第八話 ─ 地下室の、関明慶
【前回までのあらすじ】
趙を救うため、林徳は『反間計』を発動。関明慶を主計官・銭弼の宿に「自首」させ、地方軍尉・孫巴には偽の警告文を届けた。二人の頭の中に互いへの疑念が植えられ、銭弼は北方民全員の取り調べ再洗い直しを命じた。趙の処刑は最後尾に回され、十日の猶予が生まれた。──だが計略の本番はこれから。地下室に捕らえられた関明慶は、銭弼の取り調べの中である衝撃の事実を知ることになる。
陽明楼の地下室は湿っていた。
窓はなく、壁には黴の匂いが染みついていた。天井から吊られた行灯の弱い光が、関明慶の顔をわずかに照らしていた。
関は壁に背を預けて座っていた。両手は背中で縛られていた。だが顔は穏やかだった。武人の修行のひとつに「動けぬ時こそ呼吸を整える」というものがある。関は若い頃、それを父・関子陽から叩き込まれていた。
(……父上)
関の胸の奥がふと痛んだ。
三年前、毒で死んだ父の顔が、行灯の影の中に重なって見えた。
関子陽は玄朝の腐敗を諫めて殺された。その下手人を関は知らない。「宦官派閥のどこかの仕業」とだけ聞かされていた。具体的な誰かは、家が取り潰された後の混乱で追えなくなった。
(……いつか父上の仇は討たねばならぬ)
しかし今、関はその誓いをしばらく脇に置いていた。
目の前の主・林徳の傍にいる方がはるかに大切だった。十歳の少年に仕えてから、関の中で何かが変わっていた。──復讐という個人の業よりも、徳ある者を支えるというもっと広い役目に、心が向かっていた。
地下室の重い扉が開いた。
主計官・銭弼が二人の従者を連れて降りてきた。
◇ ◇ ◇
銭弼は痩せた、三十五歳の男だった。
顔つきは知的だが、目の奥に焦りがあった。──玄朝中央への手柄作りを急ぎすぎている目だ、と関は読んだ。
「関氏の三男、関明慶どの」
銭弼の声は丁寧だった。罠を仕掛ける時の、官僚の典型的な丁寧さだ。
「夜半に突然のご来訪、誠に驚き入りました。──さて、孫巴の話、もう一度聞かせていただけますか」
「……何度でも」
関は林徳に指示された通りの「証言」を、淡々と語った。
地方軍尉・孫巴に半年間、密かに匿われていた。だが孫巴は最近、関に「銭弼を暗殺せよ」と命じた。関は拒んだ。だから孫巴は関を口封じに殺そうとしている──。
関は嘘をついている。
だが嘘をつくことに罪悪感はなかった。林徳の計のためであり、無実の趙たちを救うためだった。営業マンが客先で「上司に確認します」と空の約束をするのと、本質的には同じだ。──林徳がそんな例えで関に「嘘の使い方」を教えたわけではない。だが四十年の社畜の魂は、嘘を人を救う道具として、無意識に使うことを覚えていた。それが関にも伝染していた。
銭弼は関の証言を何度も、角度を変えて尋ねた。
関は淡々と答え続けた。武人の鍛錬はこういう場面でも効く。動揺せず、矛盾せず。
「……関どの。──私はあなたを信じます」
銭弼がようやくそう告げた。
声にはわずかな揺らぎがあった。
「孫巴の動きは最近、確かにおかしい」
(……来た)
関は内心でわずかに頷いた。
林徳の予想通りだ。銭弼の頭の中にすでに、孫巴への疑念は芽生え始めている。
関の証言はその疑念に、火を点けるだけでよかった。
◇ ◇ ◇
「ただ」
銭弼が続けた。
「あなたがなぜ、半年もの間、淮陽に潜伏できたのか。──そこをもう少し、お聞かせいただきたい」
関は答えた。
「孫巴の屋敷の奥座敷にございました。表には決して出ぬよう、命じられておりました」
「……ふむ」
「銭弼さま。──ご存知でいらっしゃいますか。我が父・関子陽の名を」
関はふと、そう聞いた。
計略の中の言葉ではなかった。林徳の指示にもその質問はなかった。
ただ関の中の何かが勝手に、口を動かした。
「……関子陽どの」
銭弼の声がわずかに変わった。
「……存じております。私が戸部に入った頃、関子陽さまはまだ宮中の近衛を統べておられた。──遠目にお顔を拝見したことがございます」
「……」
「立派なお方でいらした」
関は銭弼の目をじっと見た。
地下室の行灯の光の下で、銭弼の眼の奥に複雑な色が揺れていた。
「銭弼さま」
「はい」
「もう一つお尋ねしてもよろしいですか」
「……どうぞ」
「私の父を毒で死なせたのは、誰でございましょうか」
地下室の空気が止まった。
銭弼の従者二人がわずかに身を硬くした。
銭弼自身の顔が青ざめた。
「……関どの。それは私の答えるべき問いでは」
