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おっさん、三国志の世界で軍師をやる 〜200回読んだ知識と計略で気づけば英傑が集まっていた〜  作者: ライディーンたけ


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第三話 ─ 影、淮陽に至る

【前回までのあらすじ】

明国の南、十歳の少年に転生した林徳(中身は四十歳の元法人営業マン・林健一)。神から授かった三つの能力──戦場の盤面を読む『戦盤』、前世で読んだ書を脳内参照する『万書の眼』、運命の人を引き寄せる『縁』を駆使し、五人の元山賊を従えて北の街・淮陽に到着。母の薬を求めて訪れた薬師「楓堂」では、老薬師・楓と孫娘の玲と縁を結んだ。その夜、訳ありの流れ者・関明慶が玄朝の元・近衛将軍家の三男であると明かし、林徳に主従の誓いを立てた。





夜が、明けた。

淮陽の場末の宿の、薄い板壁を通して、市場の喧騒が、徐々に強くなっていく。林徳は、薄い夜具の中で、目を開けていた。

十歳の体は、まだ眠りたがっていた。だが、中身の四十歳は、もう、目を覚ましていた。


(……今日は、楓堂での初日だな)


ゆっくりと、起き上がる。

部屋の隅で、関明慶が、すでに身支度を整えていた。窓辺に立ち、外の通りを見下ろしている。背筋が、まっすぐに伸びていた。昨夜、行灯の前で頭を下げた、流れ者の影は、もう、そこにはなかった。


「関どの、おはようございます」


「主、おはようございます」


その声に、はっきりとした、武人の張りがあった。

林徳は、ふと、思った。──この男は、十歳の自分を「主」と呼ぶことを、もう、当然と受け入れている。それは、林徳の何かではなく、関明慶という男の、誠実さの問題だった。


「……関どの。一つ、お話が」


「はい」


「あなたを追っている者たちが、もう、この街に入っているかもしれません」


関の動きが、止まった。

窓の外を見つめたまま、わずかに、目を細めた。


「……根拠は」


「『戦盤』が、昨晩から、ざわついております」


林徳は、淡々と、続けた。


「あなたが正体を明かされた瞬間、私の頭の中で、可能性が分岐し始めました。あなたを追っている者がいる。半年、追われ続けて、ここまで流れた、と仰った。半年、追い続けて、見失わない追手は、素人ではありません」


「……」


「そして、淮陽は、明国の北端。あなたが南へ流れる、最後の街です。──追手が、もし、あなたの行き先を絞り込めるとしたら、ここ、なのです」


関は、しばらく黙っていた。

やがて、ゆっくりと、振り向いた。


「主。──ご慧眼に、敬服いたします」


「いえ、ただの推測です」


「いえ、当たっています」


関は、静かに、続けた。


「私が淮陽に入った頃、街道の手前で、見覚えのある面構えの者を、一人、見ました。気づかぬふりをして、通り過ぎましたが」


林徳の胸の奥が、冷たくなった。

戦盤が、瞬時に、複数の対応策を展開した。──関を逃がすか、戦うか、街の権力に庇護を求めるか、それとも別の手か。


(……いや、待て)


林徳は、深呼吸をした。


(戦うのは、論外だ。十歳の体と、関一人で、訓練された暗部に勝てるわけがない。逃がすのも、半年逃げ続けて捕まらなかった関を、捕まえたんだ、向こうは。逃しても、また追いつかれる)

(街の権力に庇護を求める──だが、淮陽の役所は、おそらく腐っている。あの兵の配置と、街の流民の数を見れば分かる。役人は、銭の動く方に(なび)く。玄朝の暗部の方が、銭を持っている)


(……だとすれば、答えは、一つだ)



◇ ◇ ◇



「関どの。あなたは、私の従者として、堂々と、楓堂に出ていただきます」


関が、目を見開いた。


「……堂々と?」


「左様です。あなたが私の小者として、楓堂で働いている、と、この街の誰もに知らしめます。商家の坊主と、その従者。それ以上でも、それ以下でもない」


「……主。それは、追手に、見つかれと言っているようなものです」


「いいえ、逆です」


林徳は、静かに、首を振った。

脳内で『万書の眼』が、一節を運んできた。三国志演義の、ある有名な場面だった。


──『虚なるを示すに虚を以てし、実なるを示すに実を以てす』


「──空城計、と申します」


「……空城計」


「敵は、あなたを追って、半年。あなたが、賢く、逃げ続けた経験を、知っております。だとすれば、敵は『関明慶は、必ず、隠れる』と、想定しています」


「……」


「ところが、私たちが、堂々と、人目につく場所で、商いの真似事をしている。追手は、まず、こう思います──『これは、関明慶ではない。よく似た別人だ』、あるいは『これは、罠だ』、と」


