第四十一話 ─ 第三の印
【前回までのあらすじ】
白順、関明徳、徐光は娘・杏を玄朝の都から救い出した。医者の知恵で門を抜け、城外では蓮の弓が、裏では関明徳の囮が活きた。関明徳は潜伏時代の同輩・武飛と再会し、見逃される。杏は田家村の村人となり、桃と友になった。一方、敗北した季雲のもとには、袁派でも陳派でもない「第三の印」を捺した書が届く。村の軍師を直々に見定める、と。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。前世は法人営業十六年
季雲 もう一人の転生者。玄朝の典礼司
関明慶 林徳の最初の家臣
関明徳 元玄朝近衛。武飛の旧友
武飛 元玄朝近衛。槍の名手。村を訪ねてくる
雪麗 村の縁を結ぶ結び目役
白順 村の医者
杏 白順の娘。六歳
徐光 玄朝・陳派の使者
玄朝の都、典礼司司の一室。
季雲は卓に置いた一通の書を、もう三日も前から見つめていた。
第三の印。朱く捺された、その印を。
袁派でも陳派でもない。玄朝の権を二分する両派の、さらに上。動かぬはずの、動いてはならぬはずの力。
書の文面は短かった。村の軍師を直々に見定める、と。署名はなく、ただ印だけ。
季雲は、この印を知っていた。
歴史学者だった前世の知識ではない。この世界に転生してから、ただ一度だけ宮城の奥で見た印だった。
季雲は目を閉じた。
この国の権力は、二重になっている。表で袁派と陳派が争い、政を回している。だがその奥に、もう一つ、誰も語らぬ場所がある。皇統の、最も古い血。表に出ず、争いにも関わらず、ただ、国の根として眠っている。
その眠れる力が今、目を覚ました。
南の、小さな村のために。
◇ ◇ ◇
なぜ、と季雲は思う。
なぜ、あの力が、田家村などに関心を持つ。
季雲は、林徳という男を誰よりも知っているつもりだった。同じ転生者。同じ知識を持つ者。林徳が次に何を考えるか、季雲には読めた。読めるからこそ、追い詰めてきた。
だが、第三の印の主は違う。
あの力が何を考えているか、季雲には、まるで読めない。
書には、こうも記されていた。あの村の軍師は、ただの軍師ではない、と。
ただの軍師ではない。
その一言が、季雲の背を冷たくした。
まさか、あの力は──林徳が、転生者であることに、気づいているのか。
いや、それだけではない。もし、第三の印の主もまた──
季雲は、その先を考えるのを止めた。
考えたくなかった。自分と林徳のほかに、もう一人、この世界を「知っている」者がいるなど。
「……気の、迷いだ」
だが、握った書の端が、汗で滲んでいた。
季雲は、転生してから、ずっと一人だと思っていた。やがて、林徳というもう一人を見つけた。二人だけだと思った。この世界を外から知る者は、自分と林徳だけだと。
だが、もし三人目がいたなら。
しかもそれが、皇統の奥に座す者だったなら。
歴史を動かすのは構造だと、季雲は信じてきた。だが、その構造の最も奥の駒が、自分と同じ知る者だとしたら。盤そのものが、誰かの手の中にあることになる。
季雲は初めて、自分が見られている側かもしれぬと感じた。
◇ ◇ ◇
その頃、田家村は、穏やかな朝を迎えていた。
杏は、村にすっかり馴染んでいた。
桃と二人、村のあちこちを駆け回り、野の花を摘んでは白順のもとへ持っていく。これは薬になるか、と。白順は、そのたびにしゃがんで娘の目を見て答えた。なるもの、ならぬもの。娘は一つずつ覚えていった。
「父さま、このお花は?」
「それは毒だ。煎じれば痛み止めにもなるが、量を誤れば人を殺す。覚えておきなさい。薬と毒は、同じ草から出ることがある」
杏は、神妙にうなずいた。
白順は、村の医者として根づいていた。朝は薬草を干し、昼は病人を診て、夕には桃と杏に、草の名を教える。村を売る文を書いていた手は、今、村人の病を治す手になっていた。
林徳は、その様子を、井戸端から眺めていた。
守るべきものが、また一つ増えた。守るべきものが増えるほど、村は強くなる。だが同時に、失う痛みも増えていく。
その時、見張り台から声が飛んだ。
「南の街道に、一人。槍を持っている」
