最終章「無窮のヴィタルマナ」②
「異形。あるいは――異能。そう、理の外にあるもの。そう評価すべきだわ」
落ち着きを取り戻した地下8階の作戦会議室で、マリィは一つの心残りを抱いていた。
テラスの陽射しも、子供の笑い声も、届かない、地下63メートル。リグ・ベータ社、地下8階。
作戦会議室は平時の空気に戻っていた。
中央のホログラフィック・ディスプレイには何も投影されておらず、巨大なテーブルはただの家具に成り下がっている。
戦場から遠ざかった司令室というのは、存外間の抜けた場所だ。
ボルトは椅子に深く腰掛け、左腕を前に突き出していた。
サイバネティック・フレームの関節部にマリィが小型のスキャナを当てている。神経信号の伝達率を測定し、微調整するだけの、地味な定期メンテナンス。
「で、戦果報告書の書き直しが3回目なわけだ」
ボルトが天井を見上げながら言った。
「軍務局の連中は何が不満なんだ。事実を書いているのに」
「事実の書き方が気に入らないんでしょう」
マリィはスキャナの数値を確認しながら、平坦な声で返した。
「あなた、報告書に『結果として人類は生存した。以上』って書いたでしょう」
「事実だ。悪いか?」
「良いわけないでしょ。バカなの?」
ボルトは不満げに鼻を鳴らした。
部屋の隅では、アナスタシアがサイバネティック・フレームの動作確認を黙々と続けていた。肘を曲げ、拳を握り、指を一本ずつ開く。その動きは精密で無駄がなく、関節が動くたびに微かな燐光が流れた。
「シモンは?」ボルトが聞いた。
「休暇中よ。今朝、出発したわ」
「どこへ」
「中東リージョン。セイヴの家族に会いに行くと言っていたわ」
ボルトは一瞬だけ目を閉じた。
シモンがその決断に至るまでに、どれだけの時間を要したか。推し量ることは容易い。ボルトにも覚えがあるからだ。何も言わずに頷いた。
セイヴの名前が出ると、部屋の空気が少し変わる。
重くなるのではない。透明度が増す、と言ったほうが近い。余計なものが削ぎ落とされて、大切なものだけが残る。そういう類の変化だった。
「カウンターナノマシンがあるのに、そもそも踏み込む必要があったのか」
ボルトが言った。
スキャナがボルトの腕から離れた。マリィの目だけが持ち上がる。
「それ、もう3回は聞いたわ。同じこと3回するのが趣味だっていうなら――」
「4回目だ」
「何回聞かれても答えは同じよ」
マリィはスキャナを置き、作業椅子の背もたれに体を預けた。
「一つ、私たちは単独行動だった。二つ、議会とディマンドの交渉が成立する前に決着をつける必要があった。三つ、カウンターナノマシンは秘中の秘。私たちしか知らない。これで、いいかしら?」
慣れた口調、と言うより、飽きた口調と言ったほうが正しい。
「カウンターナノマシンはあくまで次善策。少なくとも私の中ではそう。もちろん、シミュレーションでは完璧だったわ、でも」
「でも?」
「カウンターナノマシンの構造を、私は完全には理解しきれていたとは言えない。――今も」
その一文を、マリィは淡々と言った。自分の限界を認めることに、この女性は怯まない。怯まないことと、悔しくないことは別の話だが。
「その話は初めてだ」
「――正直なところ、ディマンドを制圧してナノマシンの発動自体を止められるなら、それに越したことはなかった。むしろそうなる未来を期待していた」
「そうか」
ボルトはいつものように適当な相槌を打った。
納得したのか、していないのか、本人にも分かっていないかもしれない。ただ、5回目の問いがないことだけは確実だった。
マリィはふと、視線をどこでもない場所に向けた。思考が内側に潜るときの癖だ。
「あの子、やっぱり普通じゃない」
「ん?」
「天日くん」
部屋の隅で、サイバネティック・フレームの燐光が消えた。
アナスタシアが動作確認の手を止め、離れた位置で静かに耳を傾けている。
「考えていたの。ずっと」
マリィはいつものようにグラスデバイスのブリッジを中指で押し上げた。
「カウンターナノマシンの理論構築から実装まで、およそ1か月半。理論は成り立つ、それは認める。でもナノスケールの製造精度、個体差対応、免疫干渉パターンの網羅――どれひとつ取っても、普通なら年単位の仕事よ」
「それほどの才能なんだろうさ」
ボルトは肘を曲げてみた。マリィが手を離していたことに気づいていなかった。
「才能?」マリィの声が、わずかに尖った。「才能があれば奇跡を起こせるって言うの? あり得ない。それができないから、人は奇跡を希うのよ」
ボルトは黙って聞いていた。
「異形。あるいは――異能。そう、理の外にあるもの。そう評価すべきだわ」
マリィの目が、薄く眇められていた。理性で測れないものに対する、科学者としての正直な畏れだった。
「なるほどな……」
と、とりあえず頷いた。頷いたが、ピンと来ている顔ではなかった。
アナスタシアは腕を組み替えた。聞いている。彼女もまた何かを考えていたが、口にはしなかった。軍人は、考えを言葉にする前に行動で示す。そういう種類の人間だ。
マリィが再びスキャナを手に取り、ボルトの腕に当てた。
「はい、終わり。異常なし」
「もう終わりか」
「あなたが無駄話をしている間に終わったの」
ボルトが左腕を回した。関節が滑らかに動く。
そのとき、マリィのイヤーデバイスが微かに鳴った。
連動してグラスデバイスのレンズにテキストが浮かぶ――天日=エゼン。
マリィはイヤーデバイスに触れた。
「何、どうしたの?」
『あ、お疲れ様です、マリィさん。ところで、きのこってどうなりました?』
数秒の沈黙があった。
「きのこ?」
『前に話した、品種改良の。あれ、ちゃんと進んでるのかなって』
マリィはグラスデバイスを外した。ボルトを見た。
ボルトはマリィを見た。
アナスタシアは二人を見た。
顔に浮かんだものは三者三様だったが、翻訳すればどれも同じだった。――今?
「……は?」
異形。異能。理外。
一分前にマリィが並べた形容詞が、きのこに踏み潰された。
「……撤回するわ」
『え? 何をですか?』
「うるさい。きのこ? 知らない。自分で調べなさい」
『ちょっと、マ――』通信を切った。
一拍間をおいて、ボルトが盛大に噴き出した。腹を抱えて、肩を揺らしている。
アナスタシアは拳を握ったまま、顔をそむけた。口元が引きつっているのを隠すためだった。
マリィは目頭を押さえた。
「……あの子は」
と、言いかけてやめた。言葉が見つからなかったのではない。多すぎたのだ。代わりに大きく息を吐いた。
地下8階の照明は変わらず無感情に室内を照らしている。
ホログラフィック・ディスプレイは沈黙し、作戦会議室は今日も平穏だった。
きのこ、とボルトが蒸し返すように呟いた。
アナスタシアの背中が小刻みに震えた。
マリィは何も言わず、次の仕事に手を伸ばした。
ご拝読ありがとうございました。
物語はこれで終結です。もし、僅かな方にでもご好評いただけましたら、続編の構想もあります。ぜひ、応援いただけると嬉しいです。
物語ではすべての伏線を気持ちよく回収したわけではありませんが、あえて置き去りにしたものも含めて、ぜひご感想など頂けると幸いです。
本当に、お付き合いいただきありがとうございました。
九日 拝
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