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32 一番

 コトン


「前、いいかな?」


 紀夫が返事をする前に貴子は手にしていたトレイをテーブルに置き、椅子を引いて座った。

 昼休みも半分ほど終わっていたので、社員食堂はさほど混雑はしていない。他に空いた席は幾らでもあったが、貴子はラーメンを(すす)る紀夫の前の席を選んだのである。


 紀夫がズズズッとラーメンを食べている様を羨ましそうに見る。


「私もラーメンにしたら良かったかな。」


 胸の前で手を合わせ『いただきます』と呟いた貴子は、スプーンを手にするとハヤシライスを掬って口に運んだ。

 口の中の麺を軽く咀嚼し、ゴクンと飲み込んでから紀夫は口を開いた。


「何か用か?」


 モグモグと口の中を動かしていた貴子は左手を紀夫に向けて出すと掌を広げ、ちょっと待ってとゼスチャを示す。口の中が空っぽになってから声を出した。


「お嬢様の事、本当なの?」


 土曜日の真里の爆弾発言について、週明けの月曜日は大騒ぎになるのかと思いきや、意外と静かだった。


 マスコミ系は佐々倉が手を回し、押さえつけに成功していたので、テレビやラジオ、新聞やネットを含むマルチメディアでの報道は無かった。


 併せて手を打ったのがパーティー参加者への買収。この会場で見聞きした事は一切口外しないよう幾らか握らせた。もし紀夫と真里の事が世間に知れ渡る事が起きたとして、情報元を辿ればパーティー参加者だったとなれば、佐々倉からの報復が予想だにつく。

 さらに言えば紀夫の背後に見え隠れする四葉。

 佐々倉と四葉を相手に戦争を挑む勇者など、あの会場にはいない。握らされた者達は静かに週末を過ごした様だ。


 これらについて佐々倉が動いていた件は、紀夫と真里には知らされていない。土曜の夜、紀夫の家に押しかけていた記者達も、日曜の夜にはいなくなっていた。昨日、真里とのデートを終え、家に帰ってきた紀夫は混乱を予想していたのだが、家の周りがあまりにも静かな事に呆気にとられたほどだった。


 それでも完全にシャットアウトできる程、世の中は甘くない。噂レベルではあるが、それなりの怪情報として関係者の間では広がるくらい、インパクトのあるネタであった。


「否定はしないな。」

「そう。」


 紀夫の答えに貴子は頷くだけだった。紀夫はズズズとラーメンを啜る。


「会長が言われた事。」


 貴子は目の前のハヤシライスに視線を合わせながら言った。


「やっとわかったわ。お嬢様、楓、そして私。私は三番目だって言われた事が。」


 紀夫は黙っている。口の中に麺があるので、黙っているだけなのだが。


「それでもね、わからない事は未だにわからない。楓の事。何故、会長は楓を二番目に捉えているのか。私が三番目だと言われた理由が。」


 紀夫が黙っているので、ほとんど貴子の独り言の様になっていた。


「久保田君はどっちが好きなの?お嬢様?それとも楓?」

「……楓だ。」


 紀夫が答えるまでに少しの間が空いた。


「それは久保田君の本心だよね?」

「ああ、そうだ。」

「なぜ、間が空いたの?」


 貴子は見逃さなかった。いや、聞き逃さなかた。紀夫の機敏に対し貴子は鋭い。

 紀夫も貴子に言われ少し動揺した。真里に対して己の気持ちが少なからず向いている事を改めて思い知らされる。

 紀夫が黙ったままなので、貴子は答えを待たずに話を続けた。


「お嬢様とはいつ知り合ったの?」

「今年の四月だよ。」

「たった二ヶ月前なのに、婚約者という関係とか信じられない。」

「そうだな。俺自身なんでこうなってるのか信じられんよ。」

「楓はお嬢様の事を知ってるの?」

「ああ、知ってる。」

「お嬢様は楓の事を…」

「知ってる。俺が楓を好きな事も含めて。」


 紀夫はラーメンを啜る。少し麺が伸びてきていた。


「久保田君はこのままお嬢様と結婚するつもり?」

「そうだな。と言うか、そうせざるを得ない状態に追い込まれていると言うか…」


 紀夫の周りの外堀は色々と埋め立てられている。内堀…気持ちだけは埋められまいと紀夫は思っていたのだが、現実として少しずつ埋められているのは気付いている。


「この前、私が言ったこと覚えてる?」

「なんの話だ?」

「貴方を落としにいくって話。」

「ああ、初恋拗らせ女の件な。しかも十年モノのヴィンテージときたもんだ。」

「その言い方、私にとっては褒め言葉よ。」


 貴子は顔を上げるとクスッと笑った。が、すぐに真顔に戻る。


「私がいかに足掻こうとも、お嬢様がいる限り久保田君の一番にはなれないのね。」

「外面的にはそうなるんだろうな。」

「それはどう言う意味?」

「佐伯さんの言う一番って言うのは結婚相手という意味だろ?」

「そうよ。何か間違ってる?」

「間違ってるとか間違ってないとかは、誰にも決められないな。」

「言ってる意味がわからないわ。」

「俺はさ、真里と付き合いだして色々と俺の知らない世界を垣間見てきた。」

「お嬢様の事を呼び捨てにしてるんだ。」

「話の本質に関係のない事を会話に挟まないでくれ。」

「ごめんなさい。」

「でさ、結婚相手が必ずしも恋愛的に一番の相手ではないと言う事が理解できた。政略結婚がいい例かな?」

「…」

「何に一番を求めるか。それが大事なんじゃないか?結婚がそれの結実なんだろうけど、それが全てではないんじゃないかな。」

「ごめんなさい。よくわからない。」

「俺もわかって貰えるとは思ってない。価値観は人それぞれってことだ。」


 紀夫はラーメン鉢を持つとゴクリゴクリとスープを飲み干した。空になった鉢をトンとトレイに置く。


「俺はさ、真里と結婚したとしても楓の事は手放さない。」

「それ、一番やってはダメな事だと思うんだけど。」

「そうだと俺もわかっている。でも、そうしたいんだよ。楓と別れる未来が想像できない。」

「納得はできないけど理解はできた。久保田君にとって楓が一番であり、それは必ずしも結婚を伴う必要が無いって事ね。」

「結婚できるのが一番いいのは俺もわかっている。実際、俺も少し前まではそうだったからな。」

「で、久保田君は私に何を言いたいの?」

「君の言う一番に結婚が含まれないので有れば、実現しない事はないんじゃないか?って事だよ。」

「やっぱりよくわからない。」

「なら仕方がないな。」


 紀夫はガタッと椅子を鳴らしながら立ち上がるとトレイを持った。


「早く食べないと昼休み終わるぞ。」


 紀夫が食器の返却口に向かって歩きだした。

 貴子は左手首にはめているカルティエを見て慌てた。


 『やばい。昼休み、あと十分しかない。』


 ハヤシライスを口に入れては軽く噛んで飲み込む。よく咀嚼している暇は無い。


 紀夫の言った事が頭の中をグルグルと彷徨う。咀嚼せずに飲み込めるほど貴子にとって納得のいく事では無かった。

 何度も何度も…頭の中で反芻(はんすう)した。

お読みいただきありがとうございました。


(`-ω-)y─ 〜oΟ

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