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第十章「在り処」

「残念ながら、お子さまには――魂が宿っていませんでした」

事件の数年前――天日(アメノヒ)とマリィが初めて出会ってからの数か月。二人の間には、この世界のゆがみそのものが揺蕩っていた。

 たっぷりと湿気を孕んだ雲が、夜の残滓を溶かしながら低く垂れ込めている。ヴィタルマナ特区の東端にある農業区画には、露を含んだ土の匂いが漂っている。ビニルハウスの骨組みに朝靄がまとわりつき、遠くの給水塔だけがぼんやりと白かった。風はない。静かな朝だった。


「マリィ=コアィよ、初めまして」


 短い自己紹介だった。声には不要な抑揚がなく、むしろそのことが聴く者の背筋を正させる類の響きを持っていた。


 ブラフマナスパティ社食品研究開発部門の新しい責任者として、マリィ=コアィがヴィタルマナ特区の現場拠点に足を運んだのは、赴任からわずか3日後のことだった。


 軍事部門から子会社の食品研究開発部門への異動。――それ自体は珍しい話ではない。親会社リグ・ベータ社は政府お抱えの軍事企業であり、傘下の事業は多岐にわたる。異動の理由も表向きは人事ローテーションの範疇に収まるものだった。


 ただし、マリィの腹部がわずかに膨らみ始めていることに気づく者がいれば、事情の輪郭は自ずと見えてくる。妊娠を理由に前線を退いた。――正確には、退かざるを得なかった。用意された椅子だった。


 とはいえ、マリィにとって椅子の出自はさほど問題ではない。問題は、座った以上そこで何を成すかだった。軍事畑を歩んできた人間にとって、フード産業は専門外もいいところだ。しかし、だからこそ成果を出さなければ戻る席がなくなる。経済的に困窮することはない。――オリジンである限り、生活は十全に保障されている。けれどマリィにとって仕事とは生活の手段ではなく、生きることそのものに近かった。それを失えば、マリィ=コアィという人間の大半が消える。


 だからこうして、わざわざ特区まで来ていた。オートメーション化が進んだとはいえ、研究、栽培管理、品種選定、商品開発の最終工程――現場には依然として人の手が入る。自分の部門に属するヴィタルマナのスタッフを知ること。それが最初の一歩だとマリィは考えていた。


 効率や数字よりも先に、人を見る。モチベーションがプロジェクトの成否に直結することは、軍事の領域でも食品の領域でも変わらない。信頼関係は情報の精度を上げ、確認に要するコストを下げる。


 マリィの眼前には15人ほどのヴィタルマナが集まっていた。整列、と呼ぶにはいささか自由に過ぎる布陣だった。物見遊山よろしく集まってきた者たちが、コーヒーを啜り、髪を手繰り上げ、隣同士で何やら囁き合っている。マリィの挨拶を聞いているのかいないのか判然としない。


 オリジンの傲慢に辟易するヴィタルマナは少なくないと聞く。マリィは彼らの視線の底に猜疑の色を読み取ろうとした。読み取ろうとしたこと自体が、あるいは偏見の証左だったのかもしれない。


「わざわざ現場までお越しいただき、ありがとうございます。コアィさんとお呼びしてよろしいでしょうか」


 声が飛んできた。列の端で、ただ一人、気をつけの姿勢を取っている青年だった。


 ――ヴィタルマナに青年という語を充てることの滑稽さに気づき、マリィは上がりかけた口角を引き戻した。寝癖のついたやや長めの散切り頭。前髪が目元にかかり、その隙間から赤みを帯びた猫のような瞳が覗いている。


「あなたは――エゼン主任ですね。マリィで結構よ」


 グラスデバイスに人相照合の結果が浮かぶ。事前にインストールしておいたデータベースと一致した。


「では、マリィさん。改めまして――天日(アメノヒ)=エゼンです。お会いできて光栄です」


 天日(アメノヒ)は一礼し、屈託のない笑みを浮かべた。その笑顔には一片の警戒もなかった。マリィはそのことに少しだけ面食らった。


「アメノヒ、と発音するのね。日本リージョンの古語は難しくて――ごめんなさい。それから、よろしく。天日(アメノヒ)くん」


「はい、よろしくお願いします。ここにいるメンバーのほとんどは本社の方とお会いするのが初めてで、実は昨日から皆、浮足立っちゃってるんです。そのうち打ち解けていくと思いますので。――すみません」


 天日(アメノヒ)はそこで振り返り、思い思いの姿勢でいるメンバーに声をかけた。


「ほら皆、ちゃんと挨拶を聞いて」


 諭すような、しかし咎めるでもない声だった。するとある者はカップを机に戻し、またある者は私語を止め、天日(アメノヒ)に倣うように気をつけの姿勢を取ってマリィに視線を向けた。それぞれに頭を下げ、直るなり照れたように笑った。


