第四十話 ─ 光の中へ
【前回までのあらすじ】
白順、関明徳、徐光は通行札で宮城に潜入し、娘・杏との対面にこぎつけた。だが対面の場で、監視の女官が「娘を明日、別の棟へ移す」と告げる。連れ出すなら今日しかない。関明徳と白順の視線が交わる。一方、季雲は自らの手で人質を間者に近づけたことが、たった一つの綻びになると、まだ気づいていなかった。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。村で帰りを待つ
白順 村の医者。娘を取り戻すため動く
杏 白順の娘。六歳
関明徳 元玄朝近衛。潜入の主役
武飛 元玄朝近衛。関明徳の潜伏時代の同輩
徐光 玄朝・陳派の使者。通行札を握る
蓮 北方民の女猟師。城外で援護
季雲 もう一人の転生者。玄朝の典礼司
白順は娘を抱いたまま、頭の中で素早く考えた。
村を出る前、林徳に言われた言葉があった。
「もし、その場で何かが狂ったら。私の指示を待たず、あなたの判断で動いてください。都には、私の力は届きません。だから、あなたを信じます。あなたは、医者です。医者にしか抜けられない道が、必ずある」
あの時は、半信半疑だった。だが今、その言葉が、白順を支えていた。
医者として、ここにいる。ならば、医者の知恵で抜けるしかない。
白順は監視の女官に向き直った。声をわざと低く、深刻にした。
「女官どの。この子の額に触れて、気づきました。熱があります。それも、ただの熱ではない」
女官の眉が、わずかに動いた。
「目の縁に、赤い斑が出ております。これは南で流行った疫の初めの兆しに、よく似ております。放てば、典礼司じゅうに広がりかねませぬ」
女官の顔が、こわばった。疫。その一語の重みを、宮城に仕える者ほど知っている。
「すぐに都の外の薬師のもとへ移し、隔離せねばなりませぬ。私が連れて参ります。医者の私が運べば、広がりを防げまする」
白順は自分の作った嘘に震えた。だが声は崩さなかった。
季雲が与えた「医者」という身分が、今、娘を運び出す鍵になる。
毒を、薬に。林徳の言葉が、胸の中で響いていた。
◇ ◇ ◇
女官は、迷った。
間者に娘を会わせるのは、典礼司司の許しが出ている。だが連れ出すとなれば、話は別だ。司に伺いを立てねばならない。
だが疫という言葉が、女官の足を縛った。伺いを立てる間に、典礼司じゅうに病が広がれば、その責めは自分が負う。
「……典礼司司さまの、ご判断を仰がねば」
「その間に広がります」白順は畳みかけた。「女官どの。あなたが、この子に触れた者の名簿を作らねばなりませぬ。まず、この子を遠ざけるのが先。司さまへのご報告は、その後で。順は、それでよいはず」
医者の言葉には、独特の力がある。命に関わると言われれば、人は逆らいにくい。前世で、白順は知らない。だが林徳は知っていた。専門家の言葉は、それだけで人を動かす。だから白順に、医者として振る舞えと言った。
女官は、ついにうなずいた。
「……早く。司さまには、私から報せます」
白順は杏を布でくるんだ。患者を運ぶ体だ。
「杏」耳元で囁いた。「目を、閉じていなさい。眠っているふりを。父さまが、必ず連れて出る」
杏は、こくりとうなずき、目を閉じた。賢い子だった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、典礼司司の一室。
季雲は卓の前で、わずかな違和感を覚えていた。
白順の報告が、来ない。
いつもなら対面の後、その日のうちに短い文が届く。娘に会えた礼と、村の様子を添えた、あの湿った文が。
だが今日は来ない。
季雲は、筆を置いた。
来ないこと。その沈黙が何より雄弁だった。
あの間者は、文を書く男だ。書かずにいられない男だ。その男が対面の日に、文を書かない。それは、文を書く余裕がない何かが、起きているということだ。
季雲は立ち上がった。
「……謀られたか」
自らの手で、人質を間者に近づけた。合理だと言い張った。だがその合理の中に、心が一滴混じっていた。
その一滴を、林徳は見逃さなかった。
「典礼司司さま」女官が駆け込んできた。「囚われの娘が、疫の疑いで、外へ──」
「追え!」季雲の声が、初めて鋭くなった。「東門だ。医者が連れ出す。今すぐ東門を閉じよ!」
◇ ◇ ◇
白順は杏を抱え、関明徳とともに回廊を急いだ。
徐光が、先導する。だが背後で銅鑼が鳴った。
異変を報せる音だった。季雲が、気づいたのだ。
「速い」関明徳が舌打ちした。「思ったより、速い」
