第三十四話 ─ 夏明国王の決断、田家村の影
【前回までのあらすじ】
関明徳の隠れ家で、雪麗は「ホームは土地ではなく、人」だと告げた。彼女は十二歳で亡国の姫となった経験から、林徳に三つの道を示した。玄朝に亡命、明都で追放処分、そして第三の道──「田家村を明国と玄朝のどちらの支配外にも置く独立勢力にする」。林徳は三つ目の道を選んだ。五人で田家村へ南下する街道、雪麗は林徳の馬の後ろから、十歳の体を抱きしめた。同じ刻、明都の謁見の間。玄朝中央から正式な抗議文が届き、夏明国王が震える手で書状を読んでいた。雪麗の知略の道、夏明国王の決断、季雲の次の手──三つの力がぶつかり合う、最終局面が近づいていた。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳
関明慶 主人公の最初の家臣
関明徳 関明慶の弟、左肩に重傷
蓮 北方民の女猟師
雪麗 亡国の姫、本物の知略家
夏明国王 明国の若き君主
許明 夏明国王の侍読
藤 戸部・尚書補佐
銭弼 田家村の指揮官
桃 趙の五歳の娘
徐光 玄朝・陳派の使者(今回登場)
季雲 もう一人の転生者
明都の宮中、夜。
夏明国王の私室。
窓の外に、雨が降っていた。
夏明国王は、机の前に、座っていた。
手元に、二枚の書状。
一枚は、玄朝中央から届いた林徳の身柄引き渡しの、要求。
もう一枚は、季雲から届いた圧力書状。
──「林徳を追放処分にし、田家村を明国の支配外と宣言せよ。さもなくば、玄朝との本物の戦になる」。
二十代後半の若き君主は、深く息を吐いた。
許明が、彼の隣に、立っていた。
「夏明国王さま」
「許明、いかが思う」
「お苦しい選択でございます」
「左様だ」
夏明国王の声に、深い疲労があった。
彼は、林徳を、本物の友人として、見ていた。
明都で初めて会った、十歳の少年。
明国の改革の協議で的確な采配を見せた、社畜の頭脳。
その者を、玄朝に、引き渡すことなど、できなかった。
だが、引き渡さなければ、玄朝との、戦になる。
明国の多くの民が、犠牲になる。
◇ ◇ ◇
「許明」
「はい」
「林徳どのから、書状は届いたか」
「まだでございます。──ですが玄朝の街道で関明徳どのの隠れ家に戻られた、との情報はございます」
夏明国王は、わずかに頷いた。
林徳が、まだ玄朝の領内にいる。
しかし彼は、明国に戻ってくるのか、それとも玄朝で亡命の道を選ぶのか。
「夏明国王さま」
「うむ」
「私から、お一つご提案が」
「申せ」
「林徳どのは、決して、玄朝に、留まる方では、ございません。──必ず明国の、田家村に戻られます」
「許明、お主なぜそう断言できる」
「林徳どのは、人を信じる方でございます。──田家村の村人を置いて玄朝に留まる、選択肢はない」
夏明国王は、深く頷いた。
許明の見立てが、正しいことを、彼は、知っていた。
林徳という人物の本質は、そこにあった。
◇ ◇ ◇
その同じ夜。
玄朝の山道、暗い杉林の中。
五頭の馬がゆっくり、進んでいた。
雨は、まだ降っていなかった。
だが、空気が湿り始めていた。
関明徳が、先頭で、暗闇の中を、案内していた。
彼の左肩の傷は、まだ痛んでいた。
しかし彼は、馬の手綱をしっかり握っていた。
「主」
関明慶が林徳に、低く囁いた。
「明徳の傷の様子は」
「ご心配ですか、関どの」
「左様でございます」
「弟御を心からお慕いになる、お兄上のお心がよく分かります」
林徳の言葉に、関明慶が深く頷いた。
武人として二十年。
彼が、初めて弟と並んで戦った夜が、終わったばかりだった。
雪麗が林徳の後ろから、低く囁いた。
「徳殿。──関明徳さまには、休息が必要でございます」
