第五話 ─ 亡き王の娘
【前回までのあらすじ】
淮陽の街で母の薬「春枸」を入手し、関明慶を伴って南へ帰る林徳。帰路、街道脇で倒れていた一人の女と出会う。整った衣、賢そうな目、武装なしの一人旅──『戦盤』と『万書の眼』が一つの可能性を告げた。「明国の宮中から逃れた、士族の方ですね」。女は息を呑み、認めた。林徳は彼女に、母の待つ我が家での一夜の宿を、申し出る。
女は、雪麗、と名乗った。
苗字は、明かさなかった。林徳も、関も、聞かなかった。
帰路、最後の半日を、三人で歩いた。
雪麗の歩みは、最初こそ覚束なかったが、林徳の竹筒の水と、関が懐から出した干し肉を分けてもらううちに、徐々に、しっかりしてきた。
(……肉、食べられるんだ。腹は減っていたが、矜持で、見せていなかった、ということか)
林徳の頭の中で、四十歳の林健一が、観察を続けていた。
飢えても、誇りを失わない女。武装はしていないが、どこかに刃物の一本くらいは、忍ばせているかもしれない。──いや、それは、考えすぎか。
(俺、考えすぎだな。前世の社畜時代、客先に行く道中で、相手の懐具合まで推測してた癖が、こんなとこで出てる)
林徳は、内心、苦笑した。
四十年の社畜の癖は、転生しても、抜けない。営業マンの観察眼は、休まない。むしろ、休めると、林徳は、何だか落ち着かない。職業病、というやつだった。
◇ ◇ ◇
日が落ちる頃、村に入った。
貧しい村だった。十軒余りの土壁の家。畑は荒れ、井戸の周りには、わずかな人影。すべて、林徳の記憶通り、しかし、十日離れていた間に、また少し、人が減ったように、見えた。
関が、横で、静かに、呟いた。
「……主。この村は」
「左様でございます。──貧しいです」
林徳は、答えた。
誇りもなく、卑下もなく、ただ、事実として。
「私の生まれた村は、明国の中でも、最も貧しい部類に入ります。三年前の旱魃で、半数が流民になりました。残った者も、いつ畑を捨てるか分かりません」
雪麗が、村を、見回していた。
その目に、何か、知っている者の、痛みのような色が、浮かんでいた。
「……あなたの、お母さまも、この村で?」
「左様です」
◇ ◇ ◇
家の戸を、引いた。
土間の奥、薄い布団の上で、母が、目を閉じていた。
頬は、出発の朝より、もう一段、こけていた。
「……母上」
林徳の声が、わずかに、震えた。
四十歳の魂は、こういう時、十歳の体の感情を、抑えきれない。十歳の身体の記憶が、母を、強く求めていた。
(……あ、まずい。涙、出そうだ)
前世の母には、ハグもしなかった。仕事に追われて、最後に会ったのは葬式だった。なのに、今、林徳の中の十歳の体は、勝手に、母に駆け寄ろうとしていた。
「徳……」
母が、薄く、目を開けた。
その目に、十日前にはなかった、深い疲れが、滲んでいた。
「……ただいま、戻りました。薬を、持って参りました」
林徳は、母の枕元に、座った。
懐から、楓老師から預かった、春枸の包みを、取り出した。
「……これが、あの」
「左様です。煎じ方は、楓老師から、しかと、教わって参りました」
手が、わずかに、震えていた。
空城計を発動する時より、強く、震えていた。
(……これ、失敗できないやつだ。火加減を、間違えたら、薬効が、消える。楓老師の説明、頭の中の『万書の眼』に、ちゃんと、入ってる、はず)
林徳は、深呼吸を、した。
四十年の社畜が、初めて重要な見積もりを客先に持って行く時の、あの、緊張だった。
関が、入口から、見ていた。
雪麗が、土間で、控えていた。
「──関どの。火を、おこしていただけますか」
「はい、主」
「雪麗さま。あちらの戸棚に、土鍋がございます。お運びいただけますか」
「……ええ」
林徳は、自分でやらず、二人に、頼んだ。
頼むことに、迷いはなかった。──いや、内心では、迷っていた。
(雪麗さまは、賓客だ。土鍋を運ばせていいのか? いや、でも、関どのは、火をおこすので手が塞がる。俺一人じゃ、手が回らない。母上を、待たせるわけには、いかない)
判断の根拠を、頭の中で、立てた。
雪麗が、わずかに、微笑むのが、見えた気がした。
