第十二章「蛙の行進」③
「蛙は前にしか跳べませんからね」
いよいよ決戦の朝を迎えたボルト隊。それぞれが想いを抱えて、引き返すことが出来ない作戦が始まる――。
翌朝、0500。
天日はちょうど身支度を済ませ、作戦室に向かうところだった。廊下の照明はまだ夜間モードで、足元だけを淡く照らしている。
地下8階には朝も夜もないが、人間の体は律儀にリズムを刻む。その証拠に、作戦開始30分前だというのに、あくびが出た。緊張感がないのではない。体が正直なだけだ。
作戦室には、すでに全員が揃っていた。皆あまりよく眠れなかったらしい。
ボルトは武装を整え、サイバネティック・フレームの左手を何度か握り込んでいた。起動確認。脈打つように明滅する。
シモンは壁に背を預け、腕を組んで目を閉じている。眠っているのではない。集中しているのだ。訓練で何度も見た姿だった。
アナスタシアはすでに完全武装。全身のサイバネティック・フレームの状態をモニターで一項目ずつチェックしている。稼働率、応答速度、出力。数値を一つ一つ確認していくその眼差しには、自然や動物を愛する普段の柔らかさはない。職業軍人の顔だ。
セイヴは眼鏡を拭いていた。丁寧に、ゆっくりと。
天日が入室すると顔を上げ、「おはよう。いい朝だ」と言った。地下にいるのだから朝の良し悪しなど判るはずもないのに、この人が言うと本当にそんな気がするから不思議だった。
眼鏡をかけ直す仕草が、どこかセイヴの癖というより儀式のように見えた。毎朝、世界の輪郭を確認し直すための。
マリィは通信機器のセッティングを終えたところだった。モニター群が彼女の周囲を取り囲み、各画面にリアルタイムデータが流れている。
隣のモニターには、アウローラの姿が映っていた。別の場所から中継で参加している。銀髪を後ろでまとめ、表情は引き締まっていた。
『おはようございます、天日」
画面越しのアウローラの声は、穏やかだった。嵐の前の、という枕詞がつきそうなほどの静けさ。
「おはようございます」
その一言に、天日は軽く頭を下げた。
「全員、聞け」ボルトの声が作戦室を満たした。全員が姿勢を正す。「作戦名――笑うなよ。つけなきゃ報告書が書けんからな――フロッグ・マーチ」
セイヴが一瞬、口元を緩めた。シモンは眉を上げた。アナスタシアは無表情のまま、かすかに首を傾げた。
「蛙の行軍、ですか」
天日が訊くと、ボルトは肩をすくめた。
「深い意味はない。こんな時勢だ。縁起がいいだろう」
「蛙は前にしか跳べませんからね」
セイヴが言った。
「本当か?」シモンが訊いた。「知らん。だが今はそういうことにしておけ」
ボルトが締めた。誰も異論はなかった。
事実かどうかより、信じた方が都合のいいことは、戦場にはいくらでもある。
「細かいことを気にするな。――よし」
ボルトはホログラフィック・ディスプレイを最後に一度だけ起動した。ウムコント社の立体図が浮かび上がり、突入ルートが赤い線で描かれる。全員がその光を目に焼きつけた。
数秒後、ホログラムが消えた。
「行くぞ」
*
0530。
ウムコント社付近、所定の場所までは一般車両を利用した。
早朝のアジアリージョンは灰色の静寂に包まれ、街灯の光が霧に溶けて滲んでいた。視界は20メートルほど。車両の通行はまばらで、人影はほとんどなかった。
天日は腰にマリィから受け取ったアンチプログラム実行用の小型デバイスを固定していた。右腰のホルスターにはハンドガン。昨晩確かめた重量が、朝になっても変わっていないことに少しだけ安心した。
五人は音もなく霧の中を進んだ。
ボルトが先頭。その後ろにシモンとアナスタシアが並び、セイヴと天日が後方を固める。
移動中の会話はない。イヤーデバイスを通じて、マリィとアウローラの通信だけが断続的に入る。
「ウルフ・ワンからディアー・ワン、ポイント・アルファ現着」
ボルトが言った。
『ウムコント社の外周にセキュリティ上の変動なし。ルート上のセンサー配置は事前データと一致。予定通りの進入が可能』
マリィの声は明瞭だった。
ウムコント社ビルの裏手に回り込んだ。
設計図に存在しない裏口は、排水施設に偽装された小さなハッチだった。セイヴが工具を取り出し、30秒でロックを解除する。
ハッチが開くと、地下へ続く狭い階段が暗闇の中に消えていた。
「フロッグ・マーチ作戦を開始する」
そう言ってボルトが先陣を切る。シモン、アナスタシア、天日の順に続いた。
『ご武運を』
イヤーデバイスからアウローラの声が聞こえた。慈愛のこもった声だった。
殿となったセイヴがハッチを戻した。霧の街が遠ざかる。
蛙は前にしか跳べない。本当かどうかは知らない。
だが今、自分たちが進んでいる方向は、一つしかなかった。
ご拝読いただきありがとうございます。
セイヴの軽快さが物語の色合いを鮮やかにしてくれるといいなと思って書いてみました。伝わると嬉しいです!
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