「左様でございますね、雪麗さま」
「次の休息地でひと晩、お休みなされませ」
林徳は、馬の歩を、わずかに緩めた。
関明徳の体力は、もう限界に近かった。
◇ ◇ ◇
夜明け。
五人は、玄朝の山道の、廃屋に、辿り着いた。
昔、玄朝の杣人が使っていた小さな、小屋。
関明徳が五年の潜伏の間に何度も使った、隠れ家の一つ。
屋根が半分、抜けていた。
だが、雨を、わずかに防げた。
関明慶が弟を、布団に寝かせた。
蓮が、もう一度傷の手当てをした。
雪麗が、火を起こした。
林徳は、小屋の外に出て、空を、見た。
雨が、本格的に、降り始めていた。
(雨か。──追っ手の足が止まる)
(だが、私たちの足も止まる)
林徳の戦盤が、わずかに回り始めた。
雨の日は、戦には、不利だが、逃げる側にも、不利だった。
双方が止まる。
しかし、彼らには、急ぐ理由が、あった。
田家村まで馬で、まだ五日。
◇ ◇ ◇
その同じ朝、田家村。
神社の丘の上で、銭弼が朝の見回りを終えていた。
雪麗の誘拐から、すでに十二日。
林徳が玄朝へ向かってから、すでに八日。
村は、表面上は、静かだった。
だが、銭弼の中で、緊張は、消えていなかった。
三人の男手の墓。
徐、陳、張。
毎朝、銭弼は、その墓の前に、立っていた。
彼らの遺志を、彼は毎朝確認していた。
「銭弼さま」
桃の声が、後ろから響いた。
五歳の女の子が、銭弼の傍に、走ってきた。
「桃、おはよう」
「銭弼さま、おはよ」
「お早うございますね。──いかが、なされましたか」
「桃、ね、思ってるの」
「何を、思っておられますか」
「徳兄さま、もうすぐ帰ってくる」
銭弼の体が止まった。
◇ ◇ ◇
「桃、それはどこから、お聞きになりましたか」
「だれからも、聞いてないよ。桃、思うの」
「思う、と申しますと」
「桃のこころが、徳兄さまのこころと、つながってるみたい」
銭弼は、しばらく桃の顔を見ていた。
五歳の女の子の、確信に満ちた目。
大人の理屈では説明できない、何かが、そこにあった。
銭弼はゆっくり、頷いた。
「桃、ご一緒に待ちましょう」
「うん。──ね、もうすぐね」
桃の声に、揺るぎはなかった。
銭弼は、心の中で、ある可能性を、感じていた。
──「林徳どのが、雪麗さまを、お救いになり、田家村に向かっておられるのかもしれない」。
その予感は、銭弼の中で、確信に、変わり始めていた。
◇ ◇ ◇
昼。
明都の宮中、謁見の間。
夏明国王が、玉座に、座っていた。
許明と、藤が、玉座の手前に、立っていた。
「許明、藤」
「はい」
「私は決めた」
夏明国王の声に、深い覚悟があった。
「玄朝への返答を、こう書く。──『林徳は明国を勝手に抜け出した、独断者である。明国は彼の身柄を引き渡す権限を持たない。なぜなら田家村は、明国の正式な支配下ではないからである』」
許明と藤の体が、止まった。
その内容は、雪麗の知略と寸分違わず、一致していた。
「夏明国王さま」
「許明、いかがした」
「──雪麗さまの、お知恵でございますか」
「いや、私の判断だ。──しかし雪麗さまが、同じことを考えておられるとしても、私は驚かない」
「左様でございますか」
夏明国王は、深く頷いた。
「藤」
「はい」
「玄朝への返答書状を、お書きください。──そして明日の朝、玄朝の使者にお渡しください」
「承知いたしました」
◇ ◇ ◇
夏明国王は、ゆっくり玉座から、立ち上がった。
窓の外を、見た。
雨が止んでいた。
空が青く、開けていた。
(林徳どの。──あなたの帰る田家村は、明国の支配外となります)
(私が、できる最後のお守りでございます)
二十代後半の、若き君主の決断。
彼の中で、何かが、決定的に、変わっていた。
