第十話 ─ 銭弼、村に立つ
【前回までのあらすじ】
淮陽の街で林徳は袁派の手駒だった主計官・銭弼を改心させ、捕らえられていた北方民三十名と趙を解放した。袁派の報復から銭弼を守るため、林徳は彼を自らの村に迎えることを決意。元山賊の趙と徐も「いずれ村に行く」と約束を交わし、玲との別れを経て、五人は南へと向かう。第一部「母を救う旅」完結。第二部「貧しい村を、変える」開幕。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。中身は四十歳の元法人営業マン
関明慶 主人公の最初の家臣。元・玄朝近衛将軍家の三男
雪麗 亡国の姫。林徳の家で母と暮らす
銭弼 元・玄朝戸部の三等官。袁派から離反し林徳に保護を求めた
林徳の母 病から回復しつつある。雪麗と暮らす
田の翁 田家村の長老。林徳の家の遠縁
趙 元山賊の頭領。淮陽で再起、いずれ村へ
徐 趙の元手下。淮陽で再起、いずれ村へ
夏明国王 明国の若き君主(未登場)
袁派 玄朝中央の最大派閥
南への帰路、三日目の夕方。
林徳と関明慶と銭弼は街道脇の松林を抜けて、ようやく田家村の入り口に立った。
趙と徐は淮陽で日雇いの仕事を整理してから合流する手筈で、別れていた。
目の前に広がる村の風景を、銭弼は黙って見ていた。
貧しい村だった。
十軒余りの土壁の家。畑は荒れ、井戸の周りには細い人影。家々の屋根の藁はあちこちが抜け、何年も補修されていないことが分かる。流民でなくなった残された者たちが、ぎりぎりの生活を続けている、そんな村だった。
「……林徳どの」
「はい、銭弼さま」
「ここがあなたの村ですか」
「左様でございます」
銭弼はしばらく沈黙した。
玄朝中央の戸部に勤めていた銭弼にとって、書類の上では「明国南部の貧村」は数字と地名でしかなかった。だが実際に立ってみると、その「貧しさ」は数字ではなく、土の匂いと痩せた風と、井戸の細い人影として、肌に迫ってきた。
「……私がこちらでお世話になるのですか」
「はい」
「林徳どの。──私には明国の貨幣で銀十両ほどの蓄えがございます。淮陽から逃れる際、宿に置いて出てきましたので、後日人を遣って取り寄せます。それを村の再興の資金にお使いください」
「銭弼さま、それは」
「林徳どの」
銭弼の声には迷いがなかった。
「私が無実の者を捕らえて稼いだ役人としての銭は、もう要りません。生かすために使われるのが、せめてもの罪滅ぼしでございます」
林徳は深く頭を下げた。
戦盤の上で銭弼の駒が、ただの「保護対象」から「資金源」へと、もう一つの役割を持って動いた。
◇ ◇ ◇
家の戸を引いた。
土間の奥、薄い夕日の中で、母と雪麗が並んで縫い物をしていた。
母の頬には二月前にはなかった血の気があった。
戸が開いた瞬間、雪麗の目が見開かれた。
「……徳殿」
「ただいま戻りました」
雪麗は針を置き、ゆっくりと立ち上がった。
母も顔を上げた。
二人とも林徳が連れてきた見知らぬ男を見て、わずかに身構えた。だが関明慶の姿を認めると、母の表情がほっと緩んだ。
「徳。──ご無事で」
「母上もお変わりなく」
林徳は土間に入りながら銭弼を振り返った。
「皆さま、ご紹介申し上げます。こちらは銭弼さま。玄朝中央、戸部の元三等官でいらっしゃいます。──事情あって、しばらく私の家でお過ごしいただくことになりました」
雪麗の眉がわずかに動いた。
「玄朝中央」という言葉に、彼女自身の過去が反応した。
「銭弼さま、こちらが私の母、そしてこちらが雪麗さま。明国の元士族で、いまは私の家でお世話になっておられます」
銭弼は深々と頭を下げた。
「銭弼にございます。突然のご無理をお赦しください。お世話になります」
母がわずかに笑った。
病み上がりの体でゆっくりと身を起こした。
「徳のお客さまでいらっしゃるなら、私たちのお客さまでもあります。──貧しい家でございますが、どうぞお楽になさってください」
銭弼の目がわずかに潤んだ。
四年、袁派の手駒として地方を回りながら、こんな素朴な歓迎を受けたことがなかった。
粗末な土間、痩せた母、ぼろの衣の姫。──だがここに、人として迎えられる温かさが確かにあった。
「……ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
その夜。
囲炉裏の前に五人が座っていた。
母、林徳、関、雪麗、銭弼。
粥が土鍋から、それぞれの椀に注がれた。
銭弼は両手で椀を受け取り、しばらくその粥を見つめていた。
米の粒は数えるほど。半分以上は雑穀。色は灰色で、匂いも質素。
淮陽で出されていた宴席の白米と比べれば、貧しいの一語に尽きる粥だった。
だが銭弼はゆっくりと口に運んだ。
