第三十九話 ─ 娘を迎えに
【前回までのあらすじ】
間者の正体を自ら告白した白順を、林徳は村人として完全に受け入れ、娘・杏の救出を誓った。林徳の策は、白順の報告文を逆用すること。季雲に「忠実な間者」と信じ込ませ、その油断を突く。関明徳の元近衛の知識、徐光の陳派の通行札、白順の医者という身分──点と点が、一本の救出の線へと結ばれていく。だが都には、林徳の能力は届かない。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。前世は法人営業十六年
白順 村の医者。娘を取り戻すため自ら動く
関明徳 元玄朝近衛。潜入の主役
徐光 玄朝・陳派の使者。通行札を握る
蓮 北方民の女猟師。脱出路の確保
雪麗 村の縁を結ぶ結び目役
杏 白順の娘。六歳。典礼司に囚われている
季雲 もう一人の転生者。玄朝の典礼司
決行前夜、集会所の灯は遅くまで消えなかった。
卓には、玄朝の都の図が広げてある。関明徳の記憶で描いた、宮城の見取り図だ。典礼司の場所、近衛の詰所、門の数、人の流れ。何度も書き直した線が、墨で黒く重なっている。
「もう一度、確かめます」林徳は図を指した。「徐光殿の通行札で、三人が宮城に入る。徐光殿、関明徳殿、そして白順殿」
三人がうなずいた。
「白順殿は、医者として入ります。典礼司の女官に病人が出たという名目で。これは嘘ではありません。徐光殿、手配を」
「すでに」徐光が答えた。「陳派に通じた女官が、明日、本物の腹下しを起こします。薬で。医者を呼ぶ口実には、十分」
「関明徳殿は、白順殿の供の薬籠持ち。顔を伏せ、口をきかぬこと。元近衛のあなたを、見知った顔がいるかもしれません」
「分かっている」関明徳の声は静かだった。
「蓮殿は、宮城には入りません。城外、東門の外の林で待つ。脱出の時、追っ手が出れば、矢で足を止める。それと──」林徳は蓮を見た。「三人が出てこない時の、最後の目印です」
蓮は黙ってうなずいた。
◇ ◇ ◇
林徳は、最後に一つ、言わねばならないことがあった。
「俺は、行きません」
声が、少し沈んだ。
「行けない、の間違いだ」関明慶が言った。「十歳の足では、宮城の塀も越えられん。お前がいては、足手まといだ。それは、お前が一番よく分かっておろう」
「ええ」
分かっている。分かっているからこそ、苦しかった。
林徳の能力は、半径百歩しか届かない。戦盤も、縁も、都には届かない。村でなら、林徳は誰よりも先を読める。だが都では、ただの無力な子供だった。
仲間を、自分の届かない場所へ送り出す。前世でも、そういう時が一番つらかった。現場に出られない上司が、部下の背中を見送る時。声をかけることしかできない、あの無力。
「林徳」関明徳が言った。「お前は、もう十分に動いた。ここまでの道を、全部お前が引いた。あとは、おれたちが歩くだけだ」
「俺たちは、お前の盤の上の駒じゃない」関明慶が続けた。「お前が信じて送り出す、仲間だ。だから、村で待っていろ。それが村長の仕事だ」
林徳は、深く頭を下げた。
「……無事を、祈っています」
◇ ◇ ◇
その夜、白順は最後の文を書いた。
いや、最後にするための文だった。
いつも通りの報告に、林徳の指示で、一行を添える。
──長く忠勤を尽くして参りました。一つだけ、願いがございます。都へ薬の仕入れに参る折、囚われの娘に、一目だけ会わせていただけませぬか。顔を見れば、私はあと十年でも、村で働けまする。
白順は、その一行を書く手が震えた。
これは、罠の一行だ。だが同時に、心からの願いでもあった。半分が真実だからこそ、季雲は信じる。林徳はそう言った。
「真の中に、描きたい絵を一滴」
白順は呟き、文を封じた。
娘に会いたい。その願いだけは、嘘ではなかった。
◇ ◇ ◇
玄朝の都、典礼司。
季雲は、その文を読んでいた。
忠実な間者の、長い忠勤の果ての、ささやかな願い。娘に一目会いたい、と。
季雲は筆を持つ手を止めた。
駒に情けは無用だ。歴史学者として、人質は遠ざけておくのが定石だった。会わせれば、情が動く。情が動けば、駒は読みにくくなる。
だが──と季雲は思う。
