第十五章「時計の裏蓋」②
「贖罪の機会を与えてやると……そう言われたに等しかった。私は断れなかった。断る資格がなかった」
アンコールマン博士が語る過去。この物語のはじまりのエピソード。驚くアウローラの一方で、天日には、別の景色が見ていた。
アンコールマンの居場所を突き止めたのは、シン・シティの末端ネットワークだった。
その男はオリジンでありながら顔と身分を替え、ヴィタルマナ特区の片隅で暮らしているという。
アウローラがその背景をどこまで事前に把握していたのかは、今となっては定かでないが、少なくとも「ただの医師ではない」という確信はあったのだろう。
「共に来てくださいますか」
「もちろん」
二人が訪ねた先は、特区の端にある診療所兼住居だった。看板は出ていない。ドアの塗装は剥げかけ、表札には読み取れない名前が残っている。
それ自体が、住人の身の上を物語っていた。
応対に出た男は小柄で、髪はほとんど白く、頬は削げていた。
60代半ばか、それ以上に見えた。偽っているとはいえオリジンとしての年の重ね方は正直なものだ。
挨拶を済まし、アウローラが名乗った瞬間、アンコールマンの顔色が変わった。
その短いやり取りの中で、アンコールマンはアウローラの素性と、来訪の目的を察していた。それは、天日の目にも明らかだった。
アンコールマンの膝が目に見えて震えた。崩れ落ちそうになるのを、壁に手をついて堪えた。
「……入ってください」
通された部屋は狭い。薬品棚と古い書籍が壁を埋め、診察台の上には洗いざらしの布が畳まれている。
椅子は二脚しかなかった。アンコールマンはそれを二人に譲り、自分は診察台の端に腰を下ろした。
手帳を見せるとアンコールマンは長い時間それを見つめ――やがて、堰を切ったように話し始めた。
懺悔だった。
他に形容のしようがなかった。言葉の一つひとつに、何十年も飲み込んできた戒めと苦しみが、どこまでも染みていた。
「私は――あのテロの準備段階で、医師という立場を利用しました。ヴィタルマナの中から……言い方を変えれば、人柱を選別するためのリストを作成した」
天日は黙って聞いていた。アウローラも微動だにしなかった。
「リストの中には、特異な個体がいました。その力が、テロの実行に利用されました。恐怖で縛り、力を強制的に行使させました」
アンコールマンの手が膝の上で白くなるほど握り締められていた。
「そのヴィタルマナには――双子の兄がいました。兄のほうはオリジンでした。同じ母から生まれ、片方だけが久視細胞を持って生まれた」
天日の中で、回路が繋がった。だがすぐに口にせず、続きを待った。
「弟はテロの最中に命を落としました。しかし兄の方は生きていました。――そして数年後、私のもとを訪ねてきたのです」
アンコールマンの視線が床に落ちた。
「彼は、弟の遺伝子サンプルと、自ら研究した成果を持っていました。特殊な条件下で違法な処置を施せば、久視細胞の移植が可能になる。ただし副作用は未知――そういう内容でした」
「移植を依頼された」
天日が初めて口を開いた。
「最初は冗談を疑いました。私も医師の端くれ、久視細胞の移植が不可能なことは、噂ではなく理論で知っています。しかし、その研究データには、私の知る理論を覆すに十分な方法が書かれていた」
アンコールマンは当時の情景を思い出すように、小さな頷きを繰り返しながら続けた。
「脅されたわけではありません。彼は静かでした。怒りも憎しみも、少なくとも表には出さなかった。ただ――私がかつて何をしたか、すべて知っていた。贖罪の機会を与えてやると……そう言われたに等しかった。私は断れなかった。断る資格がなかった」
「手術は成功しました。オリジンの体に久視細胞が定着し、懸念していた副作用については、少なくとも術後すぐの段階では認められませんでした」
「それ以降、彼とは一切の接触がありません。名前も、行方も。ただ……あの目だけは忘れられない。弟を失った失意の目です。憎悪という言葉では足りない、もっと深い何かが宿っていた」
