第六話 ─ 春の便り、村に届く
【前回までのあらすじ】
母の元へ帰り着いた林徳。淮陽から持ち帰った薬「春枸」を煎じ、母に飲ませた。母の頬に、わずかに、血の気が戻る。同行した亡国の姫・雪麗は、明国の宮中の派閥争いから逃れた身であることを明かし、林徳の保護下に入った。囲炉裏端で、林徳は灰の上に三国の地図を描き、関と雪麗に「これから何が起きるか」を語った──そして、彼自身がまだ気づいていない、雪麗の抱える「もう一つの秘密」が、物語を動かそうとしていた。
二月、経った。
春枸は、母の体に、ゆっくりと、効いていた。
最初の十日で、頬に血の気が戻り、次の十日で、体を起こせるようになった。一月が過ぎる頃には、母は、土間まで歩いて、雪麗と並んで、簡単な縫い物まで、できるようになっていた。
林徳は、二日に一度、母の脈を診た。
四十年生きた林健一の手が、十歳の少年の指先を通して、母の手首に、触れる。前世で、亡くなる前の母の手を、握れなかった。その後悔が、いまの林徳の指先を、慎重に、優しく、動かしていた。
「徳」
「はい、母上」
「お前、本当に、どこで、医術を覚えたんだい」
「……書物にて、独学でございます」
「嘘ね」
母は、静かに、笑った。
その笑みに、わずかに、悲しみが、混じっていた。
「……お前は、十日前に北の街から戻ってから、別人のようだよ」
林徳の胸の奥が、わずかに、痛んだ。
四十歳の魂は、こういう時、いつも、答えに、詰まる。
(……いずれ、話さなきゃ、いけないんだろうな。母上に。──でも、何を、どう、話す? 「俺は、四十歳の社畜の魂で、お母さんの本当の息子は、十歳の時、私の魂に上書きされて、消えました」、なんて、言えるか?)
林徳は、ただ、笑い返した。
苦労人の四十歳の、達観した笑みだった。
「……母上。私が、誰であろうと、母上を、お慕いしていることは、変わりません」
母は、しばらく、息子の顔を、見つめた。
そして、ゆっくりと、頷いた。
「……そうかい。それなら、いいよ」
それ以上、母は、聞かなかった。
その代わり、林徳の頭を、優しく、撫でた。
十歳の体の中で、四十歳の魂が、また、泣きそうになった。
(……ずるい。母上は、いつも、ずるい)
◇ ◇ ◇
雪麗は、村に、すっかり、馴染んでいた。
最初の数日は、宮中の女官だった所作が、どうしても出ていた。だが、二月も経つと、ぼろの衣を当然のように着て、井戸で水を汲み、母の縫い物を手伝い、林徳の家事の段取りを、淡々と、こなしていた。
ある夕方、井戸端で水を汲んでいた雪麗が、林徳に、ふと、言った。
「……徳殿。私、宮中にいた頃より、今の方が、生きている、と、感じています」
「……」
「不思議です。お米一粒の値段すら、知らなかった私が、いま、井戸の水の重さで、一日の体力を、計っています」
「お疲れになりませんか」
「いいえ」
雪麗は、わずかに、笑った。
その笑顔は、街道で倒れていた、誇り高き女のものでも、宮中の女官のものでも、なかった。普通の、二十歳の、女の笑顔だった。
「徳殿。──ありがとう」
「……いえ」
林徳は、また、何か言いそうになって、口を閉じた。
社畜の癖で、こういう感謝には、すぐに「いえいえ、こちらこそ」と返してしまう。だが、雪麗の「ありがとう」は、社交辞令ではなかった。林徳は、それに、ちゃんと、向き合うべきだった。
「……雪麗さま」
「はい」
「お礼を、申し上げるのは、私の方でございます。母上が、こんなに早く、回復しているのは、雪麗さまが、お傍に、ついてくださっているからでございます」
雪麗の頬が、わずかに、染まった。
春の、夕日の、せいだけでは、なかった。
◇ ◇ ◇
関は、毎朝、村の外の野原で、刀の稽古をしていた。
彼の動きを、林徳は、家の縁側から、何度も、観察した。
戦盤と万書の眼が、関の動きを、勝手に、分析していた。
(……関どの、強い。明らかに、宮中の近衛、上位の武人の動きだ)