「……美味しい」
誰も何も言わなかった。
ただ雪麗が銭弼の方を見て、わずかに頷いた。
雪麗もまた宮中の白米を当たり前に食べていた女だった。その彼女が二月前から、この村の灰色の粥を食べている。彼女には銭弼の「美味しい」の意味が、誰よりも分かっていた。
「林徳どの」
粥を半分ほど食べたところで銭弼が口を開いた。
「あなたはこの村を、どうなさるおつもりですか」
「……どう、と申しますと」
「五人増えました。私と雪麗さまと、いずれ趙どの一行四人と桃どの。十名近くが新しく加わります。この村の畑では、もう養えますまい」
関と雪麗の目が林徳に向いた。
林徳は粥を一口飲んでゆっくりと答えた。
「左様でございます。──だからこの村を変えねばなりません」
全員の目が見開かれた。
母だけがわずかに微笑んだ。母にだけは、息子の中の「四十年の魂」が何かを始めようとしていることが見えていたのかもしれない。
「変える、というのは」
「銭弼さま。前世──いえ、まあ、ある書物の話でございますが、貧しい村を富ませるには三つの段階がございます」
林徳は囲炉裏の灰の上に、また細い枝で図を描き始めた。
「第一段階。畑の生産量を上げる。第二段階。村が作るものを外に売る。第三段階。外から人と銭を呼び込む」
「……」
「第一段階だけでは人口の増加に追いつきません。第三段階まで行って初めて、貧しい村は貧しさから抜け出せます」
銭弼は戸部の役人の顔で、図をじっと見つめていた。
「林徳どの。──それは玄朝の戸部でも、机上では論じられる地方再興の理論です」
「左様でしょうか」
「ですが机上の論で終わっております。実地に行えた者は玄朝中央にも、ほとんどおりません」
「ですから私たちがやります」
林徳は淡々と告げた。
関の目が林徳を見ていた。
雪麗の目も林徳を見ていた。
◇ ◇ ◇
(……俺、また口だけで大きいこと、言ってるな)
林徳は内心で苦笑した。
四十年の社畜の癖だ。客先で勢いで「やります!」と言ってしまう。そして社内に戻ってから青ざめる。
──だが今回は青ざめていなかった。
頭の中の『戦盤』がすでに、第一段階の戦略を組み始めていた。
(畑の生産量を上げる。──前世の知識を使う。輪作、肥料、水路。連作障害を避けるための作物の組み合わせ。明国の南は米と麦の二期作が、できる気候のはず。だがこの村は米しか作っていない。麦を入れれば収穫の効率が上がる)
(肥料は家畜の糞を発酵させる。前世で読んだ農業の本に書いてあった。雪麗さまにお願いして、村中の家畜の管理を見直してもらう)
(水路は村の北、丘から引いてくる。距離は四百歩。男手十人で二月あれば引ける。──関どのと趙どのたちが合流すれば可能だ)
林徳の戦盤は四十年の社畜の頭の中で、すでに第一段階の実行計画をほぼ完成させていた。
もう一つ。
(村の長老衆にまず説明する。十歳の俺の言葉だけでは動かない。母上と関どのと銭弼さまの存在をフル活用する。母上は村で慕われている。関どのは武人の威厳がある。銭弼さまは元・玄朝の役人。──三人の威光を借りて、長老衆を説得する)
四十年の営業の知見が自然に口を動かしていた。
社内政治で「直接交渉」より「権威の借用」が、何倍も効くことを、林健一は痛いほど知っていた。
◇ ◇ ◇
「皆さま」
林徳は粥の椀を置いた。
「明日の朝、村の長老衆にお話を伺いに参ります。皆さまにはお同行を、お願いしてもよろしいですか」
「主、私は当然でございます」
「徳殿、私もご一緒します」
「……林徳どの。私のような者でよろしいのですか」
「銭弼さまの存在は、村の長老衆にとって重要でございます。戸部の元三等官が私の家にお客としていらっしゃる。──それだけで長老衆の私への評価が変わります」
「……私を利用される、ということですか」
「左様でございます」
林徳は平然と答えた。
「銭弼さまは私の家の客人であり、村の再興の資金提供者であり、そして長老衆を説得するための権威でもいらっしゃいます。お一人で三役、お引き受けいただく、ということでございます」
銭弼がしばらく林徳の顔を見つめた。
そしてわずかに笑った。
「……林徳どの。あなたは本当に十歳ですか」
「……銭弼さま。先ほどから皆さまに、同じ質問を頂戴しております」
「いえこれで何度目かは、もう覚えておりません」
関と雪麗がわずかに笑った。
母までもが息子を見ながら、目を細めて笑っていた。
(……ああ、いい光景だな)
林徳の中で四十歳の魂がふと、温かくなった。
社畜時代、こんな光景はなかった。一人暮らしのアパートでコンビニ弁当を食べながら、テレビを見ていた。家族との食卓の温もりを、四十年知らずに死んだ。
今、彼はそれを生きていた。