「……」


「敵は、慎重になります。慎重になれば、即座には動きません。動かない間に、私たちは、布石を打つ時間を稼げます」


関は、しばらく沈黙した。

そして、深く、息を吐いた。


「……主。あなたは、本当に、十歳ですか」


「先日も、同じことを言われました」


林徳は、わずかに、苦笑した。

四十歳の苦労人の表情だった。


「ただし、空城計は、敵が慎重な相手にしか効きません。短気で乱暴な敵には、逆効果です。だから、もう一つの仕掛けを、用意します」


「……何を、ですか」


「楓堂の、楓老師に、お話を、通します」



◇ ◇ ◇



楓堂を訪れた林徳は、店の奥の卓で、楓老師と、向かい合っていた。

玲が、後ろで、薬を仕分けていた。耳は、こちらを向いていた。


「……御老師。一つ、お願いがございます」


「ふむ」


「私の従者の関について、一つ、御老師に、ご認識を、お持ちいただきたい話がございます」


林徳は、簡潔に、事情を話した。

関明慶が、玄朝の腐敗を告発して追われていること。今、淮陽に追手が来ている可能性があること。林徳は、関を匿うのではなく、堂々と、楓堂の小者として、置きたいこと。


「……ふむ」


楓老師は、薬研を、ゆっくりと、回し続けていた。

林徳は、続けた。


「御老師に、お聞き及び願いたいのは、その先でございます」


「……その先?」


「淮陽の街には、おそらく、玄朝中央の腐敗を、苦々しく思っておられる方々が、いらっしゃいます。商人、医者、文人、地方の小官──腐った中央を、見て見ぬふりをしながら、心の中で、嘆いておられる方々が」


楓老師の手が、止まった。

林徳は、楓の目を、まっすぐに見た。


「御老師は、四十年、淮陽で薬師をなさっておいでです。この街の、表も裏も、ご存じのはずです。──関明慶は、玄朝の腐敗と戦って、家を失った男でございます。彼を、ただの罪人として、引き渡すか、義の士として、お守りいただくか。それは、この街の良心の、試金石でございます」


楓老師は、長い沈黙のあと、静かに、薬研を、置いた。


「……坊や」


「はい」


「お前さん、本当に、十歳か」


「……先ほどから、同じ質問を、二度、いただいております」


林徳は、十歳の少年の顔で、わずかに、笑った。

楓老師も、釣られるように、(しわ)の深い顔を、緩めた。


「ふむ、ふむ。──分かった。お前さんの言う『良心』とやら、この街にもまだ、わずかに、残っておるよ。古い、医者や、書肆(しょし)や、職人たちに。──呼んでこよう。お前さんの話を、聞きたがる者が、いるかもしれん」


「ありがとうございます」


「ただし、坊や」


楓老師は、林徳の目を、じっと、見た。


「お前さんは、もう、ただの薬代を払いに来た坊や、ではない。お前さんは、淮陽の闇に、一石を投じる、何者かだ。──覚悟は、できているか」


林徳は、頭を下げた。


「……はい」



◇ ◇ ◇



その日のうちに、五人の老人が、楓堂の奥座敷に集まった。

白髭の医師、痩せた書肆の主、足を引きずる職人、隠居した元小官、そして、楓老師。皆、六十を越えていた。皆、目に、何かを諦めきれない光を宿していた。

林徳は、その前で、深々と、頭を下げた。

十歳の少年が、五人の老人の前で、四十歳の魂で、語った。


「皆さま。私の従者、関明慶を、(しばら)く、お守りいただきたく、参じました」


五人は、関を見た。

関は、入り口で、まっすぐに立っていた。武人の背筋だった。


「関は、玄朝の近衛将軍家、関氏の三男にございます。父・関子陽(かん しよう)さまは、宮中の腐敗を諫めて、毒殺されました」


五人のうち、白髭の医師が、はっと、顔を上げた。


「……関子陽。あの、関子陽どのか」


「ご存知でいらっしゃいますか」


「知っておる。三十年前、わしが都に修行に行った折、関子陽どのには、お世話になった。──あのお方の、ご令息か」


医師の目が、(うる)んでいた。

林徳は、頭を下げたまま、続けた。


「関は、父の遺志を継ぎ、宮中の腐敗を告発する書状を回しました。発覚し、家は取り潰され、兄二人は処刑され、関一人が、辛うじて逃れました。半年、追われ続けて、ここ、淮陽に流れ着きました」