(剣の運び、足の運び、呼吸。一つ一つが、無駄なく、洗練されている。前世でいえば、警備会社のトップ社員、ではなく、本物の軍人だ)
関は、稽古の合間に、林徳の傍に、座る。
「主」
「はい」
「あなたは、剣を、覚えませんか」
「……関どの、私は、十歳の体です。それに、戦盤と万書の眼があれば、自分で剣を振るう必要は」
「主。──軍師が、自分の刀を持たぬ、というのは、稀ではあります。ですが、自分の身を、自分で守れぬ、というのは、戦場では、致命的でございます」
関は、淡々と、続けた。
「あなたを守るのは、私の務めでございます。ですが、私が常にお傍にいられるとは、限りません。──主、せめて、短刀の扱いだけでも」
林徳は、しばらく、考えた。
戦盤が、瞬時に、複数の未来を、展開した。
──関の傍を、離れる場面。一人で動かねばならない場面。十歳の体で、短刀すら振るえなければ、どうなるか。
(……関どのの言う通りだな。社畜時代、俺はいつも、「営業マンに必要なのは話術と頭」と思ってた。だが、本当に大事だったのは、健康だった。健康を失った時、どんな知略も、役に立たない。──いま、俺の身を守るのは、最低限の自衛、ということだ)
「……関どの。お願いいたします。短刀の扱いを、ご教授ください」
「承知いたしました」
関は、わずかに、笑った。
主従の関係の中で、初めて、関が、林徳に「教える」立場に立った。
その日から、林徳は、毎朝、関と一緒に、稽古をした。
最初の一週間、十歳の体は、毎晩、悲鳴を上げた。
林徳は、夜、横になりながら、心の中で、ボヤキ続けた。
(……痛い。全身、痛い。社畜時代に、ジム通いさえ、続けられなかった俺が、なぜ、異世界で、稽古をしているのか。──いや、続けるしかない。関どのの前で、弱音は、吐けない)
◇ ◇ ◇
春が、深まった頃のことだった。
ある日の昼、林徳の家の戸を、誰かが、叩いた。
雪麗が、戸を開けた。
立っていたのは、見覚えのある、痩せた男だった。
「……あ」
雪麗が、わずかに、息を、呑んだ。
男は、痩せて、汗をかいていた。土と埃に塗れていた。だが、目には、必死の光があった。
林徳が、奥から、出てきた。
そして、その男を、見て、すぐに、思い出した。
第一話で、街道で出会った、五人の山賊のうちの一人。趙の手下だった、二十代前半の若い男。
名は──
「……徐、さま、でしたか」
「徳坊!」
徐は、土間に、崩れるように、座り込んだ。
「徳坊──いや、徳殿。お助けください。趙の兄貴が、捕まりやした」
林徳の中で、戦盤が、瞬時に、回り始めた。
「……お話を、伺いましょう。お水を、お持ちします」
雪麗が、すぐに、水を、汲みに行った。
関が、奥から、出てきた。
徐は、震える声で、話し始めた。
◇ ◇ ◇
趙が、捕まったのは、三日前だった。
淮陽の街の、北の役所に、引っ立てられた。
罪状は、「五年前の、農民反乱の、首謀者の一人」。
趙は、十日前まで、淮陽の倉庫業者で、日雇いとして、平穏に働いていた。娘の桃も、楓老師の世話で、少しずつ、回復していた。──だが、ある日、役人が、突然、彼を訪ねてきた。
罪状は、捏造、だった。
徐の言うところによれば、淮陽の役所には、新しい役人が、玄朝中央から、派遣されて来ていた。その役人が、何らかの目的で、地方の流民や、訳ありの男たちを、片端から、捕らえ始めていた。
趙は、その中の、一人に、過ぎなかった。
「……徳殿。お願いでございます。趙の兄貴を、助けてくだせえ。あの人は、ただ、桃を、守りたかっただけです。五年前の反乱だって、襲ったのは、米倉一つだけで、誰も、殺しちゃいねえ」
徐の目に、涙が、浮かんでいた。
「兄貴は──三日後、市場で、処刑される、と、聞きました」
林徳の頭の中で、戦盤が、激しく、回転した。
関と雪麗の目が、林徳に、注がれた。
長い、しかし、決して長くない、沈黙のあと、林徳は、静かに、口を、開いた。
