第三十八話 ─ 遠い娘
【前回までのあらすじ】
流民に紛れて村に来た医者・白順。その正体は、娘を人質に取られ、季雲に村の情報を流す間者だった。林徳は道筋の食い違いと戦盤の反応からそれを見抜きながら、白順を斬らず追わず、村の医者として正式に迎え入れた。毒を薬に変えるために。一方の季雲は、白順から届いた最初の報告文に、奇妙な温かさを感じ取っていた。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。前世は法人営業十六年
白順 村の医者。娘を人質に取られた間者
雪麗 亡国の姫。村の縁を結ぶ結び目役
関明徳 関明慶の弟。元玄朝近衛で五年潜伏
関明慶 林徳の最初の家臣
徐光 玄朝・陳派の使者。林徳の暫定的同盟者
杏 白順の娘。六歳。玄朝の都に囚われている
季雲 もう一人の転生者。玄朝の典礼司
白順が林徳の家の戸を叩いたのは、迎えられて七日目の夜だった。
林徳はまだ起きていた。行灯の下で、銭弼の帳面を眺めていた。戸の向こうに立つ気配を、足音で分かった。迷いながら歩く足音だった。
「白順殿。どうぞ」
白順は入ってきた。手に、一枚の紙を握っている。皺だらけの、何度も握り直された紙だった。
白順は土間に膝をついた。そして、額を地につけた。
七日のあいだ、白順は迷い続けていた。村人は親切だった。子の母は何度も礼に来た。関明徳は動くようになった肩を見せに来た。桃は毎日、野の花を持ってくる。親切にされるほど、懐の文が重くなった。村が温かいほど、その村を売る自分が、汚れて見えた。
「村長殿。お斬りください」
林徳は帳面を閉じた。
「私は、間者にございます」白順の声は震えていた。「村の門の数を、見張り台の高さを、当番の回りを、この手で書きました。月に二度、玄朝へ送っております。あなたさまの村を、売っております」
紙を、林徳の前に置いた。書きかけの報告文だった。
「斬られて当然の身。ですが、その前に──一つだけ、申し上げたく」
白順は顔を上げた。目が真っ赤だった。
「もう、書けませぬ。子の熱を下げた手で、村を売る文が、書けませぬ」
◇ ◇ ◇
林徳は、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「知っていました」
白順の体が、凍りついた。
「来た道が、皆と食い違っていました。家族のことを訊いた時、薬研の手が止まりました。それに──」林徳は自分のこめかみに触れた。「私には、人の腹の底が、少し読めるのです。あなたの腹には、村への悪意はなかった。あるのは、ただ恐れでした」
「……知って、いて」白順の声がかすれた。「知っていて、私を、村の医者に」
「ええ」
「なぜ……っ」
白順の目から、涙がこぼれた。七日分の、いや、娘を奪われてからの全ての涙だった。
「あなたを駒として使ったのは、季雲です」林徳は言った。「私まで、あなたを駒として扱えば、季雲と同じになります。私は、あなたを村人として迎えた。村人が苦しんでいるなら、村長の仕事は一つです」
林徳は膝を進め、白順の肩に手を置いた。十歳の、小さな手だった。
「あなたの娘を、取り戻しましょう」
◇ ◇ ◇
白順は、声を上げて泣いた。
大の大人が、十歳の子の前で、子供のように泣いた。林徳は何も言わず、その背に手を当てていた。
泣き止むのを待って、林徳は言った。
「一つ、伝えておきたいことがあります。あなたが、信じてくれるかは分かりませんが」
「……何で、ございましょう」
「あなたを村人として迎えてから、私の中で、何かが薄く繋がりました」
林徳は縁のことを話した。運命に深く関わる者の死を感じ取る力。だが今あるのは、死の感覚ではない。もっと細い、温かい糸のようなもの。
「あなたと繋がった糸の、さらに先に──もう一本、細い糸を感じます。遠い。とても遠い。けれど、確かに息づいている」
林徳は白順を見た。
「会ったこともない、けれど、あなたに深く繋がる者。私はそれを、娘さんだと思っています」
白順は息を呑んだ。
「杏は……生きて、おりますか」
「生きています」林徳は迷いなく言った。「糸が切れていない。それは、生きているということです」
白順は両手で顔を覆い、肩を震わせた。今度の涙は、絶望の涙ではなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、集会所に人が集まった。
林徳、雪麗、関明慶、関明徳、そして白順。徐光の使者も、ちょうど村に滞在していた。
林徳は皆に、白順の正体と、自らの決断を話した。隠さなかった。
「間者を、皆の前に出すのか」関明慶が腕を組んだ。「腹は据わっておるな」