 マリィも釣られるように笑った。思い返せば、ヴィタルマナと直に接する機会はこれまでほとんどなかった。仕事柄、生態に関する知識は豊富なほうだったが、データと実物のあいだには埋まらない距離がある。


(こういうものか)


 敵意も媚びもない。ただそこにいる人間の――いや、人間と呼ぶことすら議論の余地があるのだが――温度のようなものを、マリィは受け取った。


 *


 それ以来、マリィは頻繁にヴィタルマナ特区へ足を運ぶようになった。


 最初は業務上の必要に駆られてのことだった。現場の状況を把握し、栽培工程を理解し、スタッフの技術水準を確かめる。しかし訪問を重ねるうちに、目的の輪郭は緩やかに変わっていった。名前を覚え、顔を覚え、癖を覚えた。誰がどの品種に詳しく、誰の手つきが丁寧で、誰が朝に弱いか。そうした些末な情報の堆積が、いつしか関係と呼べるものの土台になっていた。


 天日(アメノヒ)との会話も自然と増えた。業務の報告に始まり、品種改良の方向性、土壌のコンディション、出荷スケジュール――そうした話題がひと段落すると、天日(アメノヒ)は決まって何か別の話をした。最近見つけた調理法のこと。栽培区画で聞いた虫の鳴き声のこと。きのこの菌糸が描く模様が美しいという話。取り留めのない雑談だったが、天日(アメノヒ)はそれらを語るとき、仕事の話をするときとまったく同じ熱量を持っていた。区別がないのだ。マリィにはそれが新鮮だった。


 マリィの腹部は月を追うごとに膨らんでいった。体の変化は隠しようがなく、特区のスタッフたちもやがてそれに気づいた。


「マリィさん、今日は座っていてください。報告書は僕が持っていきます」


 天日(アメノヒ)がそう言えば、他のメンバーも口々に声をかけた。椅子を引く者、飲み物を用意する者、なぜか折り紙で作った小さな動物を机の上に置いていく者。マリィは「過保護すぎる」と苦笑したが、制止する気にはなれなかった。


 生殖行為そのものが希薄な彼らにとって、マリィの妊娠は物珍しかったのだろう。腹部に手を当てていいかと恐る恐る訊いてくる者もいた。マリィは「どうぞ」と言って手を添えさせた。胎動を感じた相手が目を見開き、隣の同僚を呼びに走っていく。その光景を眺めながら、マリィは不思議な心地がした。


 産まれてくる子に父親はいない。少なくともマリィ自身は、そう決めていた。


 マリィにも父親はいた。しかし母親はいなかった。父は研究者で、マリィが物心つく頃には家にほとんどおらず、稀に顔を合わせても交わす言葉は少なかった。愛情がなかったわけではない。――おそらく。ただ、それを確かめる術をマリィは持たなかった。父はスポンサーのようなものだった。資金を提供し、生活の基盤を保障し、それ以上の干渉はしない。マリィにとってはそれで十分だった。


 幼い頃から知的好奇心だけが際限なく旺盛だった。趣味は勉強と調べもの。没頭すれば気づけば朝になっている。寂しいと感じたことがない。正確には、寂しさを覚える前に、もっと面白いものが常に目の前にあった。


 だからマリィが単身で子を育てようと決めたことに、本人の中では何の矛盾もなかった。父親という存在がなくとも、子は育つ。自分がその証明――のはずだった。


 腹の中で育つ命は、マリィの理屈を少しずつ侵食した。


 最初の胎動を感じた日のことを覚えている。データとしては知っていた。妊娠何週目で胎動が始まるか、それがどのような感覚として知覚されるか。しかし実際にそれが自分の腹の内側で起きたとき、マリィの思考はほんの数秒、完全に停止した。知識と体験のあいだに横たわる溝の深さを、マリィは初めて知った。


 以来、変化は緩やかに、しかし確実に進んだ。ふとした瞬間に腹部に手を当てている自分がいた。名前を考えている自分がいた。子守唄というものを検索している自分がいた。マリィ=コアィという人間の輪郭が、もう一つの輪郭を内包することで、微かに――しかし決定的に――変形していく。


「不思議なものね」


 ある日、天日(アメノヒ)にそう漏らした。栽培区画の片隅で、収穫したばかりのトマトを選別する作業のあいだだった。


「何がですか」


「私はずっと、一人で完結していると思っていたの。仕事があって、生活があって、それだけで十分だと。でも最近、この子のことを考えると――なんていうのかしら。自分の中にもう一人、別の私がいるような気がするのよ」


