第十二章「蛙の行進」②
「……それは根拠じゃなくて信仰よ」
作戦前夜。ぎりぎりまで作戦を確認するマリィと、ひそかに覚悟を固めるアウローラ。
作戦室に残ったのは、天日とマリィだけだった。
マリィはまだ端末に向かっている。アンチプログラムの最終チェックだろう。天日は向かいの席に腰を下ろし、黙ってその横顔を見ていた。
「じろじろ見ないで。集中できないわ」
「すみません」
謝りつつも視線は外さなかった。マリィの指が画面上を滑る動きには迷いがない。コードの一行一行を検証し、修正し、確定していく。
エンジニアとしての彼女を見ていると、天日はいつも不思議な安心感を覚えた。
「天日くん」
「はい」
「アンチプログラムの実行手順、もう一度確認するわよ」
「お願いします」
マリィが画面を天日の方に向けた。手順は頭に入っている。それでも、最後にもう一度確認する。この人がそうしたいなら、そうする。
「デバイスとの物理接触後、認証を突破するまでの所要時間は最短で43秒。ただしこれは理想条件。実戦では外的要因が――」
「解っています。43秒。でも、60秒は見込む」
「そうね。60秒あれば十分よ。それ以上かかるようなら、プログラムの方に問題がある。その場合は――」
「マリィさん」
「何」
「大丈夫ですよ」
マリィの指が止まった。グラスデバイスの奥の目が、天日を見た。
「根拠は」
「マリィさんのプログラムが43秒で認証を突破できない確率と、明日の降水確率を比べたら、天気予報の方がよほど心配です」
「……それは根拠じゃなくて信仰よ」
「エンジニア業界では同義です」
マリィは一瞬だけ目を細めた。反論を飲み込んだのか、それとも悪くない信仰だと思ったのか。どちらにせよ、グラスデバイスを拭く手つきが少しだけ丁寧になった。
「あの日のこと、覚えてる?」
唐突だった。だが天日には、その脈絡が解った。
「覚えていますよ」
「あの時もあなた、何も言わなかったわね。傍にいただけ」
「言葉が見つからなかっただけです」
「嘘ね――言葉がなかったんじゃない。黙る方が正しいと判断したの。あなたはそういう人」
否定しなかった。マリィは立ち上がり、端末をテーブルに残して扉へ向かった。途中で足を止め、振り返らずに言った。
「明日、無事に帰ってきなさい。命令よ」
「了解です、上司どの」
「上司は前の話でしょ」
扉が閉まった。
天日は一人残された作戦室で、天井を見上げた。
窓のない部屋。天気は分からない。だが明日の朝の空がどんな色をしているか、なんとなく想像はついた。
*
夜、天日は自室で装備の最終確認をしていた。
戦闘用ゴーグル、イヤーデバイス、アンチプログラムを格納した携帯端末。そして右手にはシモンから預かったハンドガン。
半年前には握り方すら知らなかったものが、今はそれなりに手に馴染んでいる。それなりに、だ。シモンやアナスタシアのように体の一部にはなっていない。
イヤーデバイスに着信があった。表示にはアウローラとあった。
『天日。明日のこと、少しだけ』
「ええ」
『覚えていますか? 私が先日あなたに言ったこと』
「覚えてます」
『怖いです。今も――しかし、迷いはもうありません』
天日は窓のない壁を見つめた。地下には空がない。だが、空を見上げる理由がある生活は悪くないと、以前自分で思ったことを覚えている。
「アウローラ」
『はい』
「明日、マリィさんのそばにいてくれますか」
『もちろん。画面越しですが――それが私の役目ですもの』
「ありがとう。――大丈夫。やれることをやるだけです」
三度目だった。同じ言葉を、同じ相手に。だが不思議と陳腐には感じなかった。むしろ繰り返すたびに、言葉が地面に根を張っていくような感覚があった。
『ええ。――おやすみなさい、天日』
「おやすみなさい」
通信が切れた。静寂が戻る。
天日はベッドに横たわった。天井の照明を落とすと、闇の中にサイバネティック・フレームの残光のような青い線が一瞬だけ見えて、消えた。
ボルトの部屋はこのフロアの突き当たりだ。あの人も今頃、同じように天井を見ているのだろうか。
眠れないだろうな、と思った。
戦闘前夜の緊張ではない。明日の作戦そのものに、不安はなかった。ボルトの指揮は信頼できるし、シモンとアナスタシアの腕前も知っている。マリィのプログラムは完璧だ。
不安があるとすれば、もっと別のところにあった。ただし、それは明日の作戦とは関係がない。もっと遠くて、もっと長い話だ。
天日はそこで考えるのをやめた。
考えても仕方ないからではない。この手の感傷には、とうの昔に決着がついているからだ。決着がついているのに、ときどき顔を出す。厄介なのは敵ではなく、そういう類のものだった。
明日の天気予報は、霧のち曇り。降水確率20パーセント。当たるかどうかは、空だけが知っている。
当たらなかったとしても、まあ、いつものことだ。
ご拝読いただきありがとうございます。
決戦前夜の「動」の前の「静」にあたる場面です。静かな時間の中で語るそれぞれの想いに、浸っていただけると幸いです。
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