第九章「祈りの水深」①
「人のアイデンティティというものは、環境の刺激を受けて常に変容していくものです」
アジアリージョン最大のハイパービルディング。トクズタワーの前で、再びあった天日とアウローラ。ヴィタルマナの持つ力が明らかに……
早朝の細雨は上がり、空には薄い雲が一枚だけ残っていた。雲の切れ間から差す陽光が、濡れた路面に白い筋を引いている。風はない。街路樹の葉に溜まった雫が、思い出したように地面を叩いた。
SCTDが発足して、一月あまりが経っていた。
天日は引き続きボルトの指揮下に置かれていた。とはいえ実戦要員にはほど遠く、マリィたちが作戦の骨子を練り上げている間、天日に割り当てられたのは膨大な座学だった。
軍と警察の統合防衛ネットワーク。境界の通信プロトコルと物理仕様。内務省が管轄する広域防衛システムの階層構造。一つの疑問を解けば、その奥に二つの新しい疑問が口を開けて待っている。
正直に言えば――楽しかった。設計思想の随所にマリィの残り香が読み取れる。冗長性の確保と効率性の追求が、矛盾せずに同居している。ペイル・ドゥと畏れ混じりに呼ばれる所以が、コードの行間から滲んでいた。
シモンもまた、約束を守っていた。任務の合間を縫い、天日に稽古をつけた。わだかまりが消えたわけではないだろう。だが会う回数が増えるにつれ、声から硬さが少しずつ抜け落ちていった。ヴィタルマナとしてではなく、天日=エゼンという個人として接しようとする不器用な努力が伝わってくる。軍人になった経緯も、中東リージョンで経験した凄惨な記憶も、シモンはぽつぽつと語ってくれた。
訓練の甲斐があり、天日は一通りの銃火器の取り扱いを習得した。格闘術についてはどうやら筋がいいらしく、シモンが素直に褒めた。あの男がお世辞を言う場面を天日は想像できなかったから、それは何よりの自信になった。
入った当初は、自分に何ができるのかと考えた。しかし、やるべきことが次から次へと降り積もり、感傷に浸る隙はあっという間に埋まった。
そして今日――果たさねばならないことがある。アウローラとの再会だった。
*
「いいか。アウローラのことは上層部には伝えていない。知っているのは俺たちだけだ」
ボルトの言葉が脳裏をよぎる。
「シン・シティなる人権団体の本質が解るまでは何とも言えんが、少なくとも俺は、水面下では協力的な関係を築くべきだと考えている。聡明そうな子だ、こちらの立場も理解してくれるだろう」
天日にはもう一つ、気にかかっていることがあった。防衛システムを改竄した内通者の存在だ。マリィによれば、あのシステムの運用構造上、一人や二人の犯行で起こせる規模の書き換えではないという。しかし現段階で発覚しているのは、件の事務次官ほか数名が行方を眩ませたという事実だけだ。テロリストたちは、どのようにして内務省の職員を何人も篭絡し、今なお潜伏させおおせているのか。
他者を感化する力。――その言葉が、頭の隅にちらついて離れなかった。
*
「ご連絡くださると思っていましたわ」
アウローラとはすんなり連絡がついた。落ち合う場所として彼女が指定したのは、トクズタワーの正面エントランスだった。約束自体は以前から交わしていたとはいえ、まさかこの繁華街のただ中を選んでくるとは思わなかった。
トクズタワー。地上260階建て、高さおよそ1500メートル。アジアリージョン最大のハイパービルディングだ。周囲には多種多様な商業施設が建ち並び、人工の湖には浮島がいくつも係留され、上空を行き交う宣伝ドローンさえ街を彩る飾りのように見える。何か特別な祝典でも開かれているかのような華やぎだった。
仕事以外でオリジン区画に足を運ぶことのない天日にとっては、目まぐるしさそのものに酔いそうだった。
「それじゃあ、行きましょうか」
約束の時間からわずかに遅れた天日を、アウローラは笑顔で迎えた。言うが早いか天日の手を取り、トクズタワーの中へと引いていく。
「す、すみません。こういうところは初めてで――」
アウローラは気にする風もなく一直線にエレベーターへ向かった。ヴィタルマナ特区で会ったときの差し迫った空気はどこにもない。無邪気な少女のような足取りだった。
「行ってみたいと思っていたの」
指定されたのは180階。40階を階段で駆け上がった記憶のある身としては途方もない高さだが、エレベーターはものの数十秒で到着した。
「アクアリウムがありますの」
扉が開くと同時に、アウローラが言った。
「アクアリウム?」
「そう、大きな水槽。――ほら」
アウローラがフロアの入口に立つと、自動扉が開いた。室内であるにもかかわらず、眩い光が差し込んでくる。天日は反射的に目を細めた。
やがて視界が開けると――真っ青な海が眼前に広がっていた。壁という壁が、天井が、足元の床までもが、すべて水で埋め尽くされている。
「素敵。まるで私たちも、海の生き物になったよう」
