第七話 ─ 反間の計、淮陽に咲く
【前回までのあらすじ】
母の薬を煎じ、亡国の姫・雪麗を匿った林徳。平穏な二月が過ぎた頃、淮陽から徐が転がり込んできた。元山賊の趙が、玄朝中央から派遣された新しい役人に「五年前の農民反乱の首謀者」として捕らえられ、三日後に処刑されるという。林徳の戦盤は事件の真相を見抜いた──玄朝中央が北方民を「狼の燕王と通じる者」として狩り始めている。林徳は関と徐を伴い、月光の街道を北へ急ぐ。彼が組み上げた計略の名は『反間計』。
夜明け前、林徳と関と徐は、淮陽の城門の手前、街道脇の林にいた。
月はすでに西に傾き、東の空がうっすらと白み始めていた。
関が林徳を地面に下ろした。十歳の体は夜通し背負われて運ばれたにも関わらず、頭の中の『戦盤』だけは冴え冴えと動いていた。
「主。──ここからはどう動かれます」
「関どの。一つだけ伺います」
「はい」
「玄朝の近衛将軍家・関氏の三男の名は、いま玄朝中央のどの程度の役人が知っておりますか」
関はしばらく考えた。
「……家を取り潰されたのは三年前。あの頃、私の名を知っていた者は宮中の上層、おそらく数十人。半年前の追放令で私の人相書きが地方に回されたはずです。淮陽の役所にも写しが届いているでしょう」
「結構でございます」
林徳の戦盤の上で、計略の最後の駒が嵌った。
頭の中の『万書の眼』が、三国志演義の一節を運んできた。前世で二百回読んだ書だ。林徳は無意識のうちに、その一節を口にしていた。
──『反間の計、敵に疑念あらしむれば、敵自ずから乱る』
(……周瑜が蒋幹を使って、曹操に蔡瑁・張允を斬らせた、あの計だ)
反間計。
敵の中に疑念を投げ込む。
疑念が育てば敵は自ら、自分の手で、自分の駒を斬る。
◇ ◇ ◇
「関どの、徐さま。これからの段取りをお伝えします」
林徳は地面に細い枝で、簡単な図を描き始めた。
まず大きな四角を描いた。
「これが淮陽の役所でございます」
次にその隣に小さな四角を描いた。
「これが玄朝中央から派遣された役人の滞在する宿。関どの、ご存知のはず。淮陽の役人は普通、役所の奥に住みます。中央からの派遣者は外部の宿に住む。それが慣わしです」
「左様です」
「敵──仮に『主計官』と呼びましょう──は、五年前の北方旱魃の流民を、片端から捕らえている。表向きは『反乱首謀者』として。実際の目的はおそらく、北の狼との関係を疑った『北方民狩り』」
徐がぼそりと呟いた。
「俺たち、狼となんて、関係ねえですよ……」
「左様でございます。捕らえられた方々のほぼ全員が無実でございます。──だからこそこの計略が効きます」
「……」
「主計官は、自分のしていることが『冤罪を量産している』ことを知っております。なぜなら捕らえても、誰一人として狼との繋がりの自白が出てこない。それでも続けている。──理由はおそらく、玄朝中央のある派閥への功績作りでございます」
関がわずかに頷いた。
「『北方民を百人捕らえました』という、数の報告が欲しいだけ、ということですか」
「正解でございます」
林徳は、図の上に新しい線を描いた。
「ではここで一つの可能性を、主計官の頭の中に植え付けます」
「……どんな可能性を?」
「『捕らえた者の中に、本物の狼の間諜が紛れている』、という可能性でございます」
関と徐が目を見開いた。
林徳は淡々と続けた。
「数だけ集めて中央に報告したい主計官にとって、本物の間諜が混じることは最悪の事態です。もし後で、本物の間諜だけが処刑されずに釈放されていたと分かれば、主計官の首が飛びます。──だから主計官は必ず、捕らえた者全員をもう一度丁寧に、洗い直さねばならなくなります」
「……時間を稼げる」
「左様でございます」
関がようやく、林徳の計の輪郭を掴んだ。
「処刑は三日後。私たちが介入できる猶予は極めて短い。だが洗い直しが入れば処刑は最低でも十日、延びる。その十日で私たちは別の手を打てる」
「……主」
「私と関どのと徐さま、三人で動きます」
◇ ◇ ◇
淮陽の城門が開いて間もない時刻。
林徳はまず一人で楓堂を訪れた。
関と徐は街の外で待機させた。──今回の動きは敵に「楓堂とは無関係」と思わせる必要があった。
「……徳坊」
楓老師は林徳の顔を見て、すぐに何かを察した。
「ただ事ではないな」
「御老師。お詫びと、お願いを申し上げに参りました」
林徳は深く頭を下げた。
「私の知人が淮陽の役所に、無実で捕らえられました。彼を救うために、私は淮陽の街をもう一度、お借りせねばなりません」
「……」
「今度の計略は空城計のような、街全体を巻き込むものではございません。私と関と捕らえられた者の知人、三人で動きます。御老師にはたった一つだけ、お頼みしたいことがございます」
