第三十三話 ─ ホームを失った者の、選ぶ道
【前回までのあらすじ】
呉永寿の別邸への救出戦。蓮の長弓、関兄弟の侵入、林徳と張の正門の騒ぎ。すべて、順調に運んだはずだった。だが、雪麗が客間で発見した「明国戸部の偽造書状」。関明徳が単身で書状を取り戻したが、左肩に深手を負った。張は正門で命を落とした。隠れ家で五人が再会した時、雪麗は告げた。「呉永寿さまは私に何度も林徳どのの人物像を聞きました。彼は林徳どのを明国の使者として、玄朝中央に報告する材料を集めていたのです」。季雲の真の目的は雪麗の誘拐ではなかった。──林徳から、明都という帰る場所を奪うこと。だが、雪麗は林徳の頬に触れて告げた。「あなたさまには、私たちがおります」。──「あなたの居場所は人だ」。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳
関明慶 主人公の最初の家臣
関明徳 関明慶の弟、左肩に重傷
蓮 北方民の女猟師
雪麗 亡国の姫、本話で本物の知略を発揮
夏明国王 明国の若き君主
季雲 もう一人の転生者
桃 趙の五歳の娘
夜明け。
関明徳の隠れ家。
囲炉裏の火が、わずかに揺れていた。
関明徳は囲炉裏の傍で、横になっていた。
左肩に、清潔な布が巻かれていた。
蓮が、北方民の薬草で、傷を、手当てしていた。
北方の雪山で何度も使った、止血と消毒の薬草。
関明徳の顔色は、まだ青ざめていた。
だが、命に、別状はなかった。
関明慶は、弟の傍に、座っていた。
武人として二十年。
弟の傷をこんなにも近くで見るのは、初めてだった。
雪麗は囲炉裏の反対側で、静かに座っていた。
白い衣。形見の銀の簪。
彼女の頬には、まだ別邸での緊張が、残っていた。
林徳は、戸口に立っていた。
外を見ていた。
夜が明けつつあった。
山際の空が、薄い橙色に染まっていた。
その光景を、林徳は、しばらく動かずに、見ていた。
(俺は、ホームを失った)
◇ ◇ ◇
昨日、夏明国王の前で改革を引き受けた、十歳の少年。
いま、玄朝の山際の小さな農家の戸口に立つ、一人の亡命者。
四十年の社畜の頭が、ゆっくり整理を始めていた。
戻れる場所が、もう明都には、ない。
田家村は、まだある。
だが玄朝の追っ手が村まで来れば、雪麗も桃も銭弼も、危険にさらされる。
社畜時代、彼は、何度も、転職を、考えた。
だが最後の最後で、いつも踏みとどまった。
──「会社があるから」。
その安全網がいま、なくなっていた。
「徳殿」
雪麗の声が、後ろから、響いた。
林徳はゆっくり、振り返った。
雪麗が、戸口の傍まで、来ていた。
「雪麗さま」
「お一人で、考えておられますね」
「左様でございます」
「私もご一緒に、よろしいでしょうか」
林徳は深く、頷いた。
二人は、戸口に並んで、外の朝を、見た。
◇ ◇ ◇
雪麗の声は静かだった。
「徳殿。──昨夜私は『あなたさまの居場所は人だ』、と申しました」
「はい」
「あの言葉は慰めではございません。──私は十二歳で亡国の姫となりました。父も母も王宮も、何もかも失いました」
「……」
「あの時、私には戻る場所がありませんでした。──ですが私は生き延びました。なぜなら私を人として扱ってくれた人々が、おられたから」
雪麗の声に、震えはなかった。
亡国の姫の二十年。
その経験の重みが、十歳の林徳の隣でゆっくりと語られていた。
「徳殿。──私は亡命者として生きる、その意味を誰よりも知っております」
「雪麗さま」
「ですから、申し上げます。──ホームは土地ではなく、人です。──あなたさまには、私たちがおります」
林徳の十歳の頬に、また涙が、伝った。
四十年の社畜の心が、もう一度、雪麗の言葉に、救われた。
◇ ◇ ◇
「雪麗さま」
「はい」
「私はこれから、どうすべきでしょうか」
雪麗はしばらく、答えなかった。
彼女の頭の中で、宮中で培った政治の知識が、ゆっくり整理されていた。
「徳殿。──三つの道がございます」
「お聞かせください」
「一つ。──玄朝に、亡命なさる。──玄朝の中で、第三勢力として、生きる。ですが、これは、明国の、本物の敵になることでございます」
「……」
「二つ。──明都に戻り、夏明国王さまから、追放処分を、お受けになる。──ですが、田家村も、明国の中ですので、戻れません」
「三つ目は」
