第七章「交わる掌」①
「争いによって得た平等は、争いによって失われます。人類は再び歴史を思い出さなくてはなりません」
アウローラの正体。そしてヴィタルマナの持つ特殊な力。それぞれの立場と想いが明らかに!
空には雲がさしかかり、空気は湿気をはらんでいた。
アウローラが指定したのは、オリジン向けの観光ホテルだった。ヴィタルマナが足を踏み入れるような場所ではない。
無人タクシーの後部座席で、三人は黙っていた。
アウローラは窓の外を見ている。天日は隣に座るアナスタシアの気配を肌で感じながら、先刻の光景を反芻していた。
複数の男たちに取り囲まれていたアウローラ。不審な会話。全身にサイバネティック・フレームを施したアナスタシアの介入で男たちが逃亡するまでの、あの数分間のこと。
車内の沈黙は、誰かが何かを切り出すには重すぎた。
天日はアウローラの横顔をちらと見た。銀髪がガラスに映り込み、街灯の光を受けて淡く揺れている。
表情は読めない。だが先刻の騒動のなかで見せた毅然とした態度と、今の静けさのあいだに、何かが横たわっていることだけは察せられた。
*
ホテルに着くと、アウローラはフロントを素通りした。
迷いなく廊下を進む。常宿なのだろう。エレベーターのなかでも会話はなかった。最上階で扉が開いた。
広い部屋の窓の外に、アジアリージョン中央区の街並みが一望できる。雲の色が刻一刻と重くなり、闇がさらに深さを増していた。
「どうぞ、おかけになって」
アウローラはソファを示すと、自分はキッチンへ向かった。
天日とアナスタシアは並んで腰を下ろす。
アナスタシアの右手がホルスターの上で止まっているのを、天日は視界の端で捉えたが、何も言わなかった。
湯が沸く音。カップに注がれる音。やがて三人分のティーカップが、テーブルに上に並んだ。
「どうぞ」
青々としたダージリンの香りが立ち昇る。
天日はカップを手に取り、香りを吸い込んだ。複雑に絡まった思考のあいだを、その清涼な匂いがすっと通り抜けていく。
向かいに座ったアウローラは背筋を伸ばしたまま、カップに手をつけなかった。
天日が話を切り出すのを待っている。その姿勢に、先刻の男たちに向けていたのと同じ静かな覚悟が滲んでいた。
天日はカップをソーサーに戻した。
いくつかの言葉が頭のなかで順番を争い、結局もっとも漠然としたものが口をついた。
「先ほどの方々は?」
瞬き一つない。灰色の瞳が、天日の目を真っ直ぐ捉えていた。
「彼らは――あなたがたがテロリストと呼ぶ者たちです」
声に震えはなかった。淡々として、しかし諦観でもない。事実を事実として差し出す態度だった。
隣でアナスタシアの気配が逆立った。
「あなたも――?」
静かな声だった。だがその指がゆっくりとグリップへ巻き付くのを、天日は見逃さなかった。
咄嗟にアナスタシアの手首を掴む。サイバネティック・フレームの表層が掌に硬く触れた。
アウローラはそっと瞼を閉じた。
胸の奥に溜めるように、深く息を吸う。
それから開いたグレーの瞳が、真っ直ぐに天日を捉えた。
「私もまた、この世界を正そうとする者の一人です」
アナスタシアが天日の手を振り払った。ソファから立ち上がり、ハンドガンを抜く。銃口がアウローラの額を指した。
部屋の空気が張り付く。天日は立ち上がらなかった。
「聞きましょう」
穏やかに――しかし揺るぎなく言った。
アナスタシアに視線を向ける。彼女の緑色の瞳には警戒と苛立ちが同居していたが、天日の表情を確認すると、わずかに歯を食いしばり、ゆっくりと腰を下ろした。
銃はホルスターに戻さない。膝の上に置いたまま、視線をアウローラに据えている。
「すみません。記録しても構いませんか」天日はアウローラに尋ねた。「それがきっと、あなたにとっても――」
「構いません」
天日はイヤーデバイスに触れた。録音が始まる。
アウローラはティーカップを手に取り、一口含んでから話し始めた。
「私はヴィタルマナです。しかし、あなたがたの仰るテロリストとは――少なくとも今は、関係がありません」
天日はわずかに目を見開いた。彼女をオリジンだと思い込んでいた。最上階のスイートに常宿するような人物が、まさかヴィタルマナだとは。
アウローラは天日の反応を見て、小さく頷いた。
「公表はしておりませんが、私は『シン・シティ』という人権団体を組織しています。先ほどの者たちは、元々そこに籍を置いていた人間です」
聞き覚えのある名だった。ヴィタルマナの人権を巡る草の根運動は世界各地で行われている。
天日はその手の活動に関心が薄く、ニュースで見聞きする程度だったが、いくつかの支援団体の中に「シン・シティ」の名があった記憶はある。
「天日」
アウローラが名を呼んだ。ただ名前だけを。
「あなたはあの夜、彼に会いましたね」
天日の脳裏に、内務省タワー40階の記憶が蘇った。暗闇のなかで対峙した、白いベネチアンマスクの男。
「マスクの男――」
「やはりそうでしたか。彼が言っていたのは、おそらくあなたのことですね」
「マスクの男が、僕のことを?」
話が逸れることは承知していた。だが聞かずにはいられなかった。
「ええ。テロの後、彼から連絡がありました」
アウローラはティーカップをソーサーに置いた。
「彼の名はディマンド=ツェツェ。――かつてシン・シティに参画していた一人です」
「もしかして――あなたはあの日のテロを、知っていたのですか」
天日はあの夜のことを思い出していた。内務省タワーの近くで、雨に濡れていた銀髪の女性。
「私のことはアウローラで構いません」
言葉を区切り、アウローラは視線を落とした。