◇ ◇ ◇
門の前に立ったのは、痩せた、無骨な男だった。
背に槍を負っている。旅装は埃にまみれ、長く歩いてきたと分かった。
「武飛と申す」男は、低い声で名乗った。「関明徳の、旧友だ」
報せを聞いて、関明徳が駆けつけた。
「武飛! 来たか」
「来た」武飛は短く言った。「お前の言った、村を見に。子を人質に取らぬ国とやらを」
関明慶が、二人の間に割って入った。林徳の最初の家臣。武人二十年の、警戒の目だった。
「待て。元近衛だと言うのか。玄朝の人間を、村に入れるのか」
「兄者」関明徳が言った。「武飛は、おれを見逃した男だ。あいつがいなければ、おれは杏を連れて戻れなかった」
「見逃した、というなら」関明慶は武飛を睨んだ。「それは、玄朝を裏切ったということだ。一度裏切る者は、二度裏切る。違うか」
武飛は、関明慶の目を、真っ直ぐに受けた。
「その通りだ」
関明慶の眉が動いた。
「俺は玄朝を裏切った。だが、玄朝が先に民を裏切った。俺は、裏切り返しただけだ。信じられぬなら、それでいい。槍を置いて、ここを去る」
◇ ◇ ◇
林徳が進み出た。
武飛が、その小さな姿を見て、目を細めた。
「……お前が、軍師の童か」
「林徳です」林徳は武飛を見上げた。「一つ、訊かせてください。武飛殿は、何のために、ここへ来ましたか」
武飛は、少し考えた。
「正直に言う」武飛は言った。「玄朝に、もう、居場所がなかった。明徳を見逃した。それがいずれ知れる。知れれば、俺も終わりだ。だから、逃げてきた。立派な志など、ない」
関明慶が、それ見たことかという顔をした。
だが、林徳は微笑んだ。
「正直な人だ」
「童?」
「立派な志を語る者ほど、私は信じません」林徳は言った。「これまでで、嘘の志を並べて裏切った者を、何人も見ました。本当のことを言う人は、その時点で、もう半分は信じられます」
林徳は、銭弼を呼んだ。名簿を持って。
「武飛殿。この村では、過去は問いません。志も、立派でなくていい。ただ一つだけ、約束してください。この村の名簿に名を書いた者を、あなたが裏切らないこと。それだけです」
武飛は長いこと、林徳を見ていた。
それから、背の槍を下ろし、地に片膝をついた。
「……軍師の童。あんたは妙な男だ。だが、信じてみたくなる、妙さだ」
◇ ◇ ◇
武飛は、名簿に名を書いた。
関明慶は、なお渋い顔をしていた。だが、林徳にこう言われて矛を収めた。
「関明慶殿。あなたの警戒は正しい。だから、武飛殿の見張りは、あなたに任せます。信じることと、備えることは、別の仕事です。あなたは、備えの名人だ」
「……ふん」関明慶は鼻を鳴らした。だが、その目から、刺は消えていた。
その夜、武飛は、村の集会所で、ぽつりと語りはじめた。
「南の村が、玄朝の上の方で、噂になっている」
林徳と雪麗が、顔を上げた。
「上の方、とは」
「近衛の詰所で、小耳に挟んだ話だ。確かなことは分からん。だが──」武飛は声を低くした。「典礼司よりも、さらに奥。皇統の古い血筋。表に出ぬ、眠った力。それが、南の村に目を向けはじめた、と」
雪麗の表情が、引き締まった。
「その力に、名は」
「ない。誰も、名を口にせん。ただ、印で呼ぶ。第三の印、と」
◇ ◇ ◇
第三の印。
季雲のもとに届いた、あの印だった。だが、村の者は、まだそれを知らない。
林徳は、武飛の話を静かに聞いていた。
胸の中で、何かがざわついた。縁ではない。もっと理屈の方の感覚だった。
なぜ、眠った力が、今、目を覚ます。村が、ただ大きくなっただけで、皇統の奥が動くだろうか。
いや、と林徳は思う。
季雲は、ずっと、林徳を「ただの軍師ではない」と知っていた。同じ転生者だから。もし、その情報が、季雲を通じて、あるいは別の経路で、上に漏れたとしたら。
あるいは──林徳の背に、冷たいものが走った。
第三の印の主もまた、自分や季雲と、同じ類の者だとしたら。
会ったこともない相手。顔も名も、考えも、何も分からない相手。
林徳の能力は、半径百歩しか届かない。戦盤も、縁も、その相手には、まるで届かない。
これまでで、最も読めない敵だった。
◇ ◇ ◇
