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24 はた迷惑な夏目漱石

「じゃ、紀夫。そろそろ帰るね。これ洗濯お願いするわ。」


 台所仕事を終えた楓がエプロンをほどき、ダイニングテーブルの椅子にかけると鞄を手に取った。


「楓ちゃん、ありがとう。晩ご飯美味しかったよ。」


 ソファに座りテレビのニュースを観ていた紀夫の父、秀夫が楓に言った。秀夫はこの月曜・火曜と本社での会議に出席し、明日の朝に福岡へと戻るので今夜も家に泊まる。


「おじさんに私の料理を食べてもらうのって初めてでしたね。お口に合いました?」

「うん。本当に美味しかった。お世辞抜きに。嫁の貰い手に困らないね。」


 秀夫の言い方に嫌味は感じられないのだが、楓は少し不機嫌な顔をした。紀夫も少し顔が険しくなる。


「そうですね。困る様な事態になる前に、誰かが貰ってくれたら良いんですけど…」


 楓は露骨に紀夫の顔を睨んだ。紀夫は視線を外した。


「駅まで送って行くよ。」


 居た堪れなくなった紀夫は、椅子から立ち上がって言った。


「大丈夫よ。まだ時間も早いし。」


 時計の針は九時前を指していた。


「では、おじさん。帰りますね。」

「ああ、おやすみ。気をつけて。」

「おやすみなさい。」


 楓は秀夫に挨拶をすると、玄関で青のパンプスを履いた。


「本当に送らなくて良いのか?」

「ええ、大丈夫。それより紀夫。ちょっといい?」


 楓は右手の拳を上に向けて紀夫に向け、人差し指をクイクイッと曲げる。顔を近づけろと言うジェスチャーだ。


「なんだ?」


 紀夫が楓に顔を近づけると、楓は少し背伸びをした。楓の唇が紀夫の唇に重なる。重なった唇の隙間から楓の舌が紀夫の咥内に攻め込んでくる。攻め込まれた紀夫の舌が防戦する。楓の舌は執拗に攻撃を続ける。時間にして一分程度の攻防戦が続いた。楓が唇を離す。離れ行く唇と唇の間にキラリと糸がひく。


「はうぅ…」


 楓が思わず吐息を洩らした。頬が少し上気している。紀夫の耳に口を近づけると楓はボソッと呟いた。


「ちょっと濡れちゃった…」


 そう言って顔を離すと、楓はニヤリと悪戯っぽく笑った。紀夫はやれやれという顔をする。

 楓は玄関ドアを開けると外に出る。紀夫も突っ掛けを履いて見送りに出た。


「じゃあね、紀夫。」

「気をつけて帰れよ。」

「うん。」

「楓。」

「なぁに?」

「今日もありがとう。いつも助かる。」

「えへへ…おやすみ。」

「ああ。おやすみ。」


 楓は駅に向かって歩き出した。紀夫は楓が十字路を曲がって姿が見えなくなるまで、楓を見送った。


 家に入り台所に来ると秀夫がダイニングテーブルに座り、ビールを飲んでいた。紀夫も冷蔵庫から缶ビールとグラスを取り出した。


「親父、聞きたい事がある。」


 紀夫は椅子に座るとグラスに缶ビールを注いだ。


「あのさ。母さんの実家の事なんだが。」

「どうした?急に。」

「俺、母さんの実家って生まれてから一度も行った事が無いよな。」

「ああ、そうだな。」


 秀夫が缶を口にしてビールをグイッと飲む。秀夫は缶ビールはグラスに移さず、そのまま飲むのが好きなタイプだ。


「知らなかったが四枝の家って、地方じゃそれなりに大きな家だって聞いた。」

「誰から聞いた?」

「佐々倉会長。」

「そうか。そりゃそうだな。」

「母さんは里帰りもしてないのか?」

「ああ、してない。電話で親戚とかとは連絡してるみたいだがな。」

「母さん、実家と何かトラブルでも抱えてるのか?」

「トラブルと言うか、何というか…」

「親父にしては珍しくハッキリとしないな。」

「まあ、お前もいい歳だ。知っておいてもらった方が今後の為になるか。」


 秀夫は意を決したように口を開いた。


「早い話、母さんは四枝の家から勘当されている。」


 現代日本では戸籍法や民法などで厳しい条件がつけられていて、親子の縁を断ち切る事はほぼできない。それでも敢えて『勘当』という単語を秀夫が使うあたり、よほどの事があったのだろう。


「父さんと母さんはな、駆け落ちしたんだよ。」


 秀夫からのカミングアウトに紀夫はビックリした。


「話すと少し長くなるが。父さんが大学生の時…」


 秀夫は大学でヴァンダーフォーゲルのサークルに入っていた。二年生になり、五人の後輩がサークルに入ってきた。その中に紀夫の母、四枝咲恵がいた。初めはお互いに話をする事は無かった。夏休みになり、信州の方へ夏合宿と称して一週間のキャンプに行った。


 咲恵は家柄がよく家事についても幼い頃から躾けられていて料理とかも得意だった。だがそれは家庭の台所での話で、屋外での調理となると話は違った。何もかも初めての事ばかりで右往左往していた。見かねた秀夫が咲恵に声をかけて手取り足取り、野外での調理の仕方や楽しみ方などを教え、合宿が終わる頃にはバカを言い合えるほどの仲になっていた。