「左様でございますか。──しかし銭弼さま、あなたは戸部の三等官でいらっしゃる。三年前、関氏の取り潰しの事務処理を戸部が行ったはずでございます。あなたが関わっていなくとも、ご同僚が関わっていらした」
「……」
「私は知りたいだけでございます。父を死に追いやった派閥の名を」
長い長い沈黙が地下室を満たした。
行灯の油がわずかにはぜた。
やがて銭弼が低く呟いた。
「……袁派、です」
関の心臓が止まった。
◇ ◇ ◇
袁派。
玄朝中央の三大派閥の一つ。皇帝の外戚・袁氏を中心とする、宦官と結託した、最も汚れた派閥。
関子陽は皇帝の近衛を統べる立場として、袁派の専横を何度も皇帝陛下に直訴していた。──だから毒殺された。
関はそれを知らなかったわけではない。「袁派のどこかの仕業」というところまでは、家の取り潰し後の混乱の中で聞いていた。
だが銭弼の口から明確に「袁派」と告げられた瞬間、関の中で何かが確定した。
「銭弼さま」
「はい」
「あなたさまは袁派の方でいらっしゃいますか」
銭弼はしばらく答えなかった。
そして絞り出すように言った。
「……戸部は袁派が握っております。私の上司もその上の上司も、皆、袁派です。──私自身は袁派の手駒、と申せましょう」
「……」
「ですから関どの。──私はあなたの父を殺した派閥の、末端の者です。あなたが私を憎まれるのは当然でございます」
銭弼の声に、初めて嘘のない感情が滲んでいた。
関の頭の中で、戦盤の代わりに一つの想いが、激しく回転していた。
(──父上を殺した派閥が、今、淮陽に来ている)
(──私の主・林徳の計略が、その派閥に傷をつけている)
(──偶然か? それともこれは)
関の縛られた手がわずかに震えた。
林徳から授かった命──「銭弼を疑念で乱す」──を関は淡々と遂行していた。だが今、その任務の中で、関は父の仇敵の派閥に、自らの手で揺さぶりをかけていることに気づいた。
(……主はこれを知っていたのか?)
いや、知らないはずだ。林徳は北方民狩りの主計官が、たまたま袁派の手駒だと、推測もできなかったはずだ。──これは偶然だ。
だが偶然にしては出来すぎていた。
関の胸の奥で、四十年の社畜が十歳の体で時々呟いていた、あのフレーズが、初めて関の頭の中にも響いた。
(『縁』、というやつか)
関は深く息を吐いた。
そして銭弼の目を、まっすぐに見た。
「銭弼さま」
「はい」
「あなたを憎みません」
銭弼が目を見開いた。
「あなたは袁派の手駒、と仰った。──ならばあなたもある意味で、袁派の犠牲者です。地方に派遣され、無実の北方民を片端から捕らえさせられている。それはあなたが望んだ仕事ではないはずです」
「……」
「銭弼さま、私の主はあなたを救う道も持っております。──もしあなたが袁派から自由になりたいのであれば」
◇ ◇ ◇
その同じ夜、林徳は楓堂の二階の小部屋で目を開けていた。
戦盤が勝手に動いていた。
関を地下室に送り込んでから、すでに半日。銭弼が関の証言をまじめに聞いていれば、計略は順調に進んでいるはず。
だが林徳の戦盤は、何か別の動きを感知していた。
(……関どの、何かを起こしている)
計略の中の言葉ではない、別の何かを。
林徳の頭の中の『万書の眼』がふと、三国志演義のある一節を運んできた。
──『天意は人事を超ゆることあり』
(……俺の計画の中で、計画の外の何かが起きている)
戦盤はその「計画の外の何か」をはっきりと、形にすることができない。情報が足りない。
林徳はゆっくりと夜具の中で息を吐いた。
(……関どのを信じよう)
四十年の社畜の癖で、社内政治の中では「計画通り」だけが生き残る道だった。計画外の動きは必ず潰された。──だが林徳は今、その癖を捨てねばならないと思っていた。
(関どのは私の駒じゃない。一人の人だ。彼の心が動けば、それは計略を超えた何かを生む)
林徳は目を閉じた。
関の判断を信じることにした。
◇ ◇ ◇
翌朝、地下室の関の前に、銭弼はもう一度現れた。
顔は夜のうちに何かを決めた者の顔だった。
「関どの」
「はい」
「昨夜、あなたが仰った『救う道』──もう一度お聞かせいただきたい」
関はわずかに笑った。
地下室の行灯の光の下で、彼の目に初めて、武人ではないもう一つの輝きが宿った。
「……銭弼さま。私の主はまだお若い。だがその方の前では、人は自分の本当の心を語りたくなる。それは不思議な力でございます。──私もそうでした。あなたもおそらく、同じ道を辿られると思います」
「……お会いしたい、ということでよろしいのですか」
「左様でございます」
銭弼は深く息を吐いた。
そしてゆっくりと関の縄を解いた。
◇ ◇ ◇
