50 都合の良い様に捉えるのが人情
「何か飲むか?」
ソファに座る真里に向けて紀夫は訊いた。
「冷たいものを。」
「麦茶しかないが、いいか?」
「はい。」
紀夫は台所に行くと冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、コップに注いだ。ペットボトルを冷蔵庫に仕舞うと、コップをトレイに乗せずにそのまま手に持ち、台所を出た。リビングに入るとローテーブルにコップを置いた。
「ありがとう。」
真里はそう言ってコップを手に持ち、ゴクッゴクッと麦茶を飲んだ。
紀夫は真里の右隣に座ると、飲みかけていたコーヒーが残るマグカップを口に当てた。コーヒーは既に冷めていて生温い。紀夫は一気に飲み干した。
紀夫がマグカップをローテーブルに置いたのを確認すると、真里は紀夫の胸に抱きついた。
「煙草の匂い……」
真里はスンスンと嗅ぐとうっとりとした表情になった。
「臭いだろ?」
「ううん。紀夫さんの匂いです。」
真里は体を起こし紀夫から少し離れる。そのまま顔を紀夫の顔に近づけ、唇を重ねた。舌を挿入すると、紀夫の舌は優しく迎え入れてくれた。
「ん……んふっ……」
しばらく紀夫の舌と戯れ、唇を離した。
「そろそろ出かけないと不味いんじゃないのか?」
「そうですね。お昼までには着いておきたいな。」
「じゃ、こんな事してる場合じゃないだろ。」
「こんな事って……紀夫さんとキスする事は私にとって最重要事項ですよ!」
「はいはい。」
紀夫はポンポンと真里の頭を優しく叩くと立ち上がり、マグカップとグラスを持つと台所へと行った。マグカップとグラスを洗い、水切りに置くと真里がボストンバッグを持って立っていた。
「紀夫さんの荷物はこれですよね?」
「ああ、そうだ。」
「じゃあ、行きましょ。」
真里は玄関に向かっていった。紀夫はエアコンのスイッチを切り、台所のガス栓を止めると玄関に行く。真里は既に外に出ていた。紀夫も紺色のスニーカーを履くと玄関を出てドアを施錠した。
「紀夫さんの荷物は車に載せておきましたよ。」
「ありがとう。」
そう言いながら二人はガレージに向かった。真里が運転席に向かって歩いていく。
「真里が運転するのか?」
「はい、そうですけど?」
「免許取って間がないんだろ?」
「大丈夫ですよ。こう見えて教習所での実技は優秀だったんです。」
「いや、さっきの車庫入れ……」
「しゃ……車庫入れは例外!人間誰しも一つや二つ、苦手な事があるとか無いとか……とにかく、私が運転しますから!」
そう言って真里は運転席に体を滑り込ませた。紀夫は仕方がないなと諦め、助手席に体を預ける事にした。
「で……では、出発しますね?」
「なんで疑問形なんだ?」
「な……なんとなく?」
「そんなガチガチに緊張してて大丈夫なのか?」
「大丈夫です。紀夫さんは大船に乗ったつもりで、寝ていてくださってもいいのよ?」
「永遠の眠りにつくつもりは無いのだがなぁ。」
「酷い……」
真里は少し涙目をなりながらレクサスを発進させた。少しヒヤヒヤとする事もあったが、真里が言ったとおり運転技術自体に問題は無さそうだと思うと紀夫の肩の力が少し抜けた。
カーナビゲーションの案内に従い、真里は運手を続ける。高速道路に入ったので真里は少しだけ緊張を解いた。街中の運転はかなり気を使っていた様だ。
「別荘までどれくらいかかるんだ?」
真里の緊張が解けたのを見て、紀夫が質問をした。街中で運転に集中していた真里に話しかけるのは危ないと感じていたからだ。
「そうですね。高速道路に入ったので、一時間程度って感じかな。」
それくらいなら途中で休憩する必要もなさそうだと紀夫は考えた。
「紀夫さん、ありがとう。」
「なんだ?何に礼を言ってる?」
「何も言わずに黙っていてくれたから。」
「ん?」
「近藤ったら、うるさかったの。」
紀夫は真里の運転について尋ねた時の近藤の虚だった目を思い出した。
「やれ、『信号が黄色になったので気をつけて下さい』だの、『対向車が右折したがってるので先に譲ってあげて下さい』だの……私も気がついてるからって言っても、全くもって黙ってくれなかったし……」
近藤は執事として完璧な人だという事は紀夫も知っている。色々な事に気が利く。それは運転技術においても発揮されていた。近藤が運転する車に乗った時、一切の不安を感じた事は無かった。
近藤からすると、真里の運転は隙だらけに感じて、ついついお小言の様に言ってしまったのだろう。
そう思った紀夫は、近藤の事を少しだけ弁護した。
「それだけ真里の事を大事に考えてくれてるんだよ。ありがたい事じゃないか。」
「うん、それはわかってる。わかってるんだけど……」
「けど?」
「紀夫さんの様に、黙っていてくれる方が嬉しいかな。」
そう言って真里はチラッと紀夫の顔を見た。
「ちゃんと前を見て運転しろ。真里のそういうところが近藤さん的に心配になるんだよ。」
真里は慌てて前を向いた。
「前に真里を後ろに乗せて走った時、言わなかったっけ?真里の命を預かってるから運転に集中してるって。」
「ええ。」
「あの時、真里は俺の運転に不安を抱いたか?」
「ううん。むしろ全幅の信頼をしてた。」
「だろ?それと一緒だ。俺は近藤さんほど他人の事まで気を回せない。だけど真里の事は信頼してる。集中して運転してたから、任せていても大丈夫だと思って黙ってただけだよ。」
「うん……」
「今、こうやって喋りながら運転している。これは余裕って奴だ。」
「うん。」
「だが、さっきみたいに余所見するのは余裕とは言わない。隙だ。」
「……!」
真里の頬が少しだけ赤みをおびた。
「余裕と隙は違うからな。真里ならこの違い、わかるよな?」
「はい……」
「よし、お利口さんだ。」
紀夫に褒められたからか、真里はエヘヘと微笑んだ。
「ねぇ、紀夫さん。」
「なんだ?」
「さっきね……」
「ん?」
「『すきだ』って言いましたよね?」
「ああ、言ったな。」
「エヘヘ……紀夫さんに『好きだ』って言われちゃった。」
紀夫は真里が何を言ってるのかわからなかった。
「おい、ちゃんと運転してるよな?」
「え?ええ。大丈夫です。」
そう答えた真里の顔はニヤニヤとしているだけだった。
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(`-ω-)y─ 〜oΟ