フロアへ踏み出したアウローラの声が、水の青に溶けた。継ぎ目のない全面ガラス張りのトンネルが、緩やかにうねりながら奥へ続いている。本当に床があるのかどうかさえ怪しい気がして、天日は溺れやしないかと足元を確かめながら踏み入れた。
「よかったですわ、喜んでいただけて。でも、わざわざ空中に海を作るなんて、お魚たちにとっては迷惑だったかしら」
アウローラが振り返り、微笑んだ。
「そうですね……とにかく、驚いてはいます」
感想に迷った天日は、そう答えるのが精一杯だった。
「天日、見てください。ほら――」
アウローラが天に指を突き上げた。天井と呼ぶべきかも分からないガラスの向こうに、色鮮やかな小魚の大群が、流星群のようにこちらへ降り注いでくる。ぶつかる――天日はとっさに身を伏せた。当然のことながら、魚たちはトンネルの外壁に沿って迂回し、足元の下へ通り抜けていった。
「――驚いた」
ゆっくりと身を起こす天日を見て、アウローラは声を上げて笑った。
「私たちも、あんなふうに自由に泳ぐことができたら、きっと楽しいのでしょうね」
魚たちは本物の海を泳ぐかのように悠然としていた。床も天井も外壁さえも、目視では判別がつかない。ここが地上180階であることなど、到底信じられなかった。
二人はガラスに浮かぶサインに従ってゆっくりと歩いた。アウローラは海洋生物に詳しいようで、道すがら種の名や習性をあれこれと教えてくれた。海中を人魚に案内されているような、またとない体験だった。
どのくらい歩いただろうか。蛇行するトンネルのせいで体感はずいぶん引き延ばされていた。周囲に他の客がいないのを確かめて、天日は足を止めた。
「アウローラ――その、感化の力について教えてほしい」
アクアリウムは確かに美しい。だが今は、果たすべき役割があった。
「ええ。そのつもりですわ」
アウローラは歩みを止めて振り返った。微笑んでいたが、先ほどまでとは何かが違う。瞳の奥に、芯のようなものが据わっていた。
「折角ですので、歩きながらお話ししましょうか」
天日が歩み寄ると、アウローラはその真横に並んだ。二人は再び進み始めた。
道すがら、アウローラは天日の問いに一つずつ答えた。
感化の力は、要領さえつかめば暴発するようなものではないという。意識による制御が可能で、ヴィタルマナ特区でのあのとき制御ができなかったのは、それどころではなかったからだと彼女は言った。強度は受け手によっても異なる。ただ、念じる程度では相手の行動を無条件に操るような力はない。せいぜいが「そんな気がしてきた」と感じさせる程度だ。しかし、前後にかける言葉次第では行動を促すことは十分にできるとも言った。
アウローラ自身は、意図して恣意的な思いを向けたことはないと断った。だが同時に、目の前の相手をひとときの間操る程度であれば可能だ、とも付け加えた。
同じ力を持つ者に会ったことはないという。天日がそうかもしれないと知って親近感を覚えた、と。それほどに希少な事例なのだろう。力の強度に個人差があるかどうかは、確認の取りようがなかった。
「人のアイデンティティというものは、環境の刺激を受けて常に変容していくものです。その意味において、とりわけ強力な影響を与えてしまうことは確かでしょう。けれど、たった一度の接触でその方の人生観をがらりと変えてしまうような効果は期待できません。――しかし、交渉の場で意見をまとめていくような使い方であれば、非常に効果的だと考えられます」
そして最も重要な点。――本心でないことは、伝わらない。たとえば「死にたい」といくら強く念じたところで、念じる本人にそのつもりがなければ相手には伝播しない。
「ねえ、試してみましょうか」
エレベーターのエントランスが視界の先に見え、アクアリウムも終盤に差しかかった頃だった。
「それが一番早いですわ。天日、今この瞬間に思い浮かぶもので、心から願えることを一つ決めて――私に強く訴えかけてみてください」
そう言ってアウローラは、天日を下から覗き込むようにして、にこりと笑った。
「いいですか、真剣に」
天日は今すぐにでも臨場感を持てる願いを一つ選び、心の中で強く念じた。アウローラが鋭い目を向けてくる。天日は祈るように指を組み、頭の中がそれだけで一杯になるまで繰り返した。
――すると、アウローラは「そう」と、意地悪げに笑った。
思いは見事に伝わったらしい。だが、何を選んだのかを悟られた気恥ずかしさが遅れてやってきて、天日は選択を少し後悔した。
「ふふ、いいですわね。私も、お腹が空いてまいりました。そうですね、よい時間ですし――お昼にしましょうか」
アウローラはそう言うと天日の手を引き、エレベーターへ急いだ。
ご拝読いただきありがとうございます。
アウローラの持つ年齢相応の一面と、不相応な覚悟。そのグラデーションに、キャラクターの魅力を感じていただけると嬉しいです。
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