五人の老人は、沈黙していた。

風が、奥座敷の障子を、わずかに揺らした。


「皆さまは、淮陽の良心でいらっしゃいます。腐った中央を、見て見ぬふりをなさりながら、心の中で、嘆いておられた方々と、お見受けいたします」


「……」


「私は、十歳の子供にございます。私には、関を守る力は、ございません。私にできるのは、皆さまの、心の中の良心に、訴え、お願いを、申し上げることだけでございます」


林徳は、もう一度、深く、頭を下げた。


「──関を、お守りください」


五人の老人は、長い沈黙のあと、互いに、顔を見合わせた。

そして、隠居した元小官の老人が、ゆっくりと、口を開いた。


「……坊や。お前さんの言うことは、もっともだ。だが、わしらに、何ができる」


「お一つだけ、お願いがございます」


「……一つだけ?」


「淮陽の街で、関の存在を、『楓堂の小者』として、当然の事実として、ご認識ください。問われたら、『あの子は、楓堂で十年前から働いている、ただの小者だ』と、お答えください。たったそれだけです」


「……たった、それだけか」


「それが、空城計の、(かなめ)でございます」


五人が、目を、見開いた。

元小官の老人が、わずかに、笑った。


「……坊や。お前さん、軍学を、修めたことが、あるのか」


「いえ、ただの、商家の倅でございます」


「……」


元小官は、しばらく、林徳の顔を、見つめた。

そして、深く、頷いた。


「分かった。わしら五人、この街の良心の最後の灯火として、お前さんの空城計に、加担しよう」



◇ ◇ ◇



三日後。

淮陽の街に、二人の旅人が、入った。

地味な衣、目立たぬ容貌。だが、腰の構え、足の運び、視線の動き、すべてが、訓練された者の、それだった。

二人は、街の宿に泊まり、市場を歩き、薬師や書肆や職人に、問いを投げた。


「──関明慶という、流れ者を、見ていないか」


医師は、首を傾げた。


「関明慶? いや、知らんな。うちには、来ておらん」


書肆の主は、笑った。


「関、ね。うちの店には、関姓の小者が、楓堂に一人おるよ。あれかね? 十年来の小者だがな」


職人は、淡々と、答えた。


「楓堂の関? 知っとるよ。気の良い男だ。十年前から、楓老師の店にいる」


元小官は、静かに、答えた。


「関? あの楓堂の小者か。あの男なら、毎日、市場で見るぞ。何か、あったのか」


二人の追手は、市場の片隅から、楓堂を、観察した。

店先で、林徳という十歳の坊主が、客の応対をしていた。

その背後で、関と呼ばれる男が、薬の箱を、運んでいた。堂々と、何の警戒もなく。


二人の追手は、顔を見合わせた。

そして、低い声で、互いに、言葉を交わした。


「……別人か」


「いや、似てはいる。だが、関明慶が、こんな所で、堂々と、小者として働く、はずがない」


「罠の、可能性は」


「……あり得る。これだけの数の、街の者が、口を揃えて『十年来の小者』と言う。仕組まれた話なら、規模が、大きすぎる」


「……一旦、引くか」


「ああ。本部に、報告を、上げる」



◇ ◇ ◇



二人の追手が、淮陽を出たのは、その日の夕方だった。

市場の片隅、楓堂の二階の窓から、林徳と関は、彼らの後ろ姿を、じっと、見ていた。

関は、長い間、無言だった。

やがて、絞り出すように、呟いた。


「……主」


「はい」


「あなたは、本当に、刀を、抜かなかった」


「左様でございます」


「五人の老人と、一つの嘘で、二人の暗部を、退かせた」


「五人の老人と、淮陽の良心、でございます。私の力では、ありません」


関は、ゆっくりと、林徳の前で、膝をついた。


「主。──私は、あなたに、命を、捧げる」


「……関どの」


「これは、昨夜の誓いとは、別物です。昨夜は、恩義のためでした。今、私は、あなたの『生き方』そのものに、心を、奪われた」


林徳は、静かに、関の肩に、手を置いた。

十歳の小さな手が、四十年生きた魂の温かさで、関の肩を、撫でた。


「関どの。──共に、参りましょう。私は、母を救い、あなたは、父の遺志を、果たす。私たちの行く道は、まだ、長うございます」


「……はい」


窓の外、淮陽の街並みに、夕日が、降り注いでいた。

まだ、林徳は、知らない。

二人の追手が、本部に持ち帰った『楓堂の小者・関』の報告が、玄朝の暗部の中で、思いがけぬ波紋を生むことを。

そして、その波紋の中で、林徳の名が、初めて、玄朝中央の、ある一人の耳に、届くことを。




─ 第三話 了 ─


次回、第四話「銀一両、母への薬」


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