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おっさん、三国志の世界で軍師をやる 〜200回読んだ知識と計略で気づけば英傑が集まっていた〜  作者: ライディーンたけ


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第三十七話 ─ 混じる者




 流民の第三陣は、六人だった。

 南の街道を、寄り添うように歩いてくる。老婆が二人、夫婦者が二人、若い男が一人。そして最後尾に、木の箱を背負った男がいた。

 四十代の半ばに見えた。背は高くないが、足取りに乱れがない。長く歩き慣れた者の足だった。背の箱には革の帯が掛かり、小さな引き出しがいくつも並んでいる。

 門の前で、男は名を告げた。

「白順と申します。玄朝の南で、医者をしておりました」

 医者。

 その一言で、門の周りの空気が変わった。水を運んでいた村人が足を止めた。誰かが走り出した。村中に報せに行ったのだ。

 医者が来た。村が今、一番欲しいものが来た。

 林徳は門の内で、その言葉を胸の中で繰り返した。

 一番欲しいものが、来た。


  ◇ ◇ ◇


 白順の腕は、本物だった。

 最初に診たのは関明徳の左肩だった。第三十二話の夜に矢を受け、いまだ腕が上がりきらない。白順は傷跡に触れ、肩の骨の位置を指で確かめ、それから眉を寄せた。

「縫った者の腕は確かです。ですが、筋が固まったまま塞がっています。このままでは、腕は肩より上がらぬままでしょう」

「……治るのか」関明徳の声が硬くなった。

「揉みほぐして、少しずつ動かします。半年かかります。だが治ります」

 関明徳は息を呑んだ。剣を握れぬ武人のまま生きる覚悟を、すでに半分していた男だった。

 その日のうちに、白順の小屋の前には列ができた。

 長年腰の曲がったままだった老婆が、白順の灸を受けて、その晩はじめて仰向けで眠れたと言った。畑で鎌に手を切った若い男は、白順の塗り薬で三日後には鍬を握った。

 次は熱を出していた流民の子だった。白順は箱から薬包を出し、湯に溶いて飲ませた。夜半には熱が引いた。母親は白順の手を握って泣いた。

 村は沸いた。竈端でも畑でも、白順の名が出ない場所はなかった。

「天が村を見ている」と老婆が言った。「でなければ、医者がふらりと来るものか」

 林徳もまた、嬉しかった。

 ただ一つ、胸の奥で何かが、微かにざわついていた。


  ◇ ◇ ◇


 それは縁の感覚に、よく似ていた。

 だが違った。縁は、運命に深く関わる者の死を報せる。第二十七話の夜、徐が死んだ時の、あの胸を抉る冷たさ。あれとは違う。

 今あるのは、もっと薄い。霧のような違和感だった。死ではない。警告ですらないかもしれない。ただ、白順という男の方角から、糸が絡まるような感触が来る。

 林徳は井戸端で手を洗いながら、自分に問うた。

 これは能力か。それとも、ただの疑り深さか。

 前世の癖が口を出す。営業の世界で、うますぎる話は必ず裏を疑った。望んだ条件が、望んだ時に、向こうから転がり込んでくる時。それは幸運ではなく、誰かの設計だった。

 だが、と林徳は思う。疑いだけで人を測れば、この村は終わる。村は、人を疑わぬことで大きくなったのだ。

 答えの出ぬまま、手の水を振り払った。


  ◇ ◇ ◇


 雪麗は、動いていた。

 結び目役の仕事として、新しい村人の一人一人から話を聞く。どこから来たか。誰と来たか。途中で何を見たか。責める口調は一切ない。茶を出し、世間話のように聞く。

 その夜、雪麗は帳面を一枚、行灯の下に置いた。

 第三陣の六人の、来た道を線で結んだ図だった。

 五人の話は、綺麗に重なった。同じ橋を渡り、同じ廃寺で雨をしのぎ、同じ渡し場で川を越えていた。

 白順だけが、ずれていた。

「白順殿は、最初から一緒に旅をしてきたと言いました」雪麗は静かに言った。「ですが老婆の話では、白順殿が加わったのは三日前。川の渡し場からです」

「老いた者の、記憶違いでは」

「私もそう思いました。ですから夫婦者にも聞きました。同じ答えでした。三日前、渡し場で、向こうから声を掛けてきたと」

 行灯の火が、小さく揺れた。

「徳殿。もう一つあります」雪麗は林徳を真っ直ぐに見た。「徐光さまの医者は、冬越え後のはずです。なのに医者が、今、来ました。村に医者が要ることを、村の外で知っている者は、徐光さまの他には──」

