1.6 学園転移
その日は、まだ梅雨の気配の残る夏日だった。
空こそ快晴だったが、風は涼しく気温も低い。
きっと前日までの雨で、まだ地面が濡れているのだろう。
それに感謝をしながら、カエデは通学路を進んでいく。
木陰をたどってもやはり七月下旬。
教室の前にたどり着く頃には額に汗が浮かんでいた。それをハンカチで拭い、軽く手櫛で髪を直してから扉を開けた。
教室の中には、すでに数人の生徒が着席していた。
カエデは視線を巡らせ、適当な窓際の席へと腰を下ろした。
風邪で二週間ほど欠席したため参加することになった補習授業。
期末試験は問題なく、レポートも提出済み。
後はこの日を含めて2日間、補習授業という名前の自習をすれば終わりである。
(あと二日って分かってても、やっぱりやる気は起きなのよね。キヨとのだってキャンセル入れるしかなかったし)
夏季休暇の前半――正確には終業式後の2日間が消えたことに、カエデは小さくため息をついた。
と、ちょうど同じタイミングで、数席隣からため息が聞こえる。
視線を向けると、どうやら相手も気になったようで、自然と目が合った。
《《驚くほど端正な顔立ち》》の男子生徒がそこにいた。
教室に入った時は後姿だけだったから分からなかったが、その男子生徒には覚えがあった。
星見スバル。この高校の有名人である。
カエデ自身は話したことはないが、噂はよく耳にしていた。
性格は温厚、運動勉強共に文句のつけようがなく、顔立ちはそれこそ並みの芸能人より出来がいい。
女子生徒からは憧れを込めて、男子生徒からは羨望と嫉妬を込めて、王子様なんて呼ばれることもある。
当然のように多数の好意を向けられているが、本人曰く、今は女性と付き合うつもりはないらしい。
その王子様はカエデと目が合うと、苦笑を浮かべてから「退屈ですね」と言って手元の文庫本へと視線を落とした。
カエデはそんなスバルに内心で首を傾げた。
(優等生の王子様が補習。風邪かな?)
そう考えたがところで「おはようございます皆さん」教室前方の扉が開く。
入ってきたのは教師としてはまだ若い二十代前半の女性――養護教諭の羽根川だった。
「知ってると思いますが、今日の補習を監督する羽根川です。半日だけですがよろしくお願いしますね」
教壇に立った養護教諭の羽根川は、黒板に『~12:00 補習授業』と書き込むと、それぞれの生徒に課題プリントを配り始めた。
カエデが手渡されたプリントを見れば、それはかなりの分量で、午前中だけで終わるとは到底思えなかった。
実際に他の生徒も同様に感じたのだろう。明るい髪色をした女子生徒が「すみません」と手を上げた。
「なんですか、佐倉さん」
「あの、これ終わらないと思うんですけど」
「残りは夏季休暇の宿題に追加です。って聞いてますよ」
「えぇー知らない聞いてない。やだなぁもう」
「文句を言っても減りませんから。今なら私もいますから、できるだけ減らしておきましょう」
「……はーい」
そして補習前の注意事項ののち、静かに補習授業は始まった。
文字が紡がれる音、蝉しぐれ、時折聞こえる生徒と羽根川の会話。
進む課題、形の変わるカーテンの影、規則的な時計。
夏季休暇にはみ出た日常の延長線。
―
――
―――そして異変は、静かにその日常を飲み込んだ。
予兆なんてものは何一つ、ありはしなかった。
「⋯⋯え?」
突如として体を襲った浮遊感に、カエデは声を漏らす。
直後、臀部に軽い痛みを感じた。
「いたた。なんなのよ、も⋯⋯う⋯⋯」
立ち上がり周囲を見回したカエデは、そこで言葉を失った。
最初に目に入ったのは、周囲にいた生徒たちだった。
倒れているもの、座り込むもの、様々だが、数十人の生徒たちが皆一様に校庭にひかれたトラックのなかで固まっている。
その彼らは、一様に《《茜色》》に染まっていた。
カエデがハッとなって空を見上げれば、群青色に染まっていた夏空は、息をのむほどに鮮やかな緋色をたたえている。
そして違いは空だけではなかった。
校庭隅に浮く数メートルほどの六角水晶、校門外に見える大森林、そして――巨大化した校舎。
それらを目にしたカエデ口から言葉が漏れる。
「なんなのよ⋯⋯」
それの言葉は、周囲から湧き上がり始めた喧騒にのまれて消えた。
高校の敷地内にいた生徒三十五名、教師一名、小学生一名、外部から訪れていた訪問者一名。
これが後に『サークル』に所属することになる生徒たちと、『学園迷宮』との、初めての接触だった。
次回からこの迷宮に主人公が足を踏み入れます。
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