回廊の先、東へ向かう道に近衛が走り出てくるのが見えた。門を固めるつもりだ。このままでは、東門で捕まる。
関明徳は足を止めた。
「白順殿。あんたは杏を連れて、東門へ走れ。徐光殿の札で、押し通れ」
「関明徳殿は」
「おれが近衛を裏の詰所へ引きつける。元近衛のおれなら、奴らの動きが読める。裏の詰所は手薄だ。そっちへ誘い込む」
「しかし、それでは、あなたが」
「行け!」関明徳は、白順の背を押した。「おれは、五年もこの宮城に潜った男だ。逃げるのは、得意だ」
関明徳は刀を抜き、近衛とは逆の裏の回廊へ走り出した。
「こっちだ! 賊はこっちだぞ!」
声を上げ、近衛の目を自分に引きつける。
◇ ◇ ◇
近衛たちが関明徳を追って、裏の回廊へ殺到した。
関明徳は走った。左肩が軋んだ。第三十二話の夜に矢を受けた肩だ。白順が半年かけて治すと言った肩。まだ治りきっていない。
だが走れる。
白順のおかげで、剣が握れる。腕が上がる。
恩を返す時だった。
関明徳は、裏の詰所への道を誰よりも知っていた。五年前の記憶が、足を導く。近衛たちを、手薄な詰所の方へ誘い込んでいく。
その時、行く手に一人の近衛が立ちふさがった。
槍を構えている。関明徳は足を止めた。
その顔に見覚えがあった。
「……武飛か」
武飛。五年前、同じ詰所にいた、同輩だった。槍の名手。無骨で、無口な男。
武飛もまた関明徳を見て、目を見開いた。
「明徳……。生きて、いたのか」
◇ ◇ ◇
二人は、束の間向き合った。
追っ手の足音が、遠くで響いている。
「お前、玄朝を裏切るのか」武飛が、低く言った。
関明徳は刀を握ったまま答えた。
「ああ。裏切る。だが玄朝じゃない。袁派だ。民を踏みつけ、子を人質に取るあいつらだ」
「……」
「お前は知っているか、武飛。今おれが連れ出したのは、人質に取られた六つの娘だ。父親に間者をやらせるための、人質だ。それが、お前の守る玄朝のやり方だ」
武飛は槍を構えたまま動かなかった。
長い沈黙だった。
やがて武飛は槍を下ろした。
「……行け」
「武飛」
「俺は何も見ていない。賊はあっちの回廊へ逃げた」武飛は、関明徳とは逆の方角を顎でしゃくった。「俺は、玄朝を裏切るんじゃない。とうに裏切られていたことに、今、気づいただけだ」
関明徳は武飛を見た。
「お前も、来い。南に、村がある。子を人質に取らぬ国が、ある」
武飛は、答えなかった。ただもう一度、「行け」と言った。
◇ ◇ ◇
白順は杏を抱え、東門へ走っていた。
徐光が通行札を高く掲げた。
「疫病人の搬出である! 道を空けよ! 触れれば、うつるぞ!」
疫、の一語に門番たちがたじろいだ。
だが門の指揮官が、叫んだ。
「待て! 司さまより、東門を閉じよとの命だ! 通すな!」
門が軋みながら閉じはじめた。
白順の足が止まりかけた。間に合わない。
その時。
門の外、遠くの林から一筋の矢が飛んだ。
矢は、門のかんぬきを操る兵の足元に突き刺さった。兵がひるんで手を止めた。
蓮だ。城外の林で、待っていた。
二の矢が門の上の松明を射落とした。あたりが、薄暗くなる。
その混乱の隙に、白順は閉じかけた門の隙間をすり抜けた。
◇ ◇ ◇
同じ刻限、田家村。
林徳は、見張り台にいた。
縁の糸が、激しく震えている。杏の糸も、白順の糸も。何かが、起きている。だが何も分からない。都は、遠すぎる。
林徳は、ただ北の空を見つめていた。
その時。
ふいに糸の震えが、緩んだ。
張りつめていた糸が、力を抜いたように穏やかな脈に変わった。
林徳は息を呑んだ。
これは──抜けた。
危機を抜けた。糸が安らいでいる。生きて、危地を脱した。
林徳は、台の手すりを強く握った。
「……やった」
声が、震えた。
会ったこともない少女が、今、光の中へ出てきた。
◇ ◇ ◇
東門の外、林の中で、蓮が待っていた。
白順が杏を抱え、駆け込んでくる。徐光が続いた。
「関明徳殿は」蓮が訊いた。
「囮に。裏の詰所へ」白順の声がつまった。「まだ来ない」
三人は、林の中で待った。
追っ手の気配は、関明徳が引きつけている。だがその関明徳が、戻らない。
時が、長く感じられた。
やがて林の奥から、足音が聞こえた。
関明徳だった。左肩を押さえ、息を切らせている。だが立っていた。歩いていた。
「待たせた」関明徳が笑った。「裏の詰所で、思わぬ友に会った。おかげで、生きて戻れた」
「友?」
「武飛、という男だ。見逃してくれた。……いつか、村に来るかもしれん」
関明徳の肩から、血が滲んでいた。だが傷は浅い。白順が、すぐに手当てをした。