頼られて、嫌な顔は、していなかった。
◇ ◇ ◇
春枸を、煎じる、半刻。
林徳は、火加減と、水量を、息を詰めて、見ていた。
頭の中の『万書の眼』が、楓老師の言葉を、一字一句、再生していた。
──「最初の煎じは、強火で半刻。湯気が、薬草の青き香りから、深き土の香りに変わった時、火を、落とせ」
香りが、変わった。
林徳は、慎重に、火を、落とした。
茶碗に、薬を、注いだ。
「……母上」
「徳」
「お薬でございます」
母は、林徳が支えた茶碗に、ゆっくりと、口を、つけた。
苦い、薬の匂いが、家の中に、満ちた。
一口、二口、三口。
母は、半分ほど、飲んだ。
そして、わずかに、笑った。
「……不思議だね」
「……」
「お前が、淮陽から戻ってきてから、ね。──気持ちが、軽い。薬の前から、もう、軽くなっている」
林徳の目から、涙が、一滴、落ちた。
予期せぬ、本物の、十歳の涙だった。
(……あ、ダメだ。これは、四十歳のコントロール、効かないやつだ)
林徳は、何も言えず、ただ、母の手を、握っていた。
関が、入口で、目を逸らした。
雪麗が、土間で、静かに、見ていた。
◇ ◇ ◇
その夜。
母が、薬の効きで、安らかに眠った後。
林徳、関、雪麗の三人は、囲炉裏の前に、座っていた。
関が、囲炉裏の火を、整えた。
雪麗は、林徳から借りた粗末な羽織を、肩にかけて、震えを抑えていた。
「雪麗さま。お一つ、お尋ねしてもよろしいですか」
「……何かしら」
「あなたさまが、お逃げになっている、その背景を、私たちに、お話しいただくことは、できますか」
雪麗は、しばらく、沈黙した。
火が、ぱちっ、と音を立てた。
彼女は、ゆっくりと、口を、開いた。
「……私は、明国の、宮中の女官、でした」
「……」
「父は、明国の先代王に、お仕えしていた、王の従兄弟筋の者。──私は、亡き王の、姪、です」
関の目が、わずかに、見開かれた。
林徳の頭の中で、『戦盤』が、瞬時に、何百の分岐を、展開した。
(……亡き王の、姪。明国の現王は、若き君主。先代王の崩御後、王位を継いだ。──ということは、先代王の血筋の者は、現王の最大の脅威になる、可能性がある)
(雪麗さまが追われている理由は、おそらく、それ。現王側の派閥か、あるいは、先代王の遺臣の派閥か、どちらかに、利用されたくなくて、宮中を逃れた)
「……父は、宮中の権力闘争に、巻き込まれ、毒で死にました。母も、後を追いました」
雪麗の声は、淡々としていた。
その淡々さが、関の語った身の上と、よく似ていた。
「私は、宮中の派閥のいずれにも、与しません。私の存在は、明国の安定を、揺るがすだけ。──だから、宮中を、逃れました。どこか、誰の目も届かぬ場所で、静かに、生きたかった」
「……」
「そして、街道で、行き倒れていたところを、──あなたに、見つけられた」
雪麗は、林徳を、見た。
その目に、初めて、はっきりとした、感情が、宿った。
信頼、ではなかった。希望、でもなかった。
ただ、「見つけてくれて、ありがとう」という、それだけの、静かな光だった。
◇ ◇ ◇
長い沈黙のあと、林徳は、ゆっくりと、囲炉裏の灰に、木の枝を、差し入れた。
「皆さま。少し、長くなりますが、私が、見ております世界の様を、お話し申し上げてもよろしいですか」
関が、姿勢を、正した。
雪麗が、わずかに、顔を、上げた。
「我らがおる、この大陸の、ご説明でございます」
林徳は、灰の中央に、大きな円を、描いた。
「中央──ここに、玄。建国五百年の、旧帝国でございます。皇帝陛下は、宦官と外戚に取り囲まれ、政は、十常侍が握っている」
関が、頷いた。
「北──ここに、狼」
円の上に、もう一つ。
「若き覇王・燕王が、急速に勢力を伸ばす、軍事国家。三大反乱を、独自に鎮圧し、玄の領土を、北から侵食しております」
雪麗の目が、わずかに、見開かれた。
「そして、我らが、南──明」
一番小さな円を、下に、描いた。
「玄は腐敗の極み、狼は虎視眈々と南下を狙い、明は若き君主が、それでも玄の正統を継ぐと宣言しております。──三国、鼎立の構図でございます」