この間者は、よく働いた。村の様子を、漏れなく送ってきた。北の沢の試しにも、不自然な動きを見せなかった。忠実だ。忠実な駒には、時に餌を見せた方がいい。会わせれば、間者はいっそう忠勤に励む。娘のために。
それに、と季雲は冷静に計算した。
会わせる場所は、こちらが決める。典礼司の中、女官の監視のもと、ほんの短い時間。父娘は言葉を交わすだけ。子供を連れ出す隙など、どこにもない。会わせたところで、人質の価値は一つも減らない。むしろ、増す。
季雲は、わずかに目を細めた。
「……いいだろう」
返書をしたためる。薬の仕入れの日に、娘に会うことを許す、と。場所と刻限を指定して。
季雲は、自らの手で、人質を間者に近づけた。
それが、たった一つの綻びになることに、季雲はまだ気づいていない。
◇ ◇ ◇
決行の日が来た。
白順、関明徳、徐光の三人は、徐光の通行札で宮城の東門をくぐった。
白順は薬籠を背負い、医者の身なりで先を行く。関明徳は供の薬籠持ちとして、顔を伏せて続く。徐光は陳派の役人として、二人を典礼司へ案内する体だった。
門番が、通行札を検めた。
白順の心の臓が、跳ねた。札の真偽を見破られれば、その場で終わる。三人とも、宮城の地下牢に消える。村にも累が及ぶ。
門番は札を陽に透かし、徐光の顔を一瞥した。
徐光は、役人らしい退屈な顔で、軽く顎をしゃくった。早くしろ、と言わんばかりの仕草だった。本物の役人は、門番に媚びない。その堂々とした態度が、何よりの通行札だった。
門番は札を返し、あっさりと通した。徐光の手配は、そして肝の据わり方は、確かだった。
宮城の中は、村の何十倍も広かった。白順は前を見て歩く。村長殿の言葉を思い出す。慌てるな。医者は、堂々と歩くものだ。患者を診に来た者が、おどおど歩く道理はない。
典礼司の建物が見えてきた。
関明徳が、伏せた顔のまま、低く呟いた。
「左の回廊。突き当たりを右。女官の棟は、その奥だ。五年前と、変わっていなければ」
その時、向こうから近衛が二人、歩いてきた。
関明徳の足が、わずかも乱れなかった。だが薬籠を持つ手に、白順は微かな力みを見た。五年前、この男はこの宮城の近衛だった。すれ違う相手が、かつての同輩でないとは限らない。
近衛の一人が、ちらりと関明徳を見た。
関明徳は、顔を伏せたまま、薬籠の重みに耐える供の者を演じきった。背を丸め、足を引きずるように。近衛は何も言わず、通り過ぎていった。
角を曲がってから、白順は小さく息を吐いた。関明徳は、顔色一つ変えていなかった。五年の潜伏が、この男に教えた術だった。生き延びるとは、平気な顔で危地を歩くことだ。
◇ ◇ ◇
まず、本物の患者を診た。
陳派に通じた女官が、薬で腹を下していた。白順は脈を取り、薬を処方した。医者として、本物の仕事をした。それが、ここにいる正当な理由になる。
診察を終えると、監視役の女官が言った。
「典礼司司さまより、許しが出ております。娘との対面を。短い間です。ついて参られよ」
白順の足が、わずかに速くなった。関明徳が、袖を引いて諫めた。落ち着け、と目で言っている。
女官に連れられ、奥へ進む。回廊を曲がり、また曲がる。関明徳の言った通りの道だった。元近衛の記憶は、正確だった。
やがて、小さな扉の前に着いた。
女官が、鍵を開ける。
扉が、軋みながら開いた。
高い窓から、細い光が一筋差し込む部屋。その光の中に、小さな影が座っていた。
手の中に、押し花を握って。
顔を上げた、その子の目が、見開かれた。
「……父さま?」
杏は、信じられないという顔で、立ち上がった。押し花を握ったまま。
何度も、夢に見た顔だったのだろう。だから、すぐには信じられなかったのだろう。
「父、さま……本当に?」
「杏」
白順は、膝をついた。両腕を、広げた。
その腕の中へ、小さな体が飛び込んだ。
白順の声が、崩れた。
◇ ◇ ◇
同じ刻限、田家村。
林徳は、自分の家にいた。落ち着かなかった。
今ごろ、三人は宮城にいる。だが何が起きているか、林徳には分からない。能力は届かない。戦盤を組もうにも、都は半径百歩の外だ。
林徳は、ただ座っていた。前世でも、こういう待ち時間が一番こたえた。商談の結果を、外で待つ時。自分にできることは、もう何もない時間。