「……徐さま。あなたは、ここまで、どのように、参られましたか」
「えっ……」
「淮陽から、ここまで、何日、かかりましたか」
「みっ、三日、です」
「兵に、追われましたか」
「いえ、たぶん、追われては……」
「徳坊──いや、徳殿、なぜ、そんなことを?」
林徳は、目を、閉じた。
戦盤の上で、何百という分岐が、瞬時に、整理されていた。
(敵は、玄朝中央から派遣された、新しい役人。「片端から捕らえている」ということは、何らかの目的で、人数を集めている。趙だけを助けても、根本は、変わらない)
(処刑まで、三日。──いや、徐がここに来るのに三日かかった。すでに、淮陽では、二日経っている。残り、一日)
(淮陽までの道のり、三日。──間に、合わない)
(だが、関どのの足なら、一日半で行ける。私は、無理だ。十歳の体)
(…………)
林徳の頭の中で、もう一つの可能性が、立ち上がった。
(待て。──「片端から捕らえている」ということは、敵には、ある目的がある。その目的を、突けば、関どの一人でも、趙を救える可能性は、ある)
林徳は、目を、開けた。
「徐さま。一つだけ、お伺いさせてください」
「な、何でも」
「捕らえられた者の中に、何か、共通点は、ございましたか? 例えば、皆、ある特定の地域から流れて来た者ばかり、とか、ある特定の身分の者ばかり、とか」
徐は、しばらく、考えた。
そして、ぼそりと、答えた。
「……そう言われれば、捕まったのは、皆、五年前の、北方の旱魃で、流れてきた者ばかり、です。趙の兄貴も、その一人。俺たちも、そうです」
林徳の戦盤の上で、答えが、はっきりと、形を持った。
(……北方の旱魃。五年前。──これは、玄朝中央が、何らかの「北方民」狩りを、している。理由は、おそらく、北の狼の動きと、関係がある。狼の燕王が、北方民との繋がりを、持っている、と、玄朝中央が、警戒している)
(つまり、これは、政治的事件だ。──だとすれば、攻める道は、ある)
林徳は、関を、見た。
関は、すでに、刀の柄に、手を、置いていた。
「……関どの。私と、一緒に、淮陽まで、参っていただけますか」
「主が、お行きになるのですか」
「左様でございます。──これは、私が、行かねば、収まらない、案件です」
「……承知いたしました」
「雪麗さま」
「はい」
「ご無礼ながら、母上を、お頼み申し上げます。私と関どのが戻りますまで、お留守を」
「ええ。──ご無事で」
雪麗の声が、わずかに、震えていた。
林徳は、深く、頭を、下げた。
そして、戸口に向かって、歩き始めた。
◇ ◇ ◇
その夜、林徳と関と徐は、街道を、北へ、急いだ。
月明かりの下、十歳の足は、すぐに、悲鳴を、上げた。
だが、林徳は、止まらなかった。
関が、途中から、林徳を、背負った。
関の背中の上で、林徳は、頭の中の『戦盤』を、回し続けていた。
趙を救う計略は、すでに、組み上がっていた。
名は──『反間計』。
敵の中に、疑念を、生じさせて、敵が自ら、誤った判断を、するように、仕向ける、三国志屈指の名計。
関の背中の上で、林徳は、低く、呟いた。
「……関どの。今度の計略は、簡単では、ございません」
「主が、お決めになったのです。私は、ただ、お傍に」
「いえ──関どの、あなたには、もう一つ、お願いを、申し上げなければ、ならなくなりました」
「……何でしょう」
「──あなたの、玄朝中央への、宿縁を、使わせていただきます」
関の足が、わずかに、止まった。
そして、ゆっくりと、また、歩き出した。
「……承知いたしました。主」
二人の影が、月光の下、北へ、伸びていった。
まだ、林徳は、知らない。
彼が、今、組み上げようとしている計略が、淮陽だけでなく、玄朝中央の、ある派閥そのものを、揺るがす火種に、なることを。
そして、その火種の煙が、いずれ、明国の若き君主の元にまで、立ち上ることを。
─ 第六話 了 ─
次回、第七話「反間の計、淮陽に咲く」