関が、しばらく、地図を、見つめていた。
「主。──この構図、まるで、後漢末そのものです」
「左様でございます」
林徳は、わずかに、笑った。
苦労人の四十歳の、達観した笑みだった。
「だからこそ、私は、知っております。──これから、何が、起きるか」
「……」
「赤天教という、宗教結社が、各地で勢力を、伸ばしております。あれは、近いうちに、玄の中央で、大規模な反乱を、起こします。それを契機に、地方の豪族が、軍閥化を、加速させます」
「徳殿。──なぜ、そのようなことが、お分かりに」
雪麗が、初めて、林徳に、敬称を、使った。
林徳は、答えなかった。
答えなかった、というより、答えられなかった。「前世で読んだ三国志演義に、そう書いてあるからです」とは、まだ、言えなかった。
関が、横で、わずかに、微笑んだ。
関は、すでに、林徳が「ただの少年ではない」何者かであることを、受け入れていた。それ以上を、関は、問わなかった。
「……雪麗さま」
「はい」
「あなたさまは、宮中の派閥のいずれにも、与したくない、と仰いました」
「ええ」
「では、私の傍に、しばらく、おいでになりませんか」
雪麗が、目を、見開いた。
「……それは」
「私は、誰の派閥でもございません。十歳の、貧しい村の、子供です。私の傍にいらっしゃれば、現王側にも、先代王の遺臣側にも、属することなく、過ごせます」
「……」
「ただし」
林徳は、灰の地図を、見つめた。
「私は、いずれ、明国の、若き君主に、お仕えするかも、しれません。それは、まだ、分かりません。──ですが、お仕えする時が来たら、私は、君主に、お伝え申し上げます。『雪麗さまを、宮中に呼び戻すことなく、安全に、暮らせる場所を、ご用意願いたい』と」
雪麗の唇が、わずかに、震えた。
「……徳殿、あなたは、何故、そこまで」
「お見受けする限り」
林徳は、雪麗の目を、まっすぐ、見た。
「あなたさまは、聡明で、強かなお方でいらっしゃる。そして、ご自身の存在の重みを、誰よりも、よく、ご存知でいらっしゃる。──そのようなお方が、街道で、誇りを抱いて、餓えていらっしゃった。それを、見過ごせる人間に、私は、なりたくありません」
囲炉裏の火が、ぱちっ、と、また、音を立てた。
雪麗は、ゆっくりと、目を、伏せた。
涙、ではなかった。だが、何か、固いものが、溶け始めていた。
「……お世話に、なります」
「こちらこそ」
◇ ◇ ◇
その夜、林徳は、なかなか、眠れなかった。
関と雪麗は、薄い夜具で、囲炉裏端に、横になっていた。
林徳だけが、母の枕元で、目を、開けていた。
(……俺、今日、雪麗さまに、ずいぶん大きなことを、約束したな)
頭の中の『戦盤』が、勝手に、自分の今日の発言を、検証していた。
(明国の君主に、お仕えするかも、しれません──まだ、何の確証もないのに。雪麗さまを、保護する──十歳の俺に、何ができる。出世する気もない、と思ってたのに、口では、もう、出世する前提で、約束を、している)
(……俺、何やってんだ)
社畜時代に、客先で勢いで「やります!」と言って、後で社内で青ざめた、あの感覚に、似ていた。
(……でも、後悔は、してない、よな?)
林徳は、母の寝顔を、見た。
穏やかな寝息だった。
(……後悔は、してない。雪麗さまを、見捨てる方が、後悔した)
四十歳の苦労人は、若手の頃から、「断る勇気」「引き受けない技術」を、学んできた。社畜の必須スキルだ。だが、今日、彼は、断らなかった。
断れなかった、のではない。
断りたく、なかった。
(……これが、四十年で、初めて、本当に、自分のために動いた、ということ、なのかもな)
林徳は、目を、閉じた。
囲炉裏の火が、消えゆく音が、わずかに、聞こえていた。
まだ、彼は、知らない。
雪麗が、ただの「亡き王の姪」ではなく、明国の宮中で、ある秘密──若き君主自身の出生に関わる秘密──を、抱えていることを。
そして、その秘密が、いずれ、林徳を、明国の王宮の中枢へと、引きずり込むことを。
─ 第五話 了 ─
次回、第六話「春の便り、村に届く」




