの向かいに座って、祈りという名を得た銀髪のヴィタルマナであり、この街で暮らす名もなき人々だ。
天日はそれを知っていた。ずっと前から。
ご拝読いただきありがとうございます。
物語はエピローグとなります。回収すべき伏線、またその限りではない伏線も含めて、物語の余韻を楽しんでいただけると幸いです。
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