第十一話 ─ 畑、輪作、新しい水路
【前回までのあらすじ】
林徳は銭弼を伴い田家村に帰着。玄朝の戸部の元三等官が、貧しい村の灰色の粥を「美味しい」と言って涙する。囲炉裏端で林徳は宣言した──この村を変える、と。「貧しい村を富ませる三段階」を灰の上に描き、翌朝には村の長老・田の翁ら長老衆を、関と銭弼の権威を借りて説得。村の采配を、十歳の少年に託す決断が下された。しかしその決断は、林徳の物語をただの「貧しい村」から、明国南部の注目される町へと、引きずり上げ始める。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。中身は四十歳の元法人営業マン
関明慶 主人公の最初の家臣。元・玄朝近衛将軍家の三男
雪麗 亡国の姫。林徳の家で母と暮らす
銭弼 元・玄朝戸部の三等官。袁派から離反、村の再興資金提供者
田の翁 田家村の長老。村の采配を林徳に託す
趙 元山賊の頭領。淮陽から村へ合流予定
徐 趙の元手下。淮陽から村へ合流予定
桃 趙の五歳の娘。楓老師の元から村へ合流予定
夏明国王 明国の若き君主(未登場)
袁派 玄朝中央の最大派閥
翌朝。
林徳は朝もやの中、家を出た。
今日からの作業の段取りを、頭の中の戦盤の上で何度も検証していた。
貧しい村を富ませる第一段階──畑の生産量を上げる。書物の中の理論を、現実の土の上に降ろす。これが林徳の初めての本格的な内政の試みだった。
(……社畜時代の俺なら、絶対に手を出さない領域だな)
林徳は内心で苦笑した。
法人営業の仕事は「人が作ったものを売る」だった。「作る側」の仕事に口を出すことはなかった。生産現場の常識を知らないし、知ろうともしなかった。──だが今、彼は「作る側」の責任者になっている。
(……知らないことを知ったかぶりで命令しない。これだけは守ろう)
社畜時代の苦い記憶があった。
現場を知らない上司が机上の論で指示を出し、現場の士気が一気に崩れるあの光景。林徳はその上司にだけはなりたくなかった。
「徳殿」
背中から声がした。
雪麗だった。彼女もすでに起きていて、林徳の後を追ってきた。
「雪麗さま。お早いですね」
「これから村を見て回るのでしょう? 私もご一緒します」
「……ありがとうございます」
雪麗の目には好奇心と、少しの覚悟があった。
亡国の姫として宮中で暮らしていた女が、いま貧しい村の畑の朝もやの中に立っている。彼女もまた自分の知らない世界を、知ろうとしていた。
◇ ◇ ◇
村の畑は村の南、川の手前に広がっていた。
全部で三十枚ほど。一枚あたり、せいぜい家の畳十枚分の小さな畑だった。
林徳と雪麗、それに途中で合流した関の三人は、畑を一枚ずつゆっくりと見て回った。
「主」
「はい、関どの」
「畑の土の色が、ところどころ違いますね」
「左様でございます」
林徳の頭の中の『万書の眼』が、前世で読んだ農業書の頁を運んできた。
土の色の違いは肥沃度の違いだ。黒に近い土は腐葉土が多く豊か。茶色に近い土は痩せている。
「肥えた土の畑と、痩せた土の畑が入り混じっております。──これは長年、同じ畑で同じ作物を作り続けた結果でございます」
「……同じ作物を、ですか」
「米でございます。この村は米しか作っていない。年に一度、米を作って刈り取って、また米を作る。──土が休む暇がない」
関と雪麗が頷いた。
その横で、畑の畦を歩いていた村の老婆が、林徳の話を聞いていた。
「徳坊」
老婆が声をかけてきた。
「お前さんの言うこと、わしには分からん。米しか作らんのは、それしか食えんからじゃ」
「……はい、翁の婆さま」
林徳は丁寧に頭を下げた。
四十年の社畜の頭が瞬時に動いた──ここで「米だけじゃダメです、麦も作りましょう」と言えば、老婆は反発する。長年の生活の知恵を否定された、と感じる。
社内で若手の頃に何度も繰り返した失敗のパターンだった。
林徳は別の角度から入った。
「翁の婆さま。──米と一緒にもう一つの作物を作ると、米の収穫も増える、という話を、聞かれたことはございますか」
老婆の眉がわずかに動いた。
「……何だい、それは」
「土には米が好む養分と、麦が好む養分がございます。米だけを続けると米の養分だけが減っていく。だから米を刈り取った後、麦を植えると、麦は別の養分を吸って育つ。そして麦が育つ間に、米の養分が土に戻る」
「……」
「翁の婆さま、ご経験で思い当たることはございませんか。同じ畑で同じ作物を、何年も続けると、収穫が減っていく、と」
老婆はしばらく考えた。
そしてゆっくりと頷いた。
「……ある。確かにある。畑によっちゃ、十年前は籾が一升取れたところが、今は半分も取れん」
「左様でございます。それが土の養分が片寄った結果でございます」