その日の昼、林徳の前に二人の男が、楓堂の奥座敷で座っていた。
関明慶と銭弼。
林徳は十歳の少年の体で、二人を迎えた。
戦盤が瞬時に銭弼を観察していた。──疲労、迷い、決意。袁派の手駒として地方に来た男が、いまその派閥そのものから離れようとしている。
「銭弼さま。──ようこそ楓堂へ」
「……林徳どの、と、お聞きしました」
「左様でございます」
銭弼は深々と頭を下げた。
三十五歳の戸部の役人が、十歳の少年に頭を下げた。
林徳の頭の中で、四十歳の社畜がまた慌てた。
(……ちょっと待って、銭弼さま、頭、下げないでください。こっち、十歳ですよ。──いやでも内側は四十だけど。──いやでも見た目は子供で)
林徳は社畜時代に、客先で年上の役員から「お願いします」と頭を下げられた時の、あの収まりの悪い感じを思い出していた。あの時もただ、深くお辞儀を返した。
「銭弼さま。お顔を上げてください」
「……」
「お話を伺いましょう」
銭弼はゆっくりと顔を上げた。
そして淡々と語り始めた。
彼の本心。袁派の中でいかに自分が駒として使われてきたか。淮陽への派遣も本当は左遷だったこと。北方民狩りという「手柄作り」を成功させねば、玄朝中央に戻れないこと。だが毎日、無実の人々を捕らえることに、心がすり減っていたこと。
林徳は聞いていた。
関も聞いていた。
楓老師は奥で薬研を回しながら聞いていた。
◇ ◇ ◇
「銭弼さま」
「はい」
「お辛い、お立場でいらっしゃいましたね」
その一言で、銭弼の目から涙が一滴こぼれた。
戸部の三等官、三十五歳の男が、十歳の少年の前で涙をこぼした。
林徳は社畜時代のある光景を、思い出していた。──十六年前、新人だった頃の自分が、ベテランの先輩に「お前、辛かっただろ」と、ただそれだけ言われて、トイレに駆け込んで泣いた、あの時。
(……人は、辛さを認められたいだけなんだ。誰かにただ「辛かったね」と言ってもらえれば、それで次の一歩が踏み出せる)
林徳は銭弼にもう一つ告げた。
「銭弼さま。──私の計略はもう止まりました」
「……?」
「あなたを孫巴さまと争わせ続けるつもりはございません。あなたが袁派から自由になる道を選ばれるなら、私はあなたをお手伝いいたします」
「……」
「ただし一つだけお願いがございます」
「何でしょうか」
「捕らえた北方民、三十名全員を解放してください。罪状が捏造であったことを明らかにし、銭弼さまの権限で釈放をご命令ください」
銭弼はしばらく考えた。
そしてゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました」
「ありがとうございます」
林徳は深く頭を下げた。
戦盤の上で三十一名の駒──趙を含む三十名の北方民と、銭弼──が、白い味方として新しく置かれた。
◇ ◇ ◇
その夜、楓堂の奥座敷で、関は林徳にすべてを報告した。
銭弼の正体。袁派の手駒であったこと。そして関子陽を毒殺した派閥が、袁派であったこと。
林徳の顔色がわずかに変わった。
「……関どの。それは知りませんでした」
「主、私も地下室で初めて確証を得ました」
林徳はしばらく沈黙した。
戦盤が勝手に未来の地図を、描き直していた。
──袁派は玄朝中央の最大派閥の一つ。彼らを敵に回せば、林徳の物語はただの「明国南の小領」に留まらず、玄朝そのものに影響を及ぼし始める。
関の家門の復讐は必然的に、林徳の物語の一部になる。
「関どの」
「はい」
「お父上の仇を、討たれますか」
関はしばらく答えなかった。
そしてゆっくりと口を開いた。
「……主。私はもう、ただの個人の復讐者ではありません。私はあなたの臣下です。あなたがお命じになれば、私は袁派を追います。あなたがお命じにならなければ、私は追いません」
「……」
「ですがもし──主の物語の中でいつか、袁派とお向かい合いになる時が来るなら」
「……」
「その時はどうか、私をお側に。父の仇を、私自身の手で討たせてください」
林徳はゆっくりと頷いた。
「……承知いたしました。関どの。──いつか必ず、その日は参ります」
行灯の炎が揺れた。
まだ林徳は知らない。
銭弼が解放した三十名の北方民が、淮陽の街で新しい人生を始めること。そして銭弼自身が袁派から離反し、林徳の物語の中で思いがけぬ役回りを果たすことになることを。
そして何より──袁派が淮陽からの主計官・銭弼の「裏切り」を知った時、その怒りが、林徳という名の、無名の十歳の少年に、初めて向けられることを。
─ 第八話 了 ─
次回、第九話「銭弼の決断、北の街の朝」