「三つ目は、私が宮中で見てきた、ある生き方でございます」
◇ ◇ ◇
雪麗の声が、低く続いた。
「明国の中にも玄朝の中にも、入らない生き方。──両国のどちらも手を出せない孤立勢力として、田家村を独立させるのでございます」
林徳の戦盤が、瞬時に回り始めた。
四十年の社畜の頭が、雪麗の言葉をゆっくり理解した。
「具体的に、いかがされますか」
「田家村は明国南の辺境。明都の支配は、もともと薄うございます。──そこで夏明国王さまに密かに、お願いを申し上げる。『明国の中で林徳どのを追放処分にしてください。ただし田家村は、明国の支配外とご認定ください』、と」
「……」
「明国の中で、林徳どのを、追放したと、玄朝に、報告すれば、玄朝の、引き渡しの、要求は、形式的に、収まります。同時に、田家村が、明国の支配外なら、明国の追放処分の、対象にも、ならない。──田家村は、明国でも、玄朝でも、ない、第三の場所になります」
「雪麗さま、それは──」
「夏明国王さまのご決断次第でございます。──ですが夏明国王さまは、徳殿の犠牲を誰よりも悼んでおられます。きっと、ご決断くださいます」
◇ ◇ ◇
林徳の体が、わずかに震えた。
四十年の社畜の経験で、彼は、知っていた。
──「これは宮中の、政の駆け引きの最高峰」。
雪麗の頭の中で、彼女が宮中で二十年見てきた政の駆け引きが、いま林徳の救いの糸になっていた。
「雪麗さま、ありがとうございます」
「徳殿、お気持ちはいかがでしょうか」
「三つ目の道で参ります」
「ご決意、ありがとうございます」
雪麗は深く、頭を下げた。
亡国の姫の、矜持と、感謝が、その所作に、表れていた。
◇ ◇ ◇
囲炉裏の周りに、五人が、集まった。
関明徳は、布団の上で、上半身を、起こしていた。
関明慶、蓮、雪麗、林徳が、囲炉裏を、囲んだ。
林徳がゆっくり、口を開いた。
「皆さま。──雪麗さまから第三の道を、お聞きしました。──田家村を明国と玄朝の両方の支配の外に、置く道」
「主、それは──」
関明慶の声に、深い驚きがあった。
「左様でございます、関どの。──私たちは、田家村に戻ります。そして、夏明国王さまに、密使を、送ります」
「明徳どのは、いかがされますか」
関明徳がゆっくり、口を開いた。
「林徳どの。──私は、玄朝近衛を、抜けました。もう玄朝には、戻れません。──私も、田家村に、お連れください」
「関明徳さま、もちろんでございます」
◇ ◇ ◇
蓮が、低く、口を開いた。
「徳殿、私は、田家村の村人だ。──主が、どこに行こうと、私も、ついていく」
「ありがとうございます、蓮」
「だが、一つ心配がある」
「お聞かせください」
「玄朝の追っ手が、田家村まで、来れば、村人が、危ない。──戦になる」
林徳の戦盤が、瞬時に回り始めた。
蓮の指摘は、最も、重要な、論点。
田家村の独立は、雪麗の知略で可能。
だが、玄朝が、それを、認めなければ、追っ手が、来る。
◇ ◇ ◇
「蓮のご指摘は、最も大切でございます」
雪麗が答えた。
「ですから、私たちは、田家村に、辿り着く前に、ある、準備を、しておかねば、なりません」
「ある準備、と申しますと」
「夏明国王さまに、玄朝への正式な返答を出していただきます。──『林徳は明国を勝手に抜け出した独断者である。明国は彼の身柄を引き渡す権限を持たない。なぜなら田家村は、明国の正式な支配下ではないからである』、と」
「……」
「これで、玄朝は、明国に、林徳どのの引き渡しを、要求できません。代わりに、玄朝が、田家村に、直接、追っ手を出すことには、なります。ですが、その時は、村の地形と、銭弼さまの守りで、対応いたします」
関明慶が、深く頷いた。
「主。──雪麗さまのお知恵は、本物でございます」
「左様でございます、関どの」
◇ ◇ ◇
その時、関明徳が低く口を開いた。
「林徳どの。──お一つ、お話が」
「お聞かせください」
「私が、五年、玄朝に潜伏していた時、玄朝の中の、ある勢力と、繋がりを、持ちました。──玄朝・袁派ではなく、別の派閥」
「別の派閥、と申しますと」
「玄朝・陳派。──袁派と長年、対立してきた宦官派閥。──彼らは季雲と袁派の連携を、快く思っていません」
「……」
「私がお声をかければ、彼らは玄朝の中で季雲の動きを、牽制してくれるかもしれません」
