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おっさん、三国志の世界で軍師をやる 〜200回読んだ知識と計略で気づけば英傑が集まっていた〜  作者: ライディーンたけ


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第九話 ─ 銭弼の決断、北の街の朝




【前回までのあらすじ】

 趙を救うため林徳が発動した『反間計』。主計官・銭弼の地下室に捕らわれた関明慶は、取り調べの中である事実を知る──銭弼が属する(えん)派こそ、関の父・関子陽を毒殺した張本人だった。関は自らの判断で計略を超えて銭弼に「主の救う道」を示し、銭弼は袁派からの離反を決意。捕らえた北方民三十名の解放と引き換えに、林徳の保護下に入ることを選ぶ。──だが袁派の怒りは、まだ淮陽に届いていない。



【主な登場人物】

 林徳(りん とく)    主人公。十歳。中身は四十歳の元法人営業マン

 関明慶(かん めいけい) 主人公の最初の家臣。元・玄朝近衛将軍家の三男

 雪麗(せつれい)    亡国の姫。林徳の家で母と暮らす

 楓老師(ふう ろうし)  淮陽の薬師。林徳の協力者

 (れい)       楓老師の孫娘。林徳に好意を寄せる

 (ちょう)      元山賊の頭領。林徳に救われた元農夫

 (じょ)       趙の元手下。林徳の村に救援を求めて駆け込んだ

 銭弼(せん ひつ)    玄朝中央から派遣された主計官。袁派から離反を決意

 孫巴(そん は)     淮陽の地方軍尉。内心は中央のやり方を嫌う

 袁派(えんぱ)     玄朝中央の最大派閥。関子陽を毒殺した派閥




 朝が来た。

 淮陽の街はいつもと変わらぬ顔をしていた。市場の喧騒、流民の物乞い、兵の足音。──表面上は。

 しかし役所の前にはいつもと違う光景があった。

 牢から三十名の北方民がぞろぞろと出されていた。

 彼らの顔には戸惑いがあった。「処刑される」と聞かされていた者たちが、ある朝突然「無罪、釈放」と告げられた。誰一人として、何が起きたのかを理解していなかった。


 その中に趙がいた。

 趙はやつれ、頬がこけていた。だが目には光があった。

 牢の入り口で徐が待っていた。


「兄貴!」


「徐……」


 趙は徐を見て、しばらく言葉が出なかった。


「兄貴、無事よかった……」


「お前、なぜここに」


「徳殿が助けに来たんだ」


 趙の目が見開かれた。


「……徳坊、が」


「徳坊、もう徳坊じゃねえ。徳殿だ。今、楓堂の二階で待ってる」



   ◇  ◇  ◇



 趙は徐に連れられて楓堂の二階に上がった。

 部屋には林徳と関明慶と銭弼が座っていた。

 趙は銭弼を見てわずかに身を硬くした。──自分を捕らえた、玄朝中央の役人だ。

 だが銭弼は深々と頭を下げた。


「趙どの。──このたびは誠に申し訳ございませんでした」


「……」


「あなたを無実の罪で捕らえました。お詫び申し上げます」


 趙は何も言えなかった。

 社畜時代の林徳ですら、客先の役員クラスから頭を下げられた経験は片手で数えるほどしかない。元農夫の趙にとって、戸部の三等官に頭を下げられる、というのは、人生で初めての衝撃的な経験だった。


「……あの、銭弼さま、頭をお上げください」


 趙の声は震えていた。

 林徳が横でわずかに笑った。


(……あ、これ社畜時代の俺と同じ反応だ)