アンコールマンは語り終え、力尽きたように項垂れた。
アウローラが、青天の霹靂という言葉がそのまま当てはまるような顔をしていた。
だが天日は、別のことを考えていた。
双子の兄。オリジン。弟の遺伝子と、自らの研究。久視細胞の移植。
天日の頭の中で、散らばっていたピースが音を立てて嵌まった。
ディマンドの異常な医学・工学知識。久視細胞の判別機能を組み込んだナノマシンの設計思想。感化の力への執着。そしてあの仮面の下に隠された素顔。
ディマンド=ツェツェ。
確証と呼べるものは何もない。だが天日の中で、すでにそのパズルは完成していた。答えが先に見えて、あとから理由が追いついてくる。直感というより、確信だった。
同時に、天日の脳は別の計算を始めていた。
久視細胞の移植。それが可能であるならば――逆もまた、可能ではないか。
天日の思考が反転した。移植ではなく、偽装だ。
ディマンドのナノマシンは久視細胞の有無でオリジンとヴィタルマナを識別する。ならば――オリジンの体内に久視細胞を中和状態で漂わせるだけでいい。
定着させる必要はない。そもそも条件が揃っていなければできない。だから、結合もいらない。ナノマシンの判別機能が「こいつはヴィタルマナだ」と誤認すれば、それで事足りる。
カウンターナノマシン。結論が先に降ってきた。概念は後から輪郭を得て、理論が骨格になり、設計図が走り始める。天日の脳は久しぶりに全速力で回転していた。
移植ではない。定着させる必要もない。拒否反応を中和し、既存の遺伝子構造と結合させず、ただ体内に久視細胞を隔離して漂わせる。判別機能を騙すためのスケープゴート。
理論は成り立つ。だが実現するには、久視細胞の挙動制御、免疫系との干渉回避、ナノスケールでの封入技術――いくつもの壁がある。
天日は数秒で、それらの壁を越える道筋を組み上げた。
「天日?」
アウローラの声で、天日は意識を表面に引き戻した。アウローラは放心したままだったが、天日の表情が変わったことには気づいたらしい。
「……何か、思いついたのですか?」
「アンコールマン博士、一つ聞いてもいいですか」
天日はアンコールマンに向き直った。
「移植手術の際の理論的な基盤――つまり、拒否反応の中和プロセスに関する記録は残っていますか」
アンコールマンが顔を上げた。虚ろだった目に、わずかな生気が戻った。
医師としての矜持は後悔に塗り潰されてなお、消えてはいなかったのだ。
「……あります。すべてではないが、プロトコルの骨子は」
「見せていただけますか」
アウローラは天日とアンコールマンを交互に見た。
話の流れが読めていないのは明らかだったが、問い質す前に天日の意図を汲み取ろうと必死だった。
アンコールマンが奥の棚から古いストレージデバイスを取り出した。埃を払い、天日に差し出す。
「これが、あの手術に関するすべてです」
天日はそれを受け取った。
掌の中の小さなデバイスが、ひどく重く感じた。
「アウローラ」
「はい」
「お願いがある」
天日は立ち上がった。
「シン・シティのネットワークで、生化学の研究設備と機密を守れる人員を用意してもらえませんか」
アウローラは数秒黙った。それから――まだ全容は掴めていなかったはずだが――静かに頷いた。
「準備します。何が必要か、リストをくださる?」
「今から作ります」
*
それからの日々を、一言で表現するなら、没頭だった。もう少し丁寧に言えば、天日にとって久しぶりの贅沢と呼べる時間だ。
アウローラが手配した設備は最新鋭には程遠い。だが必要な機能だけは揃っていた。
集まった研究員は数名。いずれもかつて医療や生化学の最前線にいたヴィタルマナだ。特区の中にも知性は眠っている。優秀な人材はどこにでもいる。
天日はアンコールマンの記録を土台に、久視細胞の挙動モデルを組み上げた。
移植とは根本的に異なる。定着させない。体内に入れ、しかし結合はさせない。免疫系をかわし、判別機能だけを騙す。
前人未到の知恵の輪だ。解けるかどうかは分からない。