林徳の戦盤が、また回り始めた。
──玄朝の中に、季雲の敵がいる。
その情報は、林徳にとって、初めて攻めの、駒になる材料だった。
「関明徳さま。──いずれお頼みすることに、なるかもしれません」
「いつでも、お声がけください」
◇ ◇ ◇
昼前。
五人が、隠れ家を、出た。
関明徳の傷は、まだ痛んでいた。
だが彼は、馬に乗れた。
関明慶が、弟の馬の手綱を、握っていた。
兄が、弟の馬を、引いて、走る。
武人としての二十年の中で、関明慶の最も誇らしい瞬間だった。
「お頼み申し上げます、皆さま」
林徳が、隠れ家の前で、馬上から、頭を下げた。
関明徳の協力者・張の墓は、別邸の正門の近くにあった。
行けなかった。
だが林徳は心の中で、深く頭を下げた。
──「張さま。──関子陽さまの遺志、必ずお果たしいたします」。
◇ ◇ ◇
五頭の馬が、玄朝の街道を南へ駆けた。
明国の国境まで、馬で二日。
その間に、追っ手が、来る可能性が、あった。
関明徳が、先頭で、玄朝の街道の、抜け道を、案内した。
主要な街道を、避けて、山道を、進む。
追っ手の目を、避けるため。
雪麗は、林徳の馬の後ろに乗っていた。
二月ぶりに、二人で、同じ馬に、乗った。
馬上で、雪麗が、林徳の十歳の体を、後ろから、しっかり、抱えていた。
彼女の白い手が、林徳の小さな胸の前で組まれていた。
その温もりが、林徳の四十年の社畜の心をゆっくり温めていた。
◇ ◇ ◇
その時、玄朝の街道。
季雲を乗せた馬車が、明都の方角へ、戻っていた。
彼女の手元に、新しい情報があった。
関明徳と、林徳一行が、玄朝の南へ、向かっていた。
明国に、戻るつもり。
季雲は、わずかに頷いた。
(予想通り。──林徳どのは、明都ではなく、田家村に、戻られる)
彼女は、すでにそれも、計算済みだった。
次の手は、夏明国王に、圧力を、かけること。
明都に戻る前に、彼女は、自分の手で、夏明国王に、書状を、送らせる。
その書状は、夏明国王に、苦しい選択を、迫るものだった。
──「林徳を、追放処分にし、田家村を、明国の支配外と、宣言せよ。さもなくば、玄朝との、本物の戦になる」。
季雲の口元が、わずかに緩んだ。
雪麗の知略を、彼女は、見抜いていた。
歴史学者の、計算は、まだ終わっていなかった。
◇ ◇ ◇
夕暮れ。
五頭の馬は、玄朝の街道の山道を走り続けていた。
雪麗が、林徳の耳元で、低く、囁いた。
「徳殿」
「雪麗さま」
「お疲れでしょう。──少しお休みになってください」
「ありがとうございます」
林徳は、雪麗の腕の中で、わずかに目を、閉じた。
馬の蹄の音。
関明徳の咳。
関明慶の声。
蓮の弓の、布が、揺れる音。
その音の中で、林徳は、初めて彼の本当の、ホームを、感じていた。
土地ではなかった。
人だった。
◇ ◇ ◇
その時、明都。
夏明国王の、謁見の間。
許明が、青ざめた顔で、夏明国王の前に、立っていた。
「夏明国王さま」
「許明、いかがした」
「玄朝中央から、正式な書状が、届きました」
夏明国王の顔色が変わった。
書状を受け取った。
封蝋に、玄朝の正式な紋章。
書状の内容を読み終えた、夏明国王の体が、わずかに震えた。
「林徳どの、お早く戻られよ」
夏明国王は、心の中で、呟いた。
彼の手元には、玄朝からの正式な圧力。
もし、林徳の身柄を、引き渡さなければ、玄朝との、戦が始まる。
もし、引き渡せば、彼の最も信頼する、若き才能を、失う。
二十代後半の若き君主の前で、本物の政治の試練が始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
まだ林徳は、知らない。
夏明国王がいま、玄朝からの正式な書状を受け取っていることを。
そして、彼が苦しい選択の前に立たされていることを。
雪麗の知略の道。
夏明国王の決断。
季雲の次の手。
三つの力がぶつかり合う、最終局面が近づいていた。
馬上で雪麗の腕の中で、林徳はわずかに笑っていた。
桃に会える。
徐おじさま、陳おじさま、張おじさまの墓に、お参りができる。
銭弼さまに、ありがとうを、言える。
田家村がいま、彼の唯一の土地のホーム。
その村のために、彼は、明日からも、戦う。
四十年の社畜の心は、もう揺らがなかった。
─ 第三十三話 了 ─
次回、第三十四話「夏明国王の決断、田家村の影」