雪麗が横で、感心したように林徳を見ていた。
関は黙って林徳のやり方を観察していた。
(……主は命令しない。問いを立てて、相手に気づかせる)
関の中で林徳という主が、また一段深く見えていた。
◇ ◇ ◇
林徳はその日の朝のうちに、村の畑の地図を紙に写し取った。
戻ってから家の囲炉裏端で、四人で地図を囲んだ。
林徳、関、雪麗、銭弼。
「皆さま。私が考えている、村の畑の新しい使い方でございます」
林徳は地図の上に三色の印をつけ始めた。
「赤い印の畑は、いま米を作っている畑のうち、土が痩せている畑。──これらは麦に切り替えます」
「青い印は肥えている畑。──これは米のままで続けます」
「黄色の印は、いま休んでいる畑。──ここに豆を植えます」
銭弼の目が見開かれた。
「林徳どの。──豆、ですか」
「左様でございます」
「明国の南部で豆を育てるのは稀でございます。──しかしご存知でいらっしゃいましたか。豆は土を肥やします」
林徳は淡々と説明した。
「豆は根にある働きを持っております。詳しい仕組みは私も書物で読んだ知識でしかございません。──ですが結果として、豆を植えた畑は、その後、他の作物がよく育ちます」
「……」
「ですから痩せた畑にまず豆を植える。次の年その畑に麦を植える。さらに次の年、米を植える。──三年で一つの畑を回します。これを輪作と申します」
雪麗が静かに口を開いた。
「徳殿。──それは前世の知識、ですか」
林徳が一瞬、固まった。
雪麗はもう、林徳が「ただの十歳の子供ではない」ことを、二月の同居の中で確信していた。だが今までは、それを口にしたことがなかった。
「……雪麗さま」
「徳殿。私はあなたの正体を問いません。ただ、知っているということだけお伝えしておきます」
雪麗の声は穏やかだった。
「あなたが母上を救うために北の街へ行かれた頃から、私は感じておりました。十歳の少年が口にする言葉ではない、と。──ですが私はあなたを信じます。あなたが誰であれ、あなたの行いは本物です」
林徳はしばらく何も言えなかった。
四十歳の魂がまた、揺れていた。
社畜時代、彼は「自分を見抜いてくれる人」を心の底でずっと求めていた。誰も見てくれなかった、誰も気づいてくれなかった、自分の本当の姿を。
いま、雪麗が見ていた。
それも優しく、責めずに、ただ認めて。
「……ありがとうございます。雪麗さま」
林徳は深く頭を下げた。
関と銭弼は無言で、二人のやりとりを聞いていた。
◇ ◇ ◇
「では続けます」
林徳は地図にもう一つの印を加えた。
「水路、でございます」
「水路、と申しますと?」
「銭弼さま、ご記憶ですか。村の北、丘の麓に小さな谷川が流れていました」
「ええ、見ました」
「あの谷川の水を、村の畑まで引いてくる、ということでございます」
銭弼が目を見開いた。
「林徳どの、それは──距離がありませんか」
「四百歩、ほどでございます」
「……四百歩」
「男手十人で二月あれば引けます。地形を見ましたところ、ほぼ自然に水が流れる勾配がございます。大規模な土木工事は不要でございます」
銭弼がしばらく地図を見つめた。
戸部の役人として、地方の水路工事の費用と効果を、書類の上では何度も見てきた。林徳の言う「四百歩、二月、男手十人」は、現実離れしていないか、と一瞬疑った。
だが林徳の計算には根拠があった。
「林徳どの。──土木の図面、お引きでいらっしゃるのですか」
「いえ、頭の中で組んでおります」
「……」
「銭弼さま。私の村は平地がほぼございません。緩やかな丘陵地でございます。これは水路を引くのに、実は有利な地形でございます。高い場所から低い場所へ、水を自然に流せます」
「……なるほど」
「水路ができれば、いまの畑に水が安定的に行き渡ります。米の収穫は確実に上がります。さらに新しい畑を開くこともできます」
関が横で口を開いた。
「主、男手十人。──いま村の男手は若い者を含めて、五人しかおりません」
「左様でございます。ですから趙どの一行をお呼びします。趙どの、徐どの、それから二人。合計四人。これで九人。──私が見習いとして加わって、ようやく十人でございます」
「主、あなたを土木に加えるのは」
「関どの。十歳の体でもできる、軽い作業はございます。私は現場を知らねばなりません。社畜……いえ、前世の知識だけでは無理がございます」
関はしばらく林徳を見つめた。
そして深く頷いた。
「……承知いたしました。私もご一緒に土を運びます」
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、林徳は銭弼と二人で、村の北の丘へ登った。
谷川の水量を改めて確かめるためだった。
丘の上から貧しい村を見下ろした。