「言うてみい」
「主計官の宿、つまり玄朝中央から派遣された役人の宿の場所と、彼が誰と頻繁に会っているかを、お調べいただけますか。御老師の四十年の人脈で、それくらいはおそらく」
楓老師はしばらく、林徳を見つめた。
そしてゆっくりと笑った。
「……坊や。お前さん、また何か面白いことを考えとるな」
「面白いかどうかは分かりません」
「いや、面白い」
楓老師は薬研を横に置いた。
「半日待っとれ。わしが聞いてきてやる」
「ありがとうございます。──ただし御老師、絶対にご自身は表に立たれぬよう」
「分かっとる。年寄りは年寄りの遊び方がある」
◇ ◇ ◇
半日後、楓老師は林徳の前に紙片を一枚置いた。
「主計官の名は銭弼。歳は三十五。玄朝中央、戸部の三等官だ。淮陽に来て一月。宿は市場北の『陽明楼』。──そして頻繁に会っている相手が、面白い」
「……どなたですか」
「淮陽の軍兵を統べる、地方軍尉。名は孫巴。歳は五十二。──こちらは地元の有力者だ」
林徳の戦盤が瞬時に回転した。
(中央派遣の主計官と地方軍尉が、頻繁に会っている。──これは二つの可能性がある)
(一つ。主計官の北方民狩りを、地方軍尉が軍事的に支援している)
(二つ。地方軍尉が別の思惑で、主計官に近づいている)
林徳は楓老師にもう一つ問うた。
「孫巴さまの評判はいかがでございますか」
「……これがまた面白い」
楓老師は笑った。
「孫巴は玄朝中央のやり方を、内心苦々しく思っとる男だ。淮陽の良心の、わしらの仲間に近い。──だが軍尉という立場ゆえ、表向きは中央の方針に従わねばならん」
「……なるほど」
林徳の頭の中で、計略の最後のピースが嵌った。
反間計、というのは敵の中に疑念を投げ込む計略だ。
今、林徳はこう動かす──
主計官・銭弼の頭の中に、「孫巴は実は狼の間諜と通じているのでは?」という疑念を投げ込む。
同時に孫巴の頭の中にも、「銭弼は自分を捕らえようとしているのでは?」という疑念を投げ込む。
二人は頻繁に会っている。会えば会うほど、お互いの言動のほんのわずかな違和感に敏感になる。やがて二人は互いに、相手を信じられなくなる。
その結果──趙を含む捕らえられた者の取り調べは、再洗い直しになる。
処刑は必ず延びる。
◇ ◇ ◇
「関どの。あなたの出番でございます」
林徳は街の外の林で、関と徐に計の最終形を伝えた。
「あなたは玄朝の近衛将軍家・関氏の三男。主計官・銭弼はおそらく、あなたの人相書きを見ております」
「……はい」
「銭弼の宿、陽明楼に、お忍びでお訪ねください。あなたは『関氏の三男だ』と名乗っていただきます」
関が目を見開いた。
「主、それは──」
「最後までお聞きください」
林徳は続けた。
「銭弼は関氏の三男を捕らえれば、玄朝中央への大きな手柄になります。彼は必ず、あなたを宿に呼び入れます。──ですがあなたは、捕まる前に彼にこう告げます。『私は孫巴の手の者だ』と」
「……?」
「『私は半年、淮陽に潜伏していた。地方軍尉・孫巴に、密かに匿われていた。だが孫巴は最近、私にある依頼をした──「玄朝中央から派遣された主計官・銭弼を、暗殺してほしい」、と。私はそれを拒んだ。だから孫巴は私を、口封じに殺そうとしている。私は逃げ場を失い、銭弼さま、あなたにご保護をお願いに参った』──と」
関の目が見開かれた。
「……主、それは」
「銭弼の頭の中で、こう動きます──」
林徳の戦盤が、相手の心の動きを図のように展開していた。
「『関氏の三男が、自分を頼ってきた。狙いの大物が向こうから来た。これで功績は確定だ。──ただ関氏の話が本当なら? 孫巴が自分を暗殺しようとしているのか? 確かに孫巴は最近、自分に近づきすぎる。様子がおかしい』」
「……」
「銭弼はあなたを捕らえます。それは必ず捕らえます。──そしてあなたを取り調べながら、同時に孫巴のことを、密かに調べ始めます」
「主、ですが、私はそのあとどうなりますか」
「銭弼はあなたを、すぐには玄朝中央に送りません。なぜならあなたが持つ『孫巴の暗殺依頼』という情報は、銭弼にとって極めて貴重だからです。彼はあなたを長く生かしておきます。証言を引き出すために」
「……」
「その間に私たちは、もう一手打ちます」
◇ ◇ ◇
「徐さま」
「は、はい!」
「あなたは私の指示通り、淮陽の街のある人物に、一通の手紙を届けていただきます」
林徳は紙と筆を楓老師から借りていた。
地面に座って慎重に文字を書いた。
万書の眼が玄朝の公文書の文体を参照していた。──四十年生きた営業マンは、本物そっくりの稟議書を書くスキルを持っていた。