 頭を下げられて収まりが悪くて、相手に「頭を上げてください」と懇願する。

 立場が違いすぎる相手から頭を下げられた人間の、典型的な反応だった。


「銭弼さまはもう、あなたを捕らえた役人ではございません」


 林徳が静かに告げた。


「いまの銭弼さまは淮陽の街の、新しい良心の一人でいらっしゃいます。──趙さま、銭弼さまをお赦しください」


 趙はしばらく林徳の顔を見つめた。

 そしてゆっくりと頷いた。


「……徳殿がそう仰るなら」


「ありがとうございます」



   ◇  ◇  ◇



「ただ」


 林徳は続けた。


「皆さまにご相談がございます」


 関、銭弼、趙、徐の四人が、林徳の方を向いた。


「銭弼さまが袁派から離反なさったこと、すなわち袁派にとって最大の裏切りでございます。袁派は必ず銭弼さまを殺しに来ます。それも近いうちに」


「……」


「そして問題はここからでございます。袁派は銭弼さまだけでなく、銭弼さまを動かした者──私たち──を必ず突き止めようとします。淮陽の街全体に累が及びます」


 銭弼の顔が青ざめた。


「……林徳どの。私のせいで、皆さまにご迷惑が」


「いえ、銭弼さまのせいではございません。──これは私が計略の最後に、想定していなかった結末でございます」


 林徳は自分の戦盤を、自分で批判していた。


(……俺、本当に計略の射程が短いんだよな。趙どのを救うことだけ考えてた。その先の袁派の報復を、十分に織り込めていなかった)


 四十歳の社畜の癖がまた出ていた。──短期の目標達成だけを考えて、長期の余波を見落とす。

 社内政治で年に何度も、痛い目を見てきた癖だった。


「林徳どの。──そのご心配はいりません」


 銭弼が静かに言った。


「……?」


「私が淮陽を離れます。袁派の怒りを、私一人で引き受けます」


「銭弼さま、それは──」


「林徳どの」


 銭弼の声に初めて、迷いのない男の張りがあった。


「私は袁派の手駒として四年、生きてきました。──四年で初めて、私は自分の意志で決断をしました。北方民三十名の解放を決めた。これは私の手柄です。あなたの手柄ではない」


「……」


「だから罰を受けるのも私です。あなたがではない」



   ◇  ◇  ◇



 林徳はしばらく銭弼の顔を見つめていた。

 頭の中の戦盤はまだ計算を続けていた。──銭弼が淮陽を離れてどこへ逃げるか。袁派は必ず追ってくる。一人で逃げ続けて何ヶ月、生き延びられるか。

 答えは半年。多くて一年。

 半年〜一年で銭弼は必ず殺される。


(……ダメだ。これはダメだ)


 林徳の中の十歳の体が勝手に動いた。

 その動きを四十歳の魂が止めなかった。


「銭弼さま」


「はい」


「私の村に来てください」


 銭弼が目を見開いた。


「……?」


「私の村は明国の南、最も貧しい部類の村でございます。役所もありません。袁派の追手も簡単には辿り着けません。村には私の母と亡国の姫・雪麗さまがおられます。あなたをお迎えする余力はあります」


「林徳どの、それは──」


「銭弼さま、あなたは四年、辛い役回りをなさってきました。今、初めて自分の意志で決断をなさった。それは立派なことでございます。──ですがその決断の対価が死、では、私が悲しゅうございます」


「……」


「生きてください。──逃げる必要はございません。私の家でゆっくりとご休養なさってください。袁派の追手が来ても、私と関どのと雪麗さまがお守りいたします」


 林徳の声に感情が滲んでいた。

 社畜時代の彼はこういう時、決して言えなかった。「うちの会社に来てください」、と。一人の人間を丸ごと引き受ける覚悟が、四十年、なかった。

 今、彼はそれを言っていた。

 十歳の体で。


 関が林徳の横でわずかに頷いた。

 関はすでに覚悟を決めていた。──主が銭弼を保護すると仰るなら、それは自分が命を懸けて守るということだ。



   ◇  ◇  ◇



 銭弼は長い長い沈黙のあと、深く頭を下げた。


「……林徳どの。──御恩は生涯忘れません」


「銭弼さま、頭を上げてください」


「いえ、頭を上げる気がしません」


 銭弼の声は震えていた。

 四年、袁派の手駒として心をすり減らしてきた男が、初めて人として扱われた瞬間だった。

 林徳は社畜時代の自分の、ある瞬間を思い出していた。──十年前、出世コースから外れた直後、誰もが自分を見捨てたと思っていた時、ある先輩が密かに「お前のこと、忘れてないからな」と肩を叩いてくれた、あの瞬間。