 言葉は、そこで止まった。止めたのだ。

 その先の名は、二人とも分かっていた。

「早すぎます」雪麗は言った。「欲しいものが、欲しい時に、向こうから来る。それは天の恵みではありません。誰かの設計です」


  ◇ ◇ ◇


 林徳は一人、納屋の裏に立った。

 今日、まだ戦盤を使っていない。一日三回の、一回目。

 目を閉じる。半径百歩の世界が、頭の中に盤として開く。家々の位置、人の動き、井戸、竈。村が光の点となって並ぶ。

 林徳は盤の上で、明日の村を動かしてみた。当番が回る。薪が運ばれる。畑が耕される。点と点が線で結ばれ、村が機織りのように動く。

 ただ一点。

 白順の点だけが、読めなかった。

 盤の上のその一点に触れると、そこから先の線が、墨を流したように黒く濁る。白順が明日どう動くか。村人とどう関わるか。盤が答えを返さない。

 未知は読めない。それがこの能力の制限だ。

 村人たちの点は読める。顧も、新しい八人も、今日来た老婆たちも読める。彼らの望みが分かるからだ。生きたい。食いたい。安心して眠りたい。望みが分かる者の明日は、読める。

 白順だけが、読めない。

 つまりあの男は、村人の望みとは別の何かを、腹の底に抱えている。

 林徳は目を開けた。こめかみに、いつもの頭痛が刺さる。

 能力が証を立てた。だが、と林徳は思った。読めないことと、敵であることは、まだ同じではない。


  ◇ ◇ ◇


 翌日の昼、林徳は白順の小屋を訪ねた。

 白順は薬研で何かを挽いていた。村の裏山で摘んだ薬草だという。手元に迷いがない。

「村長殿、自ら」白順は手を止め、頭を下げた。「お加減でも」

「いえ。礼を言いに来ました。関明徳の肩のこと、子の熱のこと」

「医者の仕事をしたまでです」

 林徳は土間の隅に腰を下ろした。十歳の体は、こういう時に都合がいい。子供が話を聞きに来た。それだけの図に見える。

「白順殿は、南のどちらに」

「玄朝の南、洛安の近くにおりました。戦で町が荒れ、患者ごと焼け出されまして」

 淀みのない答えだった。町の名、通りの名、焼けた日の風向きまで、すらすらと出てくる。

 林徳は前世を思い出していた。商談の席で、嘘をつく相手は二種類いた。下手な嘘つきは、肝心なところで詰まる。上手い嘘つきは逆だ。肝心なところほど、淀みなく流れる。練ってきた答えだからだ。

 だから上手い嘘つきを見抜く時は、練っていないはずの所を訊く。

「ご家族は」

 林徳は、何気ない声で訊いた。

 白順の薬研の手が、止まった。

 ほんの一瞬だった。瞬きほどの間。だが確かに、止まった。

「……娘が、一人。戦のどさくさで、はぐれました」

「そうですか」林徳は立ち上がった。「見つかるといいですね。この村の名簿は、いつでも一人ぶん空けておきます」

 白順は答えなかった。ただ、深く頭を下げた。

 下げた顔が上がるまでの時間が、礼にしては長すぎた。


  ◇ ◇ ◇


 夕刻、白順が薬草を干していると、小さな足音が近づいてきた。

 桃だった。手に、しおれかけた野の花を握っている。

「おいしゃさま。これ、おくすりになる?」

 白順は花を受け取り、しゃがんで桃と目の高さを合わせた。

「これは薬にはなりませんな。ですが」白順は花を桃の髪にそっと挿した。「こうすると、見た者の心の薬になります」

 桃は目を丸くし、それから弾けるように笑った。

「とう、おはな、あたまについてる!」

 駆けていく小さな背中を、白順は長いこと見送っていた。

 六つの杏も、よく野の花を摘んできた。薬になるかと、同じことを訊いた。同じように髪に挿してやると、同じように笑った。

 白順は干しかけの薬草を握りしめた。指の関節が、白くなるまで。


  ◇ ◇ ◇


 その夜。白順は小屋で一人、小さな紙を広げていた。

 行灯はつけない。月明かりだけで、細筆を走らせる。

 村の門の位置。見張り台の高さ。当番の回り方。武器の数。書きながら、指が何度も止まった。

 書かねば、杏が死ぬ。

 典礼司の女官に連れて行かれた日の、娘の顔が浮かぶ。六つになったばかりだった。父さま、すぐ帰る、と娘は言った。違う。帰るのは父の方だ。そう言ってやることも、できなかった。

