第十一章「降水確率」②
『世界評議会の諸君。私はディマンド=ツェツェ。名前に意味はないが、礼儀として受け取ってもらえるとありがたい』
世界評議会議長の失踪。物語の終結にむけた、新たな事件が開幕する……
作戦室に戻ると、空気が張り詰めていた。
アナスタシアが立ち上がっていた。グラスデバイスのレンズに何かが映っている。指が宙を走り、モニターの表示を切り替えている。彼女の動きには無駄がなかったが、その背中には明らかな緊張が走っていた。
「天日。ボルト大佐から秘匿通信」
アナスタシアの声は低く、平坦だった。感情を削ぎ落とした、過不足のないモード。(久しぶりだな、この空気は)と天日は思ったが、冗談を口にできる雰囲気ではなかった。
天日はイヤーデバイスに手を当てた。
『やあ』
ボルトの第一声は、場違いなほど陽気だった。だが二言目で、空気が変わった。
『たった今、議会から極秘の一報が入った。アルフレッド議長が失踪した』
「――失踪?」
『今朝の定例報告に現れなかった。自宅にもいない。護衛も最後に接触したのは昨晩だ。連絡がつかない』
天日はアナスタシアと視線を交わした。彼女も同じ情報を受け取っているらしく、小さく頷いた。
『議会は今、蜂の巣をつついたような騒ぎだ。だが外には出せん。議長が行方不明だと知れれば、市民がパニックを起こす前に市場が崩れる。内々に動く。セイヴには連絡した。マリィにも俺から入れる。お前たちはそこで待機しろ。追って指示する』
一方的に通信が切れた。
天日はボトルのキャップをゆっくり開け、水を一口飲んだ。冷たい水が喉を通り過ぎる感覚だけが、妙に鮮明だった。
「議長の失踪、か」
アナスタシアが呟いた。
「護衛はうちじゃないんですか」
「シフトを確認する――昨日はSCTDの担当じゃない。議会直属の護衛部隊が就いていたようです」
「それで接触が途切れている」
「ええ。護衛ごと消えたか、あるいは――」
アナスタシアはそこで言葉を切った。それ以上は推測の域を出ない。
地上では雷鳴が続いていた。地下8階にいても、ビルの躯体を伝わる微かな振動が感じ取れる。嵐に変わる――か。天日は一人そう思った。
*
ボルトが作戦室に戻ったのは、それから1時間後だった。
ほぼ同時にマリィも到着した。肩で息をしていた。グラスデバイスのレンズに雨粒が付着しており、マリィはそれを袖で拭いながら室内に入った。
「全員いるか」
ボルトが室内を見回した。セイヴとシモンの姿はない。
「セイヴは帰還に12時間。シモンは護衛シフトを引き継ぎ次第、こちらへ向かう。と」
アナスタシアが報告した。ボルトは頷き、正面のモニターを起動した。
「状況が変わった。失踪だけなら捜索の話で済む。だが――さっき、議会にこれが届いた」
モニターに映し出されたのは、音声データの波形と、テキストに変換された文面だった。送信元は匿名化されている。
「流してくれ」
低い声が、作戦室に満ちた。
声にはわずかに電子的な加工が施されていた。しかしその話し方の間合い、言葉選び――天日は、内務省タワーのコントロールセンターで聞いた声を思い出した。白いベネチアンマスクの男。
『世界評議会の諸君。私はディマンド=ツェツェ。名前に意味はないが、礼儀として受け取ってもらえるとありがたい』
ボルトの表情に変化はない。マリィはグラスデバイスのブリッジを中指で押し上げ、音声に意識を集中していた。
『現世界評議会議長アルフレッド=キングレイは、我々が確保している』
確保。拉致でも拘束でもなく、確保。その言葉の選び方が、いかにもだった。
『さて本題に入ろう。現在、世界中に流通する合成食品――いわゆるケミカルフードには、我々が開発したナノマシンが混入している。食事を通じて感染を拡げ、手元の推計では、現時点で全人類の過半数に達していることが確認できている』
天日の指先が、わずかに冷えた。
『このナノマシンを発動させることで、急性心筋梗塞を誘発することが可能だ。実験では89パーセントの割合で絶命に至った。それからもう一つ――大事なことだ――久視細胞を識別しオリジンだけに損害を与える命令が施されている』
マリィの指がコンソールの上で止まった。表情は動かない。だが、押し上げたはずのグラスデバイスに、もう一度手が伸びた。二度同じ仕草を繰り返すのは、この人が動揺しているときの兆候だと天日は知っていた。
『発動は遠隔操作で行うことができ、私の生体チップがネットワークから隔絶された場合、72時間で自動発動する。つまり、私を殺しても、通信を遮断しても、諸君が望む問題の解決には至らない』
声は淡々としていた。怒りも興奮もない。天気予報でも読み上げるような口調で、世界の命運を語っている。
『我々の要求は二つ。境界の完全廃止。そしてヴィタルマナ人権法の撤廃。猶予は3か月。これらが履行されない場合、ナノマシンを発動する。――以上だ』
音声が途切れた。作戦室に無音が落ちた。地上の雷鳴さえ、この瞬間だけは遠のいたように感じられた。
天日の脳裏に、半年以上前のホテルの一夜が蘇った。オリジン区画で見た深夜のニュース――原因不明の連続心筋梗塞。あの時点で、すでに実験は始まっていたと考えるべきだ。
最初に口を開いたのはマリィだった。
「……合成食品を経由した散布。ケミカルフードは全リージョンで流通しているから、理論上は確かに到達可能ね。久視細胞の判別がナノマシンレベルで実装できているなら――技術的には、嘘ではないわ」
「だが検証がいる」
ボルトが言った。
「ええ。まずは声明の真偽を確認しないと。ナノマシンの実在、感染率の推定。最低でもこの二つは確認しないと、対策の方向性が定まらない。サンプルを回収して解析する必要がある」
「やれるか」
「やるしかないでしょう」
マリィの声に迷いはなかった。平時の皮肉混じりの口調はどこにもない。エンジニアの目をしていた。課題が定義された瞬間に、思考が自動的に解法へ向かう。天日はその切り替えの速さに、改めて敬意を覚えた。
「大佐。議会の動向は」
アナスタシアが訊いた。
「まだ何も。だが、想像はつく。議長という求心力を失った議会が、ヤツの要求に正面から反論できるとは思えん。日和見の連中が交渉に傾くのは時間の問題だ」
ボルトは顎に手を当てた。その表情には、怒りでも焦りでもない、もっと冷たい種類の覚悟が滲んでいた。
その予想は、翌日には現実のものとなった。
ご拝読いただきありがとうございます。
これまで演出してきた、メインキャラクターたちが一気に絡み合っていく、その終盤に向けた、次の山場の機転になる物語になっています。
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