貧しい村の灰色の粥の前で。
異世界の十歳の体で。
◇ ◇ ◇
翌朝、林徳の家を四人が出た。
行き先は村の中央、長老の家。
長老は名を田の老人と言った。──林徳の家の遠縁にあたる、村で最も高齢の男だった。
田の家の戸を引くと、奥から白髭の老人がゆっくりと出てきた。
「……徳坊か」
「田の翁、お久しゅうございます」
「お前、北の街から無事に戻ったと聞いたぞ。──おや、後ろの三方は」
林徳は丁寧に紹介した。
関明慶、玄朝の近衛将軍家の三男。雪麗、明国の元士族。銭弼、玄朝戸部の元三等官。
田の翁の目が一人ずつ、見開かれた。
「……徳坊」
「はい、翁」
「お前、本当に十歳か」
「……」
林徳はもう答えなかった。
四人でただ微笑んだ。
「いやはや。──まあ立ち話もなんだ。中へお入り」
田の家の奥座敷で、長老衆三人が待っていた。
全員、六十を越えた老人だった。
林徳は深々と頭を下げた。
「翁方。本日、お頼みのことがございまして参じました」
「うむ」
「この村をもう一度、栄えさせるお話でございます」
長老衆の目が見開かれた。
彼らの人生で最も貧しかった、近年の田家村。「栄えさせる」という言葉を、十歳の子供から聞くとは思いもよらなかった。
「徳坊、お前、何を考えとるんだ」
「お話を申し上げます。──まずは畑、でございます」
林徳は座敷の畳の上に紙を広げた。
関が横で墨と筆を用意した。
林徳が絵を描き始めた。
◇ ◇ ◇
二刻ほど、林徳は長老衆に語り続けた。
二期作、輪作、肥料、水路、家畜の管理、共同作業、人手の配分、収穫の見込み、税の納め方、余剰の活用。
長老衆は最初は半信半疑だった。
だが林徳が描く絵と、関の同意の頷きと、銭弼の専門的な裏付けが、徐々に長老衆を納得させていった。
「……徳坊」
田の翁が最後に口を開いた。
「お前の言うこと、確かに理にかなっとる。だがわしらだけではできんぞ。男手が足りん」
「ご心配なく、翁」
「……?」
「近いうちに淮陽から四人の男手と、その家族が村に参ります。皆、北方の旱魃で流民になった元農夫たちでございます」
「ほう」
「さらに銭弼さまの蓄えで、隣村から季節雇いの人手を雇うこともできます」
「……資金があると」
「左様でございます」
長老衆は互いに顔を見合わせた。
そして田の翁がゆっくりと頷いた。
「……徳坊。お前さんが村のためにこれだけ考えてくれとる。──わしら長老衆、お前さんに村の采配をお任せしよう」
林徳が深々と頭を下げた。
「ありがたきお言葉。──ですが采配は皆さま方がお持ちください。私はお知恵をお貸しするだけでございます」
「いや徳坊。──それでは足りん。お前さんがしっかりと舵を握ってくれ」
「……翁」
「お前さんはお父御の血をよく引いとる。お父御がご隠居なされて以来、わしらは長らくこの村に、本当の指揮を執れる者を求めとった。──お前さんがそれだ」
林徳はしばらく答えなかった。
四十年の社畜の頭の中でまた、あの声が響いた。
(出世する気なんてないんだけどな……)
◇ ◇ ◇
その日の夕方、林徳は家の縁側に一人で座っていた。
夕日が貧しい村を赤く染めていた。
関は関の稽古に、銭弼は雪麗と村を見て回りに行っていた。母は奥で夕餉の支度をしていた。
林徳の頭の中で戦盤はすでに、二月先、三月先、半年先の村の姿を計算していた。
第一段階の畑の改善で収穫は一・五倍に。
第二段階で余剰の麦と、雪麗のアイディアで作る何かを、淮陽の楓堂や市場に卸す。
第三段階で人を呼び込む。
今、林徳の村は三十人。
二月後、四十人。
半年後、五十人。
一年後、百人を超えるかもしれない。
(……これ、もう村じゃないな。町だ)
四十年の社畜の頭が冷静に計算していた。
町を作る、ということは、もう林徳が単なる「村人」でいられるということではない。
──町を作る者は町の責任者にならざるを得ない。
責任者になれば明国の役所に、報告をしなければならない。
報告すれば明国の若き君主の耳に入る。
君主の耳に入れば林徳の名は、明国の宮中に知られることになる。
(……一歩ずつ、引きずられているな、俺)
林徳はぼやいた。
心の中で。
社畜時代、社内で「断れない仕事」を次々に押し付けられて、気がつけば出世コースから外れた、あの感覚に似ていた。
だが今回は違った。
今回は自分が、自分の意志で選んでいた。
夕日が赤く燃えていた。
林徳はゆっくりと深く息を吐いた。
まだ彼は知らない。
半年後、田家村は明国の南で最も注目される村の一つになり、その噂が若き君主・夏明国王の耳に初めて届くことを。
そして夏明国王が林徳という名の十歳の少年を、その目で確かめに来ることを。
─ 第十話 了 ─
次回、第十一話「畑、輪作、新しい水路」