その時だった。
胸の奥が、ぐらりと揺れた。
縁だ。
白順と繋がった糸の、さらに先。あの細い、遠い糸。それが今、強く震えている。死の感覚ではない。だが、激しく揺れている。何かが、起きている。
杏が、動いた。父と、出会った。
糸が、これまでになく強く脈打っている。生きている。確かに、生きて、今、心を大きく動かしている。
林徳は立ち上がった。だが、何もできない。都へは行けない。声も届かない。
「……無事でいてくれ」
林徳は、北の空に向かって、ただ祈った。
会ったこともない少女と、その父のために。
◇ ◇ ◇
典礼司の部屋。
白順は、娘を抱きしめていた。
杏の小さな体は、痩せていた。だが、温かかった。生きていた。
「父さま、お仕事、終わったの?」杏が訊いた。「迎えに、来てくれたの?」
白順は、答えに詰まった。本当のことは言えない。監視の女官が、扉のそばに立っている。
「……ああ」白順は、杏の耳元で、ごく小さく囁いた。「迎えに来た。だが、今日はまだ、静かにしていてくれ。父さまの言う通りに。いいね」
杏は、父の様子から、何かを察したのかもしれない。こくりと、小さくうなずいた。賢い子だった。
白順は、押し花を握る娘の手に、自分の手を重ねた。
「その花、まだ持っていたのか」
「うん。父さまと、摘んだから」
白順の目から、涙がこぼれた。
その時、扉のそばの女官が、口を開いた。
「──そろそろ、刻限にございます」
白順の背に、冷たいものが走った。
今日は、対面だけ。連れ出す段取りは、明日のはずだった。徐光が手配した、薬の追加搬入の荷に紛れて。今日は、顔を見るだけ。それが、計画だった。
だが、女官の次の一言が、計画を崩した。
「典礼司司さまより、追って沙汰がございます。この娘、明日より、別の棟へ移すとのこと」
別の棟。
白順の頭が、真っ白になった。
明日、杏は移される。徐光が手配した荷の道は、明日のこの部屋を前提にしている。場所が変われば、段取りは全て崩れる。明日では、間に合わない。
連れ出すなら──今日しか、ない。
白順は、娘を抱いたまま、関明徳の方を見た。
扉の外で薬籠を持つ関明徳の目が、すでにこちらの異変を捉えていた。
二人の視線が、交わる。
どうする。
今、動くか。
◇ ◇ ◇
玄朝の都、典礼司司の一室。
季雲は、卓の前にいた。
間者と娘の対面は、許した通りに進んでいるはずだった。報告では、特に問題はない。
ただ、ふと、思いついて指示を出した。あの娘を、明日、別の棟へ移す、と。深い理由はない。間者に会わせた以上、念のため、人質の置き場を変えておく。それだけの、定石の用心だった。
季雲は筆を置き、窓の外を見た。
遠い南の村のことを、ふと考える。
あの村は、心で動いている。間者の文が、それを教えてくれた。林徳は、人を駒ではなく、人として扱う。だから村は大きくなった。
季雲は、いつものように、それを「弱さ」だと思おうとした。
だが、思いきれなかった。
心を計算に入れない。それが、歴史学者としての季雲の流儀だった。人がどう感じるかではなく、人がどう動くか。感情ではなく、構造。
なのに、今日、季雲は一つ、流儀を曲げた。
忠実な間者に、娘との対面を許した。情けではない。忠勤への、合理的な褒美。そう自分に言い聞かせた。
なぜ、自分はあの間者に対面を許したのか。
合理だと、季雲は言い張った。だが本当にそれだけなら、もっと厳重な対面の段取りを組んだはずだ。なのに、許しを出す時、季雲の頭の片隅には、娘に会えぬまま働き続ける父親の姿が、確かによぎっていた。
その一瞬の像を、季雲は「無用な感傷」として、すぐに振り払った。
だが、振り払いきれていなかった。
季雲は、まだ気づいていない。
その小さな「合理」の中に、心が一滴、混じっていたことに。
そして、その一滴が、自らの盤を、内側から崩しはじめていることに。
林徳が村でずっと言い続けてきた言葉が、今、季雲自身の中で、証明されようとしていた。
──人を数字で見る者は、必ず過つ。
─ 第三十九話 了 ─
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