君主として、初めて彼は、自国の領土を、わずかに削った。
その代わりに、林徳という、若き才能を、守った。
そして、玄朝との、本物の戦を、避けた。
社畜時代の言葉を、彼は、知らない。
だが、彼の中で、林徳が、いつか、彼に語った、ある言葉が、響いていた。
──「数字で勝つことより、信じてくれる人を裏切らないことの方が、大事だ」。
◇ ◇ ◇
その同じ昼、玄朝の山道。
雨が止んだ。
五人が廃屋を出ようとした、その時。
関明徳が、ふと空を、見た。
「皆さま」
「明徳、いかがした」
「鳥の鳴き声が止みました。──近くに、誰かがおります」
林徳の戦盤が、瞬時に回り始めた。
半径百歩。
確かに、複数の動き。
武装した者が、廃屋を、囲んでいた。
関明慶が、剣を、抜いた。
蓮が、長弓に、矢を、つがえた。
雪麗が、林徳の傍に、寄った。
「関明徳さま、玄朝の追っ手でございますか」
「分かりません。──ですが足音は十名程度。追っ手にしては、少なすぎます」
その時、廃屋の外から、低い、男の声が、響いた。
「関明徳どの。──私だ。徐光だ」
◇ ◇ ◇
関明徳の体が、瞬時に止まった。
五年の潜伏で、彼が最も信頼していた玄朝・陳派の協力者。
徐光。
三十代後半。元・玄朝の文官。
関子陽の弟子だった過去がある、男。
「徐光どの、いまお一人で、いらっしゃいますか」
「私と、陳派の護衛九名。──戦うつもりはない」
関明徳は、林徳の方を見た。
「林徳どの、徐光どのは信頼できます。──父・関子陽の弟子でした」
「お会いいたします」
林徳は、深く頷いた。
廃屋の戸が、ゆっくり開いた。
外に、徐光が立っていた。
絹の深緑の衣。武人の体つきだが、目には文官の、知的な光があった。
◇ ◇ ◇
「林徳どの。──初めまして」
徐光は、深く頭を下げた。
「徐光さま、お会いできて光栄でございます」
「直接、お話を、申し上げます。──玄朝・陳派は、季雲と袁派の連携を、本物の脅威と、見ております」
「……」
「彼女は、玄朝を、明国との戦に、引きずり込もうとしております。──我々、陳派は、それを、止めたい」
林徳の戦盤が、深く回り始めた。
──玄朝の中の、敵の敵は味方になる。
「徐光さま。──ご提案がおありでしょうか」
「左様でございます。──暫定的な同盟を、お結びしたい」
「具体的に、いかが」
「林徳どのが、明国に戻られた後、玄朝中央で、季雲と袁派の動きを、抑え込みます。──呉永寿への、抗議書状の取り下げを、迫る、力も、あります」
◇ ◇ ◇
「徐光さま、お見返りは」
「林徳どのが、玄朝・陳派と、密かに、繋がっている、ことは、明かさず。──ただいずれ、玄朝の中で、季雲が、本物の動きを見せた時、我々を、お信じいただきたい」
「承知いたしました」
林徳の十歳の手が、徐光の手を、握った。
暫定的な同盟。
季雲と袁派の動きを、玄朝の中で、牽制する力が、いま、林徳の側に、加わった。
雪麗が、深く頷いた。
「徐殿。──関子陽さまのお弟子でいらっしゃるとは、ご光栄でございます」
「雪麗さま。──関子陽さまは私の、政治の師でもございました。──あなたさまもお父上のお弟子で、いらっしゃいますね」
「左様でございます」
徐光は、わずかに微笑んだ。
政治の世界の深い繋がりが、いま明国と玄朝の両側で、組み上がりつつあった。
◇ ◇ ◇
徐光は、書状を林徳に渡した。
「これは玄朝・陳派の、隠密の連絡先でございます。──いつでも、ご連絡を」
「ありがとうございます、徐光さま」
「林徳どの。──お一つだけ」
「お聞かせください」
「季雲どのは、ただの、政治家では、ございません。──彼女は、歴史の知識を、誰よりも、深くお持ちです。──普通の戦略では、彼女には、勝てない」