「隠して進める策は、いつか綻びます」林徳は言った。「村のことは、村の皆で決める。それが、この村の仕組みです」
白順は皆に向かって頭を下げた。村を売った詫びと、これからは村のために働く誓いを述べた。
誰も、声を荒げなかった。
この村には、過去に罪を背負った者が多い。趙は元山賊だった。蓮は北方民として追われた身。関明徳は五年、敵地に潜んだ。皆、一度はどこかで、誰かを裏切るか、裏切られるかして、この村にたどり着いた。だから白順を責める資格のある者は、ここには一人もいなかった。
関明徳が、白順に肩の礼を言った。動くようになった左腕を、ゆっくりと回してみせて。
「あんたの薬で、剣がまた握れる。あんたが何をしてきたかより、これから何をするかだ。この村は、いつもそうしてきた」
「さて」林徳は卓に向かった。「ここからが、本題です」
卓の上に、玄朝の都の、簡単な図を広げた。
「都に攻め込んで娘を奪い返す。それはできません。この村に、それだけの兵はない。私に至っては、戦う力すらない」
林徳は図の上を指でなぞった。
「だから、攻めません。季雲の盤を、こちらが使います」
◇ ◇ ◇
「白順殿の文は、これからも玄朝へ届きます」
林徳が言うと、白順が顔を上げた。
「ただし、書くのは白順殿ではありません。私と、雪麗殿が書きます」
林徳は皺だらけの報告文を手に取った。
「季雲は、この文で村を測っています。なら、季雲に見せたい村を、こちらが文に書く。門の数、見張りの数、村人の気配。全て、こちらの都合のいいように」
「偽りを書く、ということですか」関明徳が訊いた。
「半分は真です」林徳は答えた。「全てを偽ると、必ず綻びます。真の中に、こちらの描きたい絵を一滴混ぜる。それが、信じさせる文の書き方です」
林徳は前世を思い出していた。営業の報告書も、そうだった。嘘は書かない。だが、どの真実を、どの順で、どう見せるかで、相手の判断は変わる。事実の選び方は、それ自体が一つの戦略だった。
「季雲に、こう思わせます。白順は忠実な間者だ。村は、季雲の計算通りに動いている、と。油断した相手は、報告ルートの管理が緩みます」
「その緩んだルートを」雪麗が引き取った。「逆に辿る。文がどこを通り、誰の手を経て都に届くか。それが分かれば──」
「娘さんの居場所と、その周りの警備が、見えてきます」林徳はうなずいた。「敵の伝令網を、こちらの地図にする」
◇ ◇ ◇
「玄朝の都の警備なら、私が話せます」
関明徳だった。五年、玄朝に潜伏した男だ。
「典礼司の建物は、宮城の東。私がいた頃、近衛の詰所が三つありました。表に二つ、裏に一つ。裏の詰所は、人目が少ないぶん、手薄でした」
関明徳は図に印をつけた。元近衛の記憶は、五年経っても正確だった。
「人質を置くなら、典礼司の奥。女官の住まう棟の、さらに奥でしょう。子供を置くなら、騒ぎにならぬ場所を選ぶ」
「徐光殿」林徳は使者に向いた。「陳派の手の者は、宮城の中にどこまで」
使者は少し考えた。
「典礼司は袁派の城にございます。陳派の者が深くは入れませぬ。ですが、宮城の出入りの記録──門の通行札を扱う部署には、陳派に通じた小役人がおります。誰が、いつ、典礼司に出入りしたか。それくらいなら、探れましょう」
「十分です」林徳は言った。「人の出入りが分かれば、娘さんに食事を運ぶ者が見えます。食事を運ぶ者が分かれば、娘さんの居場所が、もっと細かく見えてきます」
点と点が、線で結ばれていく。村の当番を組んだ時と、同じ手つきだった。
◇ ◇ ◇
同じ頃。玄朝の都、典礼司の奥。
杏は、小さな部屋にいた。
窓は高く、外は見えない。だが格子の隙間から、細い光が一筋差し込んでいた。杏はその光の中に、いつも座っていた。
手の中に、押し花があった。村を出る前──いや、攫われる前の日に、父と摘んだ野の花だった。すっかり乾いて、色も褪せている。それでも杏は、毎日それを陽に透かして見た。
父さまは、お医者さま。きっと、誰かを助けている。
杏は、そう信じていた。攫われた日、女官は言った。父は遠くで大事な仕事をしている、と。だから杏は待つのだ。仕事が終われば、父が迎えに来る。
一日に一度、食事を運ぶ女官が来た。無口な女だった。だが杏が押し花を見せると、その女官は一度だけ、ほんの少しだけ、口の端をゆるめた。
「……きれいな花だね」
それきり、何も言わずに出ていった。
杏はその日、嬉しくて、押し花をいっそう大事に握った。父さまが帰ってきたら、この花を見せよう。父さまと摘んだ花を、ずっと枯らさずに持っていた、と。
六歳の杏は、まだ「人質」という言葉を知らなかった。
知らないまま、押し花を陽に透かして、父を待っていた。