「あんたの治した腕で、走れた」関明徳が言った。「恩を、返せたかな」
白順は首を振った。
「恩は、返すものではありませぬ。巡らせるものです。あなたが私の娘を助け、私があなたの傷を治す。村とは、そういう場所だと、村長殿に教わりました」
◇ ◇ ◇
数日後。田家村の門。
白順が杏の手を引いて、帰ってきた。
村人たちが、門の前に集まっていた。
その中から、小さな影が飛び出した。
桃だった。
桃は、杏の前で立ち止まった。二人の子供が見つめ合う。
桃が、手に持っていた野の花を杏に差し出した。
「……はい」
杏は目を丸くした。それから懐から、乾いた押し花を取り出した。父と摘んだ、あの花を。
二つの花が並んだ。
杏が笑った。攫われてから、初めての、心からの笑顔だった。
林徳は、その光景を、少し離れて見ていた。
桃は、縁の能力を、双方向に受け取る子だ。林徳の運命に深く関わる者の気配を、桃もまた感じ取る。その桃が、迷いなく杏に駆け寄り、花を渡した。
縁の糸の先にいた少女と、縁を感じ取る少女。二人が、野の花を挟んで、笑い合っている。
不思議なものだ、と林徳は思った。前世の自分は、人と人を数字でつないでいた。売上、契約、目標。今は、野の花一輪で、人と人がつながっていく。
どちらが本物のつながりか。答えは、目の前にあった。
白順はその様子を見て、村人たちに向き直り、深く頭を下げた。
村人たちは、誰も、白順の過去を問わなかった。ただおかえり、と言った。娘さん、よかったね、と言った。
林徳が進み出た。
「白順殿。それから、杏。この村へ、おかえりなさい」
林徳は、銭弼の名簿を開いた。そこに新しい名が、一つ加わる。
杏。六歳。
名簿に名が記された時、杏はもう人質ではなかった。村人だった。
序章で、林徳はたった一人で、この時代に放り出された。家臣は関明慶ひとりだった。あれから、村は人を一人ずつ迎えてきた。蓮、雪麗、桃、趙、銭弼、顧、流民たち、白順、そして杏。
名簿の名は、もう一枚では足りない。二枚目に入っている。
組織が大きくなる時、最初は小さな信頼の輪。林徳が言い続けてきた言葉が、今、目の前で、いくつもの輪になって、重なり合っていた。
◇ ◇ ◇
玄朝の都、典礼司司の一室。
季雲は、空になった娘の部屋に立っていた。
床に、乾いた花びらが一枚だけ落ちていた。押し花の、かけらだった。
季雲はそれを拾い上げた。
負けた。
間者を寝返らせ、人質を奪い返された。完全な敗北だった。
だが季雲を本当に揺さぶったのは、敗北そのものではなかった。
なぜ、林徳に読まれたのか。
季雲は、人質を間者に近づけた。それは合理ではなかった。あの時、自分の中に、確かに「情」が動いた。父に会えぬ娘を不憫に思う心が。
その心を、林徳は読んでいた。
季雲は、自分の心を計算に入れていなかった。人の心を数字としてしか見ない自分の中に、数字にならない心が、あったことに、気づいていなかった。
林徳は、それを見抜いた。敵である自分の、心の中の一滴の情を。
「……あの男は」
季雲は、花びらをそっと握った。
あの男は、人の心を読む。味方だけではない。敵の心さえも。
ならば、自分は、どう戦えばいい。心を計算に入れぬ自分を、心で読まれるのなら。
季雲は長いこと、空の部屋に立っていた。
その時、扉の外で声がした。
「典礼司司さま。袁派より、火急の使いが」
季雲は振り返った。
使者が、一通の書を差し出した。その封蝋に、見慣れぬ印があった。袁派でも、陳派でもない。
第三の印だった。
季雲は、その印を見て息を呑んだ。
「……まさか。あの方が、動いたのか」
封を切る季雲の指が、わずかに震えていた。
書には、短く、こう記されていた。
──南の村のこと、聞き及んだ。袁派にも、陳派にも、もはや任せておけぬ。あの村の「軍師」とやらを、私が直々に見定める。
署名は、なかった。代わりに、あの第三の印だけが、朱く押されていた。
季雲は、その印を、知っていた。歴史学者だった前世の知識ではない。この世界で、転生してから、ただ一度だけ見た印だった。
玄朝の、誰も語らぬ場所。袁派と陳派が争う、そのさらに上。動かぬはずの、動いてはならぬはずの力。
南の小さな村をめぐる争いは、いつのまにか、玄朝の奥深く、誰も触れてこなかった、もう一つの力を、目覚めさせようとしていた。
そしてそれは、季雲にとってさえ、味方か敵か、分からぬ相手だった。
─ 第四十話 了 ─
次回、第四十一話「第三の印」