 月に二度、文を送れ。村の様子を、余さず書け。怠れば、娘の指が一本ずつ届く。

 季雲という女官は、笑いもせずにそう言った。

 白順は筆を置き、両手で顔を覆った。

 今日、村の子の熱を下げた。母親が手を握って泣いた。あの手の温かさが、まだ掌に残っている。

 その掌で、この村を売る文を書いている。

「……杏」

 声は、誰にも届かず、小屋の闇に溶けた。


  ◇ ◇ ◇


 同じ夜、集会所には四人がいた。

 林徳、雪麗、関明慶、蓮。卓の上には雪麗の図と、林徳が話した戦盤の件が置かれている。

「斬る」関明慶が先に言った。「とまでは言わぬ。だが村からは出す。間者と知って置いておく道理はない」

「証はまだありません」蓮が言った。「道筋の食い違いと、盤で読めぬこと。それだけで人を追えば、村の名が廃れます。私は、泳がせて見張るのがいいと思う」

「見張りには人手が要る」関明慶が首を振った。「ただでさえ人が増えて、目が足りておらん」

 雪麗は黙って林徳を見た。

 林徳は、卓の上の図を見つめていた。

 追えば、確実に安全だ。だが季雲は次を送り込む。今度はもっと上手な、こちらが見抜けない者を。

 泳がせれば、情報は守れる。だが白順は文を書き続け、いつか娘ごと潰される。

 どちらの道も、季雲の盤の上だ。

 季雲は言ったはずだ。村の美点を毒に変える、と。人を疑わぬ村に間者を入れ、村を疑心で内側から割る。追っても泳がせても、村には「新しい村人を疑う」という毒が残る。

 なら、選ぶ道は一つしかない。

「迎える」

 林徳は顔を上げた。

「白順殿を、村の医者として正式に迎える。役札を渡し、名簿の備考に医師と記す。明日、村の皆の前で」

「正気か」関明慶が腰を浮かせた。「間者だぞ」

「間者です。そして、医者です。そして恐らく、人質を取られた父親です」

 林徳は、白順の止まった薬研の手の話をした。家族を訊かれた時の、あの一瞬を。

「季雲は、人を駒として使います。駒の心は計算に入れない。歴史を動かすのは構造だと信じている人だから。なら、こちらは駒の心を取りに行く」

「……寝返らせる、と」雪麗が静かに言った。

「いえ。寝返らせようとも、しません」林徳は首を振った。「ただ、本物の居場所を渡します。本物の役を、本物の信頼を、本物の村人の暮らしを。嘘の任務と本物の居場所を、毎日天秤に掛けながら生きてもらう。人の心は、必ず重い方に傾きます」

 蓮が、小さく息を吐いた。

「能力で勝てない時は、心で勝つ。徳殿の、いつものやつだ」

「季雲は村の美点を毒に変えると言いました」林徳は言った。「なら、こちらは毒を薬に変えます。医者を送り込んできたのは、向こうの方ですから」

 関明慶は長いこと黙っていた。やがて腰を下ろし、低く唸った。

「……分かった。だが一つだけ条件だ。あの男の小屋の位置は、武器蔵から一番遠い所に移す。心を信じるのと、備えを怠るのは別の話だ」

「それでお願いします」林徳は頭を下げた。「備えは関明慶殿の役。信じるのは、俺の役です」


  ◇ ◇ ◇


 翌朝、村の広場に人が集まった。

 銭弼が名簿を開き、林徳が白順の前に立った。手には、新しく彫った役札がある。薬研の印を刻んだ、村で一枚きりの札だった。

「白順殿。この村の医者として、正式にお迎えします」

 林徳は札を差し出した。

「この村では、過去がどうであれ、名簿に名を書いた日から村人です。村人の病はあなたが診る。あなたの暮らしは村が守る。それから──」

 林徳は、白順の目を真っ直ぐに見た。

「あなたが守りたいものがあるなら、いつか必ず、村も一緒に守ります。村人の大事なものは、村の大事なものですから」

 白順の手が、札を受け取った。

 その手が、震えていた。

 周りの村人は、感激の震えだと思っただろう。関明徳が真っ先に手を叩き、桃が「おいしゃさま、おいしゃさま」と跳ね、広場は拍手に包まれた。

 白順は深く、深く頭を下げた。

 林徳は拍手の中で、静かに思っていた。

 これは賭けだ。白順が文を書き続けることは止められない。村の情報は、しばらく漏れ続ける。関明慶の言う通り、備えは欠かせない。

 だが季雲の盤の上で、駒は数字でしかない。こちらの盤の上では、駒は人だ。同じ一手でも、人として扱われた駒は、いつか自分の意志で動き出す。

 数字で勝つことより、信じてくれる人を裏切らないことの方が大事。

 その逆もまた、真のはずだった。裏切れない人に、なってしまえばいい。

 顔を上げた時、その目尻が濡れていた。それが何の涙か、正しく知る者は、広場に二人しかいなかった。


  ◇ ◇ ◇


 数日後。玄朝の都、典礼司の一室。

 季雲の手元に、最初の文が届いた。

 白順の細筆。村の門の位置、見張り台、当番の仕組み。求めた情報は、確かに書かれていた。

 季雲は文を二度、読み返した。

 そして、わずかに目を細めた。

「……どう思う」

 控えていた女官が首を傾げた。

「漏れなく書かれているかと。あの医者、役には立つようで」

「内容ではない」季雲は文を卓に置いた。「書き方だ」

 村の子の熱が下がったこと。関明徳という武人の肩が動きはじめたこと。村人が薬草摘みを手伝ってくれること。求めてもいない暮らしの様子が、行間に滲んでいる。

 間者の文は、乾いているものだ。この文は、湿っている。

「報告が……温かい」

 季雲は呟き、しばらく文を見つめた。

 それから筆を取り、短い返書をしたためた。文末に、一行だけ添える。

 ──杏は息災である。励め。

 駒には時折、鞭ではなく餌を見せる。歴史学者として、人質の使い方は知り尽くしている。

 だが筆を置いた後も、季雲の目は、卓の上の文から離れなかった。

 計算の中の何かが、半歩だけ、ずれはじめている気がした。



─ 第三十七話 了 ─


次回、第三十八話「遠い娘」


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