林徳の体が、わずかに止まった。
徐光は知らないはずだった。
季雲が、転生者であることを。
だが彼の表現は、季雲の本質を見抜いていた。
「徐光さま、ありがとうございます」
「お気をつけて、お戻りくださいませ」
◇ ◇ ◇
徐光と、陳派の九名が去っていった。
林徳一行は、再び馬に乗った。
関明徳が、ようやく、笑った。
「林徳どの。──玄朝に初めての、本物の味方ができました」
「左様でございますね、関明徳さま」
雪麗が、林徳の馬の、後ろに、戻った。
彼女の白い手が、また林徳の小さな胸の前で、組まれた。
「徳殿、まいりましょう」
「はい、雪麗さま。──田家村まで、まいります」
五頭の馬が、玄朝の山道を、再び、駆け始めた。
雨上がりの空気。
杉の香り。
林徳の心の中で、戦盤の上の駒の配置が、新しく組み上がっていた。
──玄朝・陳派、徐光。
──明国・夏明国王、許明、藤。
──田家村、銭弼、趙、村人、桃。
──彼の四人の仲間。
味方は、増えていた。
ホームは、まだ田家村だけだ。
だが、その田家村を、彼は、必ず独立した、第三の場所に、する。
◇ ◇ ◇
夕暮れ、田家村。
桃が、神社の丘の上に、立っていた。
西の空が、橙色に、染まっていた。
桃の小さな手に、雪麗が贈った布の人形。
彼女はずっと、西の街道の方角を見ていた。
「とくにいさま。──ゆきねえさま」
桃の声に、確信があった。
「もうすぐ、ね」
その時、銭弼が、丘の上に、上ってきた。
「桃、夕食でございます」
「銭弼さま」
「いかがされましたか」
「桃、ね。明日、皆さまがお帰りになる気がするの」
銭弼は、桃の傍に、座った。
彼の中で、桃の予感が、本物の、可能性に、変わっていた。
雪麗誘拐から、十二日。
林徳が玄朝へ向かってから、八日。
計算上、そろそろ戻ってくる時期。
「桃、その時のためにご用意を、いたしましょう」
「うん!」
桃の声が、初めて本物の、喜びに、満ちていた。
◇ ◇ ◇
その時、玄朝の領内、別の場所。
季雲が、明都への馬車の中で、新しい書状を、読んでいた。
差出人は、玄朝のある衛兵長。
書状の内容は、簡潔だった。
『季雲さまへ
林徳一行、玄朝・陳派の徐光と、廃屋で接触。
暫定的な同盟を、結んだ、模様。
衛兵長』
季雲の顔色が、わずかに変わった。
徐光。
関子陽の弟子。
陳派の有力な、使者。
季雲は、彼の動きを、把握していた。
だが、林徳と、これほど早く、接触するとは、予想外だった。
(林徳どの。──また私の計算を、わずかに超えましたね)
季雲は、ゆっくり墨を磨り始めた。
次の手は、より複雑になる。
歴史学者の彼女は、玄朝・陳派の介入を計算に入れ直す必要があった。
◇ ◇ ◇
まだ林徳は、知らない。
夏明国王がいま、玄朝への正式な返答を書き終えていることを。
雪麗の知略の道がいま、現実になろうとしていることを。
そして、季雲が新しい、もっと深い計算を始めていることを。
五頭の馬が、玄朝の南へ進み続けた。
関明徳の傷は、回復し始めていた。
関明慶の中に、新しい誇りが生まれていた。
蓮の弓はいつでも、放てる状態だった。
雪麗は林徳の後ろから、彼の十歳の体を温かく抱えていた。
林徳の心の中で、田家村の村人たちの顔が、一人ずつ、浮かんでいた。
桃。銭弼。趙。李。蘇。──そして亡くなった徐、陳、張。
──「皆さま、もうすぐ戻ります」。
第四部の幕は、いま、ゆっくり降りようとしていた。
第五部、田家村独立への道。
その先に、季雲との最終決戦と、林徳の新しい生き方が待っていた。
─ 第三十四話 了 ─
次回、第三十五話「再会、桃の涙」