 天日(アメノヒ)は手を止めなかった。トマトの表面を布で拭き、傷の有無を確かめ、籠に収める。その動作を続けながら、静かに聞いていた。


「それは――良いことなんじゃないですか」


「良いかどうかは分からないわ。ただ、想定外だった。私の計算には入っていなかった」


「計算に入っていないことって、大体そういうものですよ」


 天日(アメノヒ)は籠からトマトを一つ取り上げ、マリィに差し出した。


「食べますか。今朝採れたやつです」


 マリィはトマトを受け取り、一口齧った。甘かった。甘さが喉を通り過ぎたあとに、かすかな酸味が追いかけてくる。目を細めたマリィに、天日(アメノヒ)は満足そうに頷いた。


 *


 出産の日が来た。


 予定日より3日早い朝だった。マリィは境界(ゲート)近くの総合医療センターに搬送され、処置は滞りなく進んだ。再生医療と先端技術が標準化されたこの時代において、出産に伴うリスクは極めて低い。手術室の照明は白く、機材は静かに稼働し、すべてが予定通りに――進んだ。


 産声。マリィは朦朧とした意識の中でその声を聞いた。小さく、しかし確かな声だった。力強さよりも、世界に触れたことへの戸惑いのほうが勝っているような泣き声だった。


 医師が近づいてきた。マリィの傍らに立ち、黙って立っていた。その間が持つ意味を、マリィは瞬時に理解してしまった。正常な出産であれば、医師は微笑みとともに言葉をかける。言葉を失っている理由は一つしかない。


「残念ながら、お子さまには――魂が宿っていませんでした」


 医師にとっては単なる通過儀礼。慣例的な文句だった。ヴィタルマナがオリジンの魂を食らって生まれ落ちるという迷信の残滓。現代においてはほとんど形骸化した無意識の迫害。


 久視細胞の発現を告げるための――ただの手続き。マリィは知っている。研究者として、そのメカニズムを誰よりも理解している。0.1パーセントの確率。突然変異。遺伝的要因は未解明。親の意思も、行動も、まったく関係がない。


 知っていた。


 知っていたはずだった。


 声が出た。自分のものとは思えない声だった。叫びとも嗚咽ともつかない音が、喉の奥から制御を離れて噴き出した。呼吸の仕方を忘れた。視界が歪み、白い天井が溶け、暗転した。手足の感覚が遠のいていく。体ごと深い穴に呑まれるように、マリィは意識を手放した。


 *


 目を開けたとき、マリィは一般病室のベッドの上にいた。


 いつからそこにいたのか分からなかった。頭の中が空洞になっていた。思考の糸がすべて断ち切られ、何かを考えようとしても、掴むべききっかけがない。天井の照明が眩しい。視線を逸らした先に窓があり、窓の外の夕焼けだけが、自身の存在を確かめる唯一の手がかりだった。


 何気なく手が腹部に動いた。膨らみが、まだ僅かに残っている。しかし、そこに在ったものの気配は――もうなかった。


 医師の言葉が蘇った。


 その瞬間、全ての混沌が前に倣えと整列し、扁桃体の反応も海馬の電気信号も悉く整理され、マリィは冷静さを取り戻した。取り戻したからこそ、暗く渦を巻く感情の正体が識別できなかった。悔しさとも寂しさとも違う。怒りでもない。名前のつけようがない黒が胸腔を満たし、出口を求めて壁を叩いている。


 あの子はヴィタルマナだった。それは事実だ。事実であることと、この感情のあいだに横たわる距離を、マリィは測ることができなかった。


 行き場のない気持ちを咀嚼するのに、どれほどの時間がかかったのだろう。夕焼けの色が深くなり、橙が朱に変わり、やがて薄紫に滲んでいった。


 ふと、気配を感じた。あるいはずっと在った。


 マリィが視線を動かすと、天日(アメノヒ)がベッドの傍らに立っていた。


 夕日が斜めに差し込み、天日(アメノヒ)の顔の半分を翳らせていた。前髪の隙間から覗く赤みを帯びた瞳が、沈みゆく陽を受けて、夕焼けの空に浮かぶ金星のように光っている。柔らかな笑みだった。慰めでも同情でもない。ただそこに在るという、それだけの表情だった。


 マリィは不思議と呼吸が楽になるのを感じた。胸腔を満たしていた名前のない感情が、消えたわけではなかったが、ほんのわずかに――波が引くように――静まった。


「子供にね」


 涙が零れないように、目元を腕で覆った。隠せたのは涙だけだった。声の震えは隠しようがなかった。


「魂が宿ってないって――」


 天日(アメノヒ)は何も言わなかった。頷きもしなかった。慰めの言葉も、励ましも、事実の説明も、何一つ口にしなかった。

 ただそこに立っていた。夕日が落ちて病室が薄暗くなっても、天日(アメノヒ)はそこに立っていた。


ご拝読いただきありがとうございます。

章まるごとの長文掲載になりますが、筆者自身もとても好きな物語です。切なさに隠れる感動をお届けできていたら幸いです。


↓Instagramでキャラクタービジュアル公開中

https://www.instagram.com/vitalmana2168/


↓TikTokでショートムービー公開中

https://www.tiktok.com/@sjrhsjm/

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