 明日で合宿終わりというキャンプ最後の夜。上弦の月が夜空に浮かんでいた。

 秀夫はぼんやりと月を見ていた。


「久保田先輩。なにしてるんですか?」

「四枝さんか。見てごらんよ。」

「はい?」

「月がとっても綺麗なんだよ。」

「はうっ!」

「どうした?」

「べ…別に…ただ、今の不意打ちに私は死んでしまいそうです…」


 咲恵は俯いてしまい、なにも喋らなくなった。


 それからは事あるごとに「先輩、遊びにいきましょう。」「先輩、飲みにいきましょう。」「先輩…」「先輩…」と咲恵が積極的に秀夫を誘うようになった。秀夫も可愛い後輩として、咲恵の誘いを断る事は少なかった。咲恵は未成年なので飲みには行かなかったが。


 秀夫が三年の夏。咲恵が夏休みの帰省から戻ってすぐの頃。咲恵に大事な話ががあると言われ、二人の秘密の隠れ家的な喫茶店に行った。

 壁の棚一面にジャズのレコード盤がギッシリ並んでいるジャズ喫茶だった。店の奥には小さなステージがあった。普段はマスターが勧めるプレイヤーのレコードが流されていたが、日曜日になるとセミプロのジャズプレイヤーがステージで生演奏したりしていた。


 その日は平日の昼下がりだったので、客はほとんどいなかった。周りを見渡しても、秀夫と咲恵以外には、仕事をさぼっている営業マンと既に引退した老紳士しかいなかった。




「先輩、聞いてください。」

「どうしたんだい?」

「私、先月で二十歳になりました。」

「そうだったね。プレゼント気に入ってくれた?」

「はい。大事に使わせてもらってます…ではなくて…私、実家に帰ったじゃ無いですか。」

「うん。」

「父から言われたんです。私には生まれた時に決めた許婚がいるって。二十歳になったから、その人と結婚しなさいって。」

「そうなんだ。」

「反応薄いですね。」

「いや、それ以上、どう反応しろと?」

「え!とか、え!とか、え!とか…」

「それ以外に無いのか?」

「それくらい驚いてくれてもいいのでは無いか?って事です!」

「まあ、驚いた事には驚いたよ。でも、ほら。君の家って旧家の家柄だろ?許婚の一人や二人、いてもおかしく無いかなって思ってたからね。」

「いやいや、許嫁が二人とかおかしく無いですか?と言うか、先輩。私が許婚と結婚してもいいんですか?」

「それは君の問題だから僕は関係ないかな…」

「先輩。」

「ん?」

「私、先輩の事が好きです。私と結婚して下さい。」

「は?なにを言い出すんだ?急に!」

「今すぐでなくていいです。でも約束だけして下さい!」

「待て、落ち着け。君が僕の事を好きなのは分かった。だが付き合ってもいないのに結婚とかあり得ないだろう。」

「じゃあ、お付き合いしましょう。」

「だから!僕は君の事を好きだとか一言も言った事無いよね。」

「先輩!月が綺麗って言ってくれたじゃないですか!」

「待て。月とかなんのことだ?」

「私の事、嫌いですか?」

「き…嫌いでは無い。」

「では好きなんですね。」

「まあ、そうなるなぁ。」

「ではなにも問題ないですよね。今日から先輩と私は恋人って事で。」

「おいおい…」

「ウフフ〜。」

「僕って君に似合う様な男では無いよ?家柄だって不釣り合いだし。」

「なに言ってるんですか?家柄なんて関係ありませんよ。気持ちの問題です。気持ちの!」

「なんで、そこまで僕の事を好きになってくれたんだい?」

「先輩は私に新しい扉を開けてくれました。今まで知らなかった世界を魅せてくれたのは先輩なんですよ。」

「意味がわからないなぁ。」

「私、高校までずっと女子校でした。地元では名門と言われていた学校でした。周りは良家と言われる家柄の女の子ばかりで、つまらなかったんです。でも一年前、先輩と知り合って私の生活は変わりました。楽しいんです。先輩といる事が。先輩と一緒にする事が。これからもずっと先輩と一緒にいたいんです。今更のこのこと出てきた顔も知らない許婚なんて、相手にするのは嫌です。」

「…」

「私をこれだけ変えてくれた先輩には責任を取ってもらいます。」

「おい!責任って…」

「とって下さいね。せ・ん・ぱ・い!」


 秀夫は咲恵の告白(脅迫)に黙ってしまった。


 天井に設置されたBOSEのスピーカーからはフランク・シナトラが歌うIn Other Wordsが流れていた。

お読みいただきありがとうございました。

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I love you.「あなたを愛してます」

「月が綺麗ですね」と訳しなさいと言ったのは夏目漱石。

本当に言ったのか確証は無いそうです。

都市伝説ですね。


対してOKの返事

(I'm)Yours.「私はあなたのものです」

「死んでもいいわ」と訳したのは二葉亭四迷。


「月が綺麗ですね」

「死んでもいいわ」


会話になってませんね。笑



『上弦の月』

スピリチュアルで「上弦の月」は、活力に満ち、行動を起こすのに良い時期とされてます。恋愛パワーも充実し、積極的にアプローチすると良いようです。



『In Other Words』(原曲タイトル)

別名『Fly Me to the Moon』の曲名の方が知られてます。。

いろんなシンガーがカバーしてます。ご興味ありましたらYouTubeで聴いてみてください。

歌詞の内容は、女から男へのプロポーズです。


ベタなお月様ネタの回でした。


(`-ω-)y─ 〜oΟ

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