◇ ◇ ◇
数日後。季雲は、新しい報告文を受け取った。
白順の筆。村の門は四つ、見張り台は二つ、村人は気を緩めはじめている。冬を前に、備蓄に追われて防備が手薄、と書かれている。
季雲は文を読み、それから、わずかに首を傾げた。
前の文より、乾いている。間者らしい、報告らしい報告だ。求めた通りの形だった。
だからこそ、季雲は警戒した。
「……前は、あれほど湿っていたのに」
季雲は筆を取り、返書をしたためた。次の指示に、一つ、罠を仕込む。
──村の北の沢に、玄朝の物見を伏せた。村人の動きを、その物見の前で確かめよ。
北の沢に、物見などいない。
もし白順が忠実な間者なら、物見を探して右往左往するか、見つからぬと正直に書いてくるはずだ。もし白順が裏切っているなら──この偽情報を、村に利用しようとする。北の沢に村人を伏せ、ありもしない物見を待ち構える。その不自然な動きが、文の端に滲むはずだった。
季雲は文を封じた。
「さあ、どう動く。白順──いや、その後ろにいる者よ」
◇ ◇ ◇
季雲の返書は、いつものように白順の手を経て、林徳の元に届いた。
林徳は文を読み、しばらく考え、それから薄く笑った。
「来ましたね。これは、試しです」
「試し?」白順が訊いた。
「北の沢の物見。これは、嘘です」林徳は言った。「もし本当に物見を伏せたなら、季雲はわざわざ間者に教えません。間者の動きで、自分の伏兵の位置が敵に漏れるからです。教えるということは、いない、ということです」
雪麗が、感心したように息を吐いた。
「季雲は、白順殿を試しています」林徳は続けた。「物見を探して騒げば、間者として動いている証。何もしなければ、それはそれで不自然。どちらに転んでも、こちらの尻尾を掴もうとしている」
「では、どう」
「一番、自然に振る舞います」林徳は筆を取った。「北の沢を、ごく普通に通る。猟に出た蓮殿が、いつも通り沢を通り、物見の影もなかった、と書く。慌てず、探さず、ただ日常を書く。──忠実でもなく、裏切ってもいない。ただの、よくできた間者の文を返します」
林徳は、季雲の罠の上に、何も乗せなかった。
罠は、踏まれて初めて罠になる。踏まなければ、ただの穴だ。
◇ ◇ ◇
その夜、白順は初めて、自分から林徳の元へ来た。
今度は、詫びるためではなかった。
「村長殿。私にも、できることがあれば」
白順は言った。間者として書かされるのではなく、村のために働きたい、と。
「ありがたい」林徳はうなずいた。「では、一つ。あなたの文には、あなたにしか出せない味があります。季雲は、それで本物だと信じている。だから──時々、あなた自身の言葉も、混ぜてください」
「私の、言葉?」
「村の暮らしのこと。誰の熱が下がったか。誰が笑ったか。あなたが本当に感じたことを、少しだけ。季雲は、その湿り気を、間者の心の弱さだと読むでしょう。油断します」
林徳は白順を見た。
「でも本当は、それはあなたの心が、もう村人になっている証です。季雲には、それが見抜けない。人の心を、最後まで数字だと思っているから」
白順は、長いこと黙っていた。
それから、深くうなずいた。村を売る文ではなく、村を守る文を書くために。
◇ ◇ ◇
同じ夜。季雲は、卓の前で一人だった。
まだ返書は届かない。北の沢の罠に、相手がどう動くか。それを待っている。
窓の外、宮城の灯がいくつか消えていく。
季雲は、ふと典礼司の奥に目をやった。あの子供──白順の娘を置いた部屋の方角だった。
駒を従わせるための、人質。それ以上の意味はないはずだった。
だが季雲は、最近になって妙なことを思う。
白順の文が温かいのは、あの子供のせいだ。子供を思う心が、文を湿らせる。歴史学者として、それは「弱さ」のはずだった。利用すべき弱点。
なのに、その湿り気を読むたび、季雲の計算の中で、何かが微かにずれる。
林徳の村は、人の心で動いている。心は数字にならない。数字にならないものは、歴史を動かさない──そう信じてきた。
なのに、あの村は、心で大きくなっている。
「……気の迷いだ」
季雲は呟き、灯を消した。
◇ ◇ ◇
同じ夜、田家村。
林徳は見張り台で、北の空を見ていた。白順から聞いた、杏の話を思い返す。野の花を摘むのが好きな娘。父の帰りを信じている娘。
縁の糸の先で、その小さな気配が、今夜も息づいている。
「待っていてくれ」
林徳は、会ったこともない少女に、心の中で語りかけた。
「迎えに行く。あなたの父さんと、一緒に」
遠い村で、一人の少女のための糸が、今、静かに手繰り寄せられはじめていることを、季雲はまだ知らない。
─ 第三十八話 了 ─
次回、第三十九話「娘を迎えに」