その夜、林徳は雪麗と、二人で話した。
「読めない敵を、どう相手にするか」林徳は言った。「前世で、似たことがありました」
「前世で?」
「私は、ただの営業でした。客と直に話す。客の心を読み、欲しいものを差し出す。それが得意でした」林徳は言った。「でも、本当の決裁者は、客の、さらに奥にいることがある。私が会える相手の、上の上。顔も見えず、声も聞こえぬ。その人が、最後に首を縦に振るか、横に振るか」
「会えない相手に、どう」
「会える相手を、徹底して味方にするんです」林徳は言った。「奥の決裁者には届かない。なら、その決裁者が信頼している、手前の人を、こちらの味方にする。手前の人が、奥に、いい話を運んでくれる」
雪麗は、しばらく考え、それからうなずいた。
「第三の印の手前にいるのは──季雲、ですか」
「鋭いですね」林徳は微笑んだ。「季雲は、第三の印を恐れている。私は、そう睨んでいます。恐れているということは、季雲もまた、その奥の力を読めていない。──私と、同じ立場です」
「敵と、同じ立場」
「ええ。そして、共通の、読めない相手がいる。こういう時、敵は、思わぬ味方になることがあります」
雪麗の目が、わずかに見開かれた。
「季雲と、手を組むのですか」
「組むとは言いません」林徳は言った。「ただ、季雲が、私を完全には潰せない理由を、一つ増やすだけです。私を潰すより、私を泳がせて、第三の印の動きを探らせた方が得だと、季雲に思わせる。それも、また、戦い方です」
雪麗は、行灯の火を見つめた。
「敵を、味方の代わりに使う。徳殿は、本当に、人を捨てませんね。敵でさえ」
「捨てた人の数だけ、敵が増えます」林徳は言った。「前世で、それを嫌というほど見ました。使い潰された人が辞めて、競う相手の会社へ行く。捨てた人は、必ずどこかで自分に返ってくる」
林徳は、北の闇を見た。
「だから、誰も捨てない。敵も味方も。それが、能力で勝てない私の、たった一つの武器です」
◇ ◇ ◇
数日後。武飛は、村にすっかり溶け込みはじめていた。
槍の腕は本物だった。村の若い男たちに、槍の扱いを教える。蓮の弓と、武飛の槍。村の守りが、また一つ厚くなった。
子供たちは、武飛の無骨さを、最初は怖がった。だが、桃が、いつものように、武飛に野の花を差し出すと、武飛は、ひどく不器用な手つきで、それを受け取った。
「……花は、どうすればいい」武飛が、関明徳に小声で訊いた。
「髪に挿してやれ。白順が、いつもそうしている」
武飛は、ごつい指で、桃の髪に花を挿した。不器用で、何度も落としかけて、それでも、挿した。
桃が笑った。武飛の強面が、ほんの少しゆるんだ。
林徳は、その光景を見て思った。
この村は、玄朝の近衛だった男の、強面さえゆるめてしまう。
第三の印の主が、何者であろうと。会ったこともない、読めない敵であろうと。
守るべきものは、ここにある。この、笑い声の中に。
◇ ◇ ◇
玄朝の都。典礼司司の一室。
季雲は、ついに決断した。
第三の印の主に、返書をしたためる。村の軍師を見定めたいなら、私が、その任を引き受けます、と。
季雲は、林徳を潰さないことに決めた。
今、林徳を潰せば、第三の印の主は、別の手を使う。季雲の知らぬ手を。それより、林徳を生かし、自分が見張り役を買って出た方がいい。第三の印の主の関心を、自分の手の内に留めておける。
季雲は筆を走らせながら、皮肉に薄く笑った。
林徳を生かす。敵である林徳を。
それは、林徳が村でやっていることと同じだった。敵を駒として使わず、生かして泳がせる。
いつのまにか、自分が、林徳の戦い方をなぞっている。
季雲は、筆を止めた。
その時、ふと奇妙な確信が、胸をよぎった。
第三の印の主。あの読めない力。
もし、あれが、自分たちと同じ「知っている者」だとしたら。
あれは、林徳と季雲が、いずれ手を組むことすら──すでに読んでいるのではないか。
窓の外で、玄朝の夜が、深く更けていった。
盤の上で駒を動かしていたはずの季雲が、いつのまにか、より大きな盤の、駒の一つになっていた。
─ 第四十一話 了 ─
次回、第四十二話「見定める者」