 その先輩の名は今でも思い出せる。

 その一瞬の温かさがその後の十年、林健一を社畜としてなんとか生き延びさせた。


(……銭弼さまにとって、今がその「肩を叩かれた瞬間」、なんだろうな)


 林徳はゆっくりと銭弼の前で、十歳の小さな手を銭弼の肩に置いた。


「銭弼さま」


「……」


「私の家は貧しゅうございます。畳もございません。粥が毎日でございます。──それでもよろしいですか」


 銭弼は頭を下げたまま笑った。

 涙の混じった笑い声だった。


「……粥が毎日。──結構でございます。袁派の宴席よりも、ずっと美味しいはずだ」



   ◇  ◇  ◇



 その日の夕方、淮陽の城門を五人が出た。

 林徳、関、徐、趙、銭弼。

 趙の娘・桃も楓老師の元から迎えに行く約束で、後日合流することになっていた。

 城門の前で、楓老師と玲が見送りに立っていた。

 玲は林徳に小さな包みを差し出した。


「徳坊。これ、お母さまへの薬よ。今回は艾葉と紅花、それから春枸の追加分。お祖父さまが用意してくれたの」


「……ありがとうございます。玲さま」


「玲、でいいって言ったでしょ」


「……玲」


 玲はわずかに頬を染めた。

 そして林徳の手に、もう一つ、何か小さなものを握らせた。


「これは?」


「……お守り」


「……」


「私が自分で作ったの。──道中、無事に。あと必ず、また淮陽に来てね」


 林徳はお守りを握った。

 四十歳の魂が、十歳の体の中で、何か温かいものに撫でられた気がした。

 社畜時代、人からお守りをもらった経験などなかった。家族からもいなかった。


(……ああ、こういう感じなのか)


 大切にされるということが、こんなにも温かいものだとは、四十年、知らなかった。


「玲」


「うん」


「必ず、また参ります」


 玲は笑った。

 涙の混じった笑顔だった。



   ◇  ◇  ◇



 夕日の中、五人は街道を南へ歩き出した。

 林徳の前を関と銭弼が横に並んで歩いていた。

 関は淡々と、銭弼は緊張した面持ちで。

 その後ろを林徳と趙と徐が歩いた。

 趙がふと林徳に聞いた。


「徳殿」


「はい、趙さま」


「徳殿の村って、何人くらいおられるんだ」


「……三十人ほどでございます」


「で、これから銭弼さまが加わる、と」


「左様でございます」


「徳殿、これからもっと増えるんじゃねえか? 困ってる連中、放っとけねえ性分なんだろ」


 林徳はわずかに笑った。

 苦労人の四十歳の達観した笑みだった。


「……否定はいたしません」


「俺たち四人も、いずれ村に行く約束だしな」


「……そうですね」


 林徳の頭の中で戦盤が勝手に、未来の村の人口を計算し始めた。

 今、三十人。銭弼が加わって三十一人。趙たち四人と、桃と徐の家族で、合計十人。──近いうちに四十人を超える。

 貧しい村の食料生産で、四十人を養えるか。

 答えは否。


(……これ、村を変えなきゃダメだな)


 林徳の戦盤が新しい計算を始めた。

 ──貧しい村を変える。

 貧しい村を栄えさせる。

 それはもう、ただの「母と静かに暮らす」という当初の願いをはみ出ていた。

 だが四十歳の社畜はもう、それを止めることができないと感じていた。


(出世する気なんてないんだけどな……)


 林徳はぼやいた。

 心の中で。

 そして夕日に向かって、また歩いた。

 南へ、貧しい村へ、母の元へ。

 まだ林徳は知らない。

 彼が連れて帰る五人が、後に「南明の五雄」と呼ばれるようになることを。

 そして貧しい村「田家村」が、後に明国の南、最も栄えた商業の中心の一つになることを。

 すべてはここから始まる。



─ 第八話までの第一部「母を救う旅」、ここに完結 ─


第九話より、第二部「貧しい村を、変える」開幕


─ 第九話 了 ─


次回、第十話「銭弼、村に立つ」


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