だが退屈はしない。退屈しない時間というのは、それだけで贅沢だ。
同時に、天日はもう一つの課題に取り組んでいた。カウンターナノマシンの流通手段だ。
世界中のオリジンの体内に久視細胞を届ける。そのために最も効率的な経路は――ケミカルフードだった。
ディマンドがナノマシンを拡散したのと、まったく同じ感染経路。
皮肉だった。だが皮肉であることと合理的であることは、しばしば同居する。
天日はその構想をマリィに話し、そこにボルトとセイヴが加わった。
現実的な計画に仕上がるまで、さほどの時間は要さなかった。
しかし、実行に移すための障害はいくつかあった。ウムコント社がそうであったように、膨大なリソースを要する。ブラフマナスパティ社の製造ラインと流通網、そして資金。
その策動はマリィが一手に引き受けた。具体的に何をしたのか、天日が知ったのは事件が片付いた後だったが、聞いた限りでは、ブラフマナスパティ社の取締役会に乗り込み、3時間の会議を40分で終わらせ、全員を青い顔にして退出したらしい。
ボルトが軍の権限をちらつかせ、マリィが技術的に逃げ道を塞ぐ。鉄槌と理詰めの二段構えだった。
ペイル・ドゥの異名は、伊達ではなかった。
蛙肉のケミカルフード。
ブラフマナスパティ社が無料配布キャンペーンと銘打って展開したそれは、市民にはありがたい施しとして受け入れられた。
ケミカルフードの安全性への不安が広がりつつある中で、大手メーカーの無料提供は、安心感の演出として申し分ない。
その中に、カウンターナノマシンが仕込まれていた。
*
開発には、おおよそ1か月半を要した。
天日にとっても、容易な仕事ではなかった。理論が正しいことと、実装が成功することの間には深い溝がある。
シミュレーションが成功したのは、ボルトが最終作戦会議を召集する前日の夜までかかった。
カウンターナノマシンの感染率はディマンドのそれを上回る102.48%。微細なエラーを差し引いても、失敗する方が難しい、そう結論付けてよい満足なデータがとれた。
天日はモニターの前で、しばらく動かなかった。
知恵の輪は解けた。少なくとも、机の上では。
マリィが「お疲れさま」と、いつもの口調で言ったが、表情を緩めることはできなかった。なぜなら、天気予報は外れるからだ。
そしてもう一つ――天日は誰にも話していないことがあった。
もしカウンターナノマシンの存在がディマンドに露見すれば、対策は容易だ。久視細胞の判別プロトコルを変更するだけでいい。
認証基準そのものを外されれば、カウンターナノマシンは無力化される。そしてその場合、ナノマシンが発動すればオリジンだけでなくヴィタルマナも殺す。
地球上から全人類が消滅する。
天日は最初からそのリスクを理解していた。理解した上で、誰にも言わなかった。
言えば全員が正しい判断をしようとする。正しい判断をしようとした結果、誰も動けなくなる。善意は、ときに最も質の悪い足枷になる。
だから隠した。
本当に隠さなければならない切り札は、隠していること自体を悟られてはいけない。
古い兵法書にそう書いてあった気もするし、安っぽいサブカルチャーで見た記憶かもしれない。どちらでもいい。優秀な知性に出自は関係ない。
翌日、天日は作戦会議に合流した。ボルトがウムコント社への突入計画を説明し、マリィがアンチプログラムの最終確認を行い、シモンとアナスタシアが装備を点検した。
天日は自分の役割――アンチプログラムの物理実行役――を淡々と引き受けた。
マリィは「無事に帰ってきなさい」と天日に命令し、アウローラは「迷いはない」と決意を表明した。
翌朝、セイヴが「いい朝だ」と言って、霧の中で、蛙たちは行進を始めた。
ご拝読いただきありがとうございます。
想像に難くない展開でありながらも、飽きずに読んでいただけるようドラマ性にも工夫してみました。楽しんでいただけると幸いです。
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