「残念ながら私には知り得ませんでした。――いいえ」彼女は言い直した。「止められなかった、と言うべきでしょう。彼らが私のもとを離れていった理由を、もっと深刻に受け止めるべきでした。だから私はあの夜、彼のもとに向かおうとしていました」
「そこに、僕たちが」
「ええ。しかしそれも、私心に過ぎないことは解っておりました」
自責の響きがあった。だがそれを湿った感傷に変えることを、この女性は自分に許していないようだった。
「でも、なぜ彼らがあなたを? 先ほどの様子では――あなたを求めているように感じました。盗み聞きしていたことは、謝りますが」
天日は率直に切り出した。アウローラとテロリスト。
目的は同じだが方法論の違いによって袂を別った。散り散りだった点が線で結ばれ、話の輪郭は見えてきた。
だがまだ真贋を見極めるには早い。
「ヴィタルマナには、オリジンにはない特殊な力があるのをご存じですか」
アウローラは天日の謝罪を受け流し、話題を変えた。
脈絡のない問いに、天日は少し考えた。
「――たとえば免疫力が高いとか寿命が長い、といったような」
だが、それならば「ご存じですか」と問う意味がない。天日は口を閉じ、続きを待った。
「いえ、それとは異なる――」
アウローラの声がわずかに低くなった。
「――呪いの力」
その一語に、部屋の空気が微かに軋んだ。
天日は表情を動かさなかった。アナスタシアが膝の上の銃に指を添えたまま、眉根を寄せている。
「順を追ってお話しします」
アウローラはティーカップに手を伸ばしたが、すでに中身は冷めていた。それでも一口含み、言葉を選ぶように間を取った。
「かつてあるリージョンで、時代を沸かした一人のミュージシャンがいました」
天日は黙って聞いた。
「ある年、彼は過去に犯した自身の罪を公にし、その葛藤と悔恨を込めた楽曲を発表しました。もちろん、彼はその後逮捕されましたが、楽曲は世界中の人々のもとへ届きました。――そのような話は長い歴史のなかでは珍しくもありません。しかしその年、きわめて興味深いデータが確認されたのです」
「自首件数が例年の倍近く跳ね上がったのです。当時の調書によれば、自首した犯罪者の4割以上が口を揃えてこう述べたそうです。――『彼の歌を聴いて、自首しようと思った』、と」
アウローラは天日の反応を窺い、続けた。
「それだけのことだとお思いでしょう。けれど同様の事例は形を変えて複数確認されています。そしてそれらの発端となった人物は――例外なくヴィタルマナでした」
「だから、それがどうしたというのです。音楽家や芸術家の類であれば、ヴィタルマナがいることはさほど珍しくもない」
アナスタシアが苛立ちを隠さず言った。アウローラはそれを一瞥し、わずかに頷いた。
「ヴィタルマナのなかには、ごく稀に、他者を感化する特別な力を持つ者がいます」
アウローラの声は静かだったが、一語一語に芯があった。
「本心からの願い、想いを強く念じることで――たとえ相手の心にないようなことであっても、相手が自ら望んでいたかのように錯覚させ、その気にさせてしまう」
沈黙が落ちた。ダージリンの香りはもう空気に溶けて判別できなくなっていた。
「――にわかには信じられません」
アナスタシアが目を伏せて言った。
しかし天日には、思い当たる節があった。内務省タワーでマスクの男――ディマンドと対峙したあのとき。不意に躊躇した、あの瞬間。
アウローラは天日の沈黙をくみ取った上で、言葉を継いだ。
「お疑いになる気持ちはお察しします。しかし、残念ながら事実です。30年前、なぜオリジンがヴィタルマナの人種隔離政策に踏み切ったのか。その理由が公にされることは決してありませんが――この呪いの力を恐れたからに他なりません。議会は私たちヴィタルマナの存在を、AWOよりはるか以前から認知していたのです」
「そんな――」
アナスタシアの呟きが途切れた。
「信じていただけなくとも仕方ありません」
アウローラは淡々と続けた。
「しかしディマンドがこの力を持つ者を求めていることは確かです。思えば彼がシン・シティに参加したのも、そのためだったのでしょう」
天日は口を開きかけ、やめた。問いのかたちにする前に、答えが来た。
「ええ――私にも、哀しいかな、その力が宿っています」
どこまでも平坦だった。自嘲でも告白でもない。最初に見せたあの姿勢――感情を挟まず、ただ差し出すだけの態度を、彼女は崩していなかった。
「そしてディマンドは、あなたにもその片鱗を見た――そう言っていました」
天日は何も答えなかった。
表情も変えなかった。ただ、胸の奥で何かが小さく軋むのを感じた。
マスクの男があの場で見せた不自然な躊躇。あれが、そういうことだったのか。
「彼はまた事を起こすでしょう」アウローラの声がわずかに強まった。
「私は次こそ止めねばなりません。争いによって得た平等は、争いによって失われます。人類は再び歴史を思い出さなくてはなりません。ディマンドも。オリジンも。――そして私たちも」
言い切ると、アウローラはカップに残った冷めた茶を飲み干した。
窓の外に目を移す。
いつの間にか雨が降り出していた。大粒の雫がガラスを伝い、街の灯りを歪ませながら滑り落ちていく。
三人とも黙っていた。雨音だけが部屋を満たしている。
天日はアウローラの横顔を見ていた。窓に映る銀髪のシルエット。
呪い――彼女はそう呼んだ。
その言葉の重さを、ゆっくりと咀嚼していた。
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メインキャラクターそれぞれの立場、想い、それらがこれからどう交錯していくのか。ご期待いただけると幸いです!
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