『地方軍尉・孫巴 殿
拝啓。
貴職が玄朝中央から派遣された主計官・銭弼の北方民狩りに、表向き協力されておられること、深く承知しております。
しかしながら銭弼は近頃、貴職を北方民との関わりを疑う方向で、調査を進めております。
明日にも玄朝中央への密書が、彼の手から送られる予定です。密書の内容は「地方軍尉・孫巴は、北方民と通じている疑いがある」というものでございます。
貴職におかれましては、十分なるご警戒を。
淮陽を愛する、一人の良心、より』
林徳は文をたたんだ。
「徐さま。これを孫巴さまの屋敷に届けてください。届け方は軒先にこっそりと置くだけです。誰が届けたか、決して見られぬように」
「……承知しました」
「これで孫巴の頭の中に『銭弼は自分を疑っている』という疑念が植えられます。同時に銭弼の頭の中にも、関どのの証言で『孫巴は自分を暗殺しようとしている』という疑念が植えられる。二人はこれからお互いに、慎重にお互いを観察し始めます」
徐は紙を両手で握りしめた。
「徳殿。あんた、本当に十歳なのか……」
「先ほどから皆さまに、同じ質問を頂戴しております」
林徳は苦笑した。
社畜時代に上司にも客先にも、何度も同じ顔で言われたものだった。──「お前、本当にここまで考えてるのか」、と。
◇ ◇ ◇
夕方。
関は陽明楼にお忍びで訪れた。
手筈通りに銭弼に、自分を「関氏の三男」と名乗った。
手筈通りに孫巴の「暗殺依頼」を語った。
銭弼はまさに林徳の予想通り、関を宿の地下室に捕らえた。そして深夜、密書を一通書いた。宛先は玄朝中央ではなかった。──孫巴の屋敷をこっそりと見張るための、密偵への指示書だった。
同じ頃。
孫巴の屋敷の軒先に、林徳の書いた一通の文が届いていた。
孫巴は文を読み、しばらくぼう然と立ち尽くした。
そして深く息を吐いた。
彼は心の底では、玄朝中央のやり方を嫌っていた。北方民狩りに表向き協力しているのも、立場上、仕方なくのことだった。──だが今、その「表向きの協力」が銭弼の中で、別の意味を持ち始めている、という。
孫巴は深夜、自分の屋敷を密かに出た。
行き先は陽明楼の銭弼の宿だった。
──直接、銭弼に会って確かめねばならぬ、と。
ところが、銭弼の宿の周りには、密偵がすでに配置されていた。
孫巴は宿の手前で立ち止まった。
(……やはり見張られている)
彼の頭の中で、文の内容が確証へと変わった。
同じ頃、銭弼の宿の地下では、銭弼自身が関の証言を聞きながら考えていた。
(孫巴が外で、何かしている。──私の宿の周りに、誰かが近づいている)
二人はお互いに、お互いの最悪の動きを確認しあった。
反間計が咲いた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
淮陽の役所では、急遽、北方民の取り調べがすべて再洗い直しになる、という決定が銭弼から下された。
処刑予定の三十名のうち、最も先に処刑されるはずだった一人──趙の名は、最後尾に回された。
市場の片隅、楓堂の二階の窓から、林徳と楓老師はその報告を聞いていた。
「……坊や」
「はい」
「お前さん、本当に本当に十歳か」
「……御老師。先ほどから皆さまに、同じ質問を頂戴しております」
林徳はわずかに笑った。
苦労人の四十歳の達観した笑みだった。
戦盤の上で、駒の動きが林徳の計算通りに収まっていた。
だがその夜、宿の薄い夜具の中で、林徳は目を開けていた。
頭の中の『戦盤』が勝手に、自分の打った計の後始末を検証していた。
(……銭弼はいずれ、関どのの証言が嘘だと気づく。三日か五日か十日か。気づいた時、銭弼は激しく報復しようとする。私はその前に、関どのを救い出さねばならない)
(孫巴もいずれ、文が誰かの仕掛けだったと気づくかもしれない。気づかれた時、孫巴の怒りは私に向く)
(俺、また運に頼った計略を組んだな。──空城計の時と同じだ。本当に軍師の手口じゃない)
四十歳の苦労人が、十歳の体の中で冷や汗を流していた。
社畜時代に客先で勢いで「やります!」と言って、後で夜中にベッドの中で青ざめた、あの感覚によく似ていた。
関は地下室で、銭弼に嘘の証言を続けている。
趙はまだ牢の中だ。
計略の本番はまだ、これから始まる。
まだ林徳は知らない。
関が地下室で銭弼と相対する間に、ある衝撃の事実──銭弼の背後にいる玄朝中央の派閥が、実は関の父・関子陽を毒殺した、その派閥そのものであることを知ることになる、ということを。
そしてその事実が、林徳の物語をただの「趙救出」から、関明慶の家門の復讐へと巻き込んでいくことを。
─ 第七話 了 ─
次回、第八話「地下室の、関明慶」