夕日が土壁の家々を赤く染めていた。
「林徳どの」
「はい、銭弼さま」
「あなたは本当に、この村を変えるおつもりですか」
「左様でございます」
銭弼はしばらく村を見ていた。
そして絞り出すように言った。
「私は戸部で地方再興の書類を、何百枚と見てきました。──ですがほとんどの地方が変わりませんでした」
「……」
「なぜ変わらなかったか、お分かりですか」
「……銭弼さま、お聞かせください」
「指揮を執る者が、私利私欲を捨てきれなかったからでございます。再興の予算を自分の懐に入れる役人。村人を自分の手駒として使う豪族。──皆、最後は自分のためでした」
林徳は夕日を見ていた。
貧しい村が赤く燃えていた。
「銭弼さま」
「はい」
「私も私利私欲がないわけではございません。母上の薬代を稼ぎたいという願いから、すべては始まりました」
「……」
「ただ私の願いは村と矛盾しません。村が栄えれば母上の薬代も、永続的に賄えます。村と私は一つでございます」
銭弼が深く頷いた。
「……林徳どの。あなたは戸部の高官が何百人いてもできなかったことを、十歳の体でやろうとなさっている」
「……」
「私はお役に立つためにここにおります。何なりとお命じください」
「銭弼さま」
「はい」
「ではお願いがございます。新しい水路、新しい輪作、新しい畑。──これらの収支の書類を、作っていただけますか」
「……収支の書類?」
「左様でございます。一年目、二年目、三年目の収穫の見込み、人手の費用、種の費用、税の納め方、余剰の活用。──全部、書類に起こします。戸部のやり方で」
銭弼の目が輝いた。
戸部の四年で、彼が最も得意としていた仕事だった。
「……承知いたしました。林徳どの。──腕の見せどころでございます」
◇ ◇ ◇
その夜、家の囲炉裏端で、林徳は雪麗にもう一つの相談を持ちかけた。
「雪麗さま」
「はい」
「畑のことは男手が中心でございます。──ですが村には女手も半分おります。彼女たちに、何か別の仕事をお願いしたいのです」
「……女手にですか」
「左様でございます。雪麗さまにお力をお借りしたい」
林徳は雪麗の前に紙を広げた。
「明国の南部の女性が得意とする仕事を考えました。──布、でございます」
「布?」
「明国の南部は麻や綿がよく育ちます。村の女手で麻や綿を織り上げ、布として淮陽の市場に卸す。──これが私の考えでございます」
雪麗が目を見開いた。
「徳殿。──私は宮中で、布の織り方を学んでおりました」
「……存じております」
「徳殿、あなたはいつから、私のその知識をご存知でしたか」
「……二月、お暮らしになる中で、雪麗さまの縫い物の見事さを、何度も拝見いたしました。あの腕はただの女官のものではない、と感じておりました」
雪麗はしばらく林徳の顔を見つめていた。
そしてわずかに笑った。
「……徳殿。あなたは人を、よくご覧になるのですね」
「四十年の癖でございます」
言ってしまってから、林徳は固まった。
雪麗の口元がわずかに緩んだ。
「……四十年、ですか」
「……あ、いえ、その」
「徳殿。──ご心配なく。私は申し上げました通り、あなたを信じております」
雪麗の頬に夕日の名残のような、わずかな赤みが差していた。
雪麗は続けた。
「私が村の女手を率いましょう。布を織りましょう。──徳殿のお役に立ちたいのです」
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
その夜、林徳はなかなか眠れなかった。
夜具の中で、頭の中の戦盤が勝手に未来を計算していた。
(畑の改革。男手の確保。水路の建設。布の生産。淮陽との交易。──全部が噛み合えば、半年で村の収入は三倍になる。一年で五倍。二年で十倍)
(だがリスクはたくさんある。気候の不順。袁派の襲来。隣村の反発。村の中の年寄りたちの抵抗)
(俺、本当にこれを、やり切れるのか?)
四十歳の苦労人の頭の中で、社畜時代の青ざめた夜が繰り返されていた。
大きな仕事を引き受けた夜。
眠れず、不安で、何度もベッドの上で寝返りを打った夜。
あの感覚がいま、十歳の体の中で再現されていた。
(……でも引き受けたんだ。逃げるわけにはいかない)
林徳は目を開けて、夜具の隙間から天井を見上げた。
梁の影が月光に揺れていた。
まだ彼は知らない。
淮陽の趙が林徳の手紙を受け取り、五日後、四人の男手と桃を連れて村に到着すること。
そしてその合流のわずか十日後、村に最初の試練──近隣の豪族からの嫌がらせが始まることを。
貧しい村が栄えようとする時、必ず栄えさせまいとする者が現れる。
四十年の社畜は、それを痛いほど知っていた。
─ 第十一話 了 ─
次回、第十二